№36:赤木城(三重県熊野市)

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赤木城縄張り図

 赤木(あかぎ)城は、旧国名を冠して「紀伊赤木城」とも呼ばれることから和歌山県にある城跡と誤解されることもあるが、実際には三重県の城跡である。もっとも同城は、三重・和歌山・奈良の3県境が複雑に交差する非常に山深い地点に位置している。

 
 筆者は南紀の出身で今も実家があるが、赤木城は永らく“近くて遠い城跡”であった。織豊系城郭の縄張りや石垣を研究テーマとしている者としては、是非とも訪城して資料化したいところだが、交通の便が悪そうでそれまで二の足を踏んでいた。しかしどうしても訪城したい想いが募り、意を決して熊野市役所紀和庁舎に電子メールでアクセス手段を問い合わせてみたところ、後日、大変丁寧な返事が返ってきた。
 
 それによるとバスの便はあるにはあり、JR新宮駅前から出ていて終点は目指す赤木城のすぐ近くらしいが、便数は1日僅かに1便で、しかも終点からの折り返し時間が30分ほどしかないとのこと。またタクシー利用の場合、新宮駅から往復2万円近くかかるとのことであった(情報は2012年当時のもの)。今日LCC利用だと、関西空港から韓国・釜山までの往復航空券が2万円でお釣りがくる時代に、である。
 
 そのような状況で訪城も夢のまた夢かと思われていたが、“持つべきは何とか”で田舎の旧友で和歌山城郭調査研究会の会員でもある城友に、2013年のお正月休みを利用して自家用車で一緒に踏査して頂けることとなった。現地に到着するやいなや、もう一生訪れる機会がないかもしれないと思うと、冬場の早い日没に間に合わせるべく、持参した昼食を摂る時間も惜しんで縄張り図作成に取り掛かったのであった。

さて赤木城三重県熊野市紀和町に所在するが、平成の合併前は「三重県南牟婁郡紀和町」と呼ばれていた。城跡の眼下を流れる赤木川を下ると、途中から本流の熊野川と合流して太平洋に注ぎ、地理的には下流和歌山県新宮市側との結びつきが強い地域である。

 
 当城は1586(天正14)年、地侍が起こした天正北山一揆の平定後の1589(天正17)年に築城された。築城者を特定する一次史料はないが、当時、藤堂高虎が統治を任されていたことから、藤堂の築城と見る向きか趨勢である。
 
 また1612(慶長19)年には慶長北山一揆が勃発し、この時にも同城が再度利用された可能性が指摘されている(前千雄1980「赤木城」『日本城郭大系』10、新人物往来社)。ただし石垣遺構を見る限りでは天正年間止まりであると思われ、仮に慶長北山一揆で再利用されたとしても、大規模な改修はされていないと考えられる城跡は、標高230m(比高30m)の通称「城山」に占地する。縄張りは小規模ながらも、全山を石垣で固めた総石垣造りとし、ちょうど“天空の城”として有名な竹田城(兵庫県朝来市)をハーフサイズにしたような印象である。ただし地表面観察でも発掘調査でも瓦は見つかっていないことから、屋根は板葺や桧皮葺のような構造であったと思われる。

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写真 Ⅱ郭から主郭をのぞむ(植本夕里氏撮影)
 Ⅰ郭が主郭で、AとCの2か所に横矢掛かりの張り出しを設けている。天守台は存在しないが、特にAは位置的に見て天守相当の櫓が建つに相応しい場所である。またCは隅櫓状に突出し、2方向の側面に対して射撃を可能にしている。南側に主郭への唯一の出入り口となる虎口Bを開口するが、内枡形と外枡形を組み合わせた複雑な形状となっている。

 

 Ⅱ郭の虎口Dは内枡形であるが、上下の曲輪間で結構な段差がある。おそらく往時は、木製の階段のようなものを設置して昇降していたのであろう。Ⅲ郭には大手門相当の虎口Fを開口する。ここからⅠ郭まで4回折れて進むことになり、小規模な城域にもかかわらず導線を巧みに配して、横矢を掛ける工夫がなされている。

 
 Ⅰ郭の背後にはⅣ郭を置き、Ⅱ郭と犬走りで連結することで、主郭を介ぜずに前後曲輪間の移動を可能にしている。その先端部には、1条の堀切を設けて尾根筋を遮断している。
 
 Ⅴ郭には小さな石組の枡状遺構Gが残る。Ⅵ郭は、両脇を尾根に囲まれた谷間に3段の削平地を設けている。発掘調査により竈が出土していることから、ここが平素の生活の場であり、山麓居館的な空間であったとみられる。
 
 このように当城は、小規模な城域にもかかわらず、何度も折れる枡形虎口や、横矢掛かりの張り出しなど、非常に純軍事的な匂いのする城郭である。まさに一揆平定後の当地に睨みを効かすために、ここに築城されたことを雄弁に物語っている。
 
 赤木城は、晩秋や早春の頃になると雲海が発生することから、近年“第二の天空の城”として脚光を浴びつつある。“自称”城郭研究家としてはマイナーな城跡が全国区になることは嬉しい反面、観光客が増え過ぎて安土城(滋賀県近江八幡市)や竹田城のように立ち入り禁止区域が増えてしまうと、研究活動そのものにも支障をきたしかねず、それだけは御免こうむりたいものである。
(文・図・写真:堀口健弐)

№35:梁山倭城(大韓民国慶尚南道梁山市)

梁山倭城縄張図
 
 1996年の確か秋頃、梁山(ヤンサン)倭城が土取り工事で消滅するという、ショッキングな情報が飛び込んできた。さっそく筆者が所属するお城の研究会で、破壊前に地表面調査による調査を行い、その記録を残さねばという話しになって、有志で12月20・21の2日間にわたって実地踏査を行った。
 
 韓国は12月に入ると途端に寒くなり、城跡のすぐそばを流れる小川には分厚い氷が張り、寒さを堪えながら各人、縄張り図、石垣、瓦といった決められた役割分担の調査を黙々とこなしたのであった。その時の成果は、既に紙上で報告済みである(城郭談話会1998『倭城の研究』2、他)。
 
 結局この“消滅”情報は誤報であったことが分かり、帰国後に一同胸を撫で下ろしたのであった。しかしこれは決して笑い話ではなく、当時はこのような怪情報も信じてしまうような危機的な状況にあった。倭城は植民地時代に日本政府が史跡指定したものを、独立後の韓国政府もそれを引き継いできた。また倭城自体が寒村に所在するものが多く、開発の手がおよびにくい環境にあったことも幸いした。
 
 ところが1990年代後半頃に入ると、急速に雲行きが怪しくなってきた。その頃から韓国も経済発展を遂げ、特に釜山周辺では新たな高速道路の建設や、釜山新港建設に伴う大規模な埋立と、そのための土取り工事があちこちで行われるようになった。事実この時期には、金海竹島(キメジュクト)倭城(釜山広域市)、加徳(カドク)倭城(同市)、安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)、順天(スンチョン)倭城(全羅南道順天市)などが軒並み開発対象となった。
 
 幸いにも各自治体の文化財担当部局が歴史的重要性を訴えた結果、保存、もしくは最小限の破壊で済むように設計変更して、倭城が開発の手から守られた経緯があったのである。
 
 その梁山倭城であるが、初訪城当時の交通手段は国鉄「勿禁(ムルグム)」駅が最寄駅だったが、普通列車が1日数本しか停まらない超ローカル駅であった。その後2000年代に入って都市鉄道2号線が梁山市内まで開通し、2015年には待望の「甑山(チュンサン)」駅が開業した。これにより梁山倭城は、駅から登り口まで徒歩20分ほどで行ける“駅前倭城”の仲間入りを果たしたのであった。
 
 初訪城時は田園地帯に農家が点在する長閑な農村風景であったが、駅の開業と同時に駅前には商業ビルやタワーマンションが相次いで建設され、いきなり新しい街が一つが突然誕生したような賑わいである。それに伴って道路区画も新たに整備され、今春5月の踏査では昔歩いた農道が見当たらず、城跡の登り口へ辿り着くのも一苦労であった。
 
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写真1:梁山倭城遠望
 
 さて梁山倭城は、釜山の北隣に位置する慶尚(キョンサン)南道梁山市勿禁面甑山里に所在する。洛東江(ナクトンガン)の左岸支流の梁山川が合流する沖積地に立地し、標高130m(比高120m)の瓢箪形の小山「甑山」に占地する(写真1)。現在は河道が後退しているが、朝鮮時代後期の1750年代初めに描かれた古地図『海東地図』(梁山博物館蔵)によると、甑山のすぐ南側まで川岸が迫り、漢字で港を意味する「津」と記されている。このことから、往時は洛東江に直接望む水城であったと考えられる。
 
 当城は1597(慶長2)年、黒田長政により築かれた。しかし敵陣に突出しすぎて危険という理由で、僅か1年たらずのうちに廃城となった短命の倭城である。なお現地説明板に「伊達政宗の築城」旨とあるのは、明らかな後世の誤伝である(太田秀春2005『朝鮮の役と日朝城郭史の研究』清文堂)。
 
 縄張りは、山頂とそこから派生する尾根続きの小ピーク上に曲輪を設け、その間を2条の登り石垣で連結し、さらに両翼から山麓に向かって竪堀を落とし、城外側には石垣の周囲に長大な横堀を巡らしている。この横堀は一部で二重になっている。さながら城域自体が1枚の城壁のような印象を受け、その“城壁”に守られるように山麓居館(Ⅳ郭)を設けている。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。東西両方向に枡形虎口A・Bを開口し、北東隅に天守台Cを設けるが、この天守台自体が枡形虎口の一翼を担っている。天守台上には2000年代まで、山火事監視用の小さなコンテナハウスが建てられて、監視員が昼間常駐していたが、現在は撤去されている。
 
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写真2:Ⅱ郭の矢穴石垣
 
 Ⅰ郭とⅡ郭とを結ぶ登り石垣の暗部には、南北両方向に虎口D・Eを開口する。
 
 Ⅱ郭は独立性の高い、一種の堡塁的な曲輪である。ここの石垣には矢穴が2か所残る。このうち写真左手の矢穴は、まず輪郭を点彫りして掘る位置を下書きしているが、何らかの理由で断念している(写真2)。これ以外にも矢穴の残る、本来の石垣石と思われる転石が見られる。
 
 ただし当城は、植民地時代に国鉄京釜線の建設用資材として石垣を持ち去ったとされており(太田秀春2008『近代の古蹟空間と日朝関係』清文堂)、これが当時の矢穴か、それとも近代のものかの見極めが難しい。
 
 なお縄張り図上ではあえて図示していないが、今はもう使われなくなった韓国陸軍の演習用陣地が残されており、Ⅱ郭を取り巻くように二重の同心円状の塹壕と、前後の塹壕を連結する交通壕が張り巡らされている。またⅡ郭のすぐ東下にはヘリポートまで設けられている。戦国の世と現在の軍事施設とが同居していて、実に面白い風景である。
 
 Ⅲ郭も小規模ながら、独立性の高い堡塁状の小曲輪となっている。
 
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写真3:山麓居館(Ⅳ郭)
 
 Ⅳ郭は山麓居館である。山城の石垣が高さ3m程度に対して、当曲輪は目測で高さ6mほどもありそうな高石垣を築いている(写真3)。現在は畑に利用されおり、地表には朝鮮時代の白磁椀・皿などの陶片の散布が見られる。おそらくこちらが生活空間の場であったのだろう。
 
 なお山城と山麓居館とは山道で繋がっており、これが本来の城道と思われる。数年前までこの山道は通行可能であったが、今年5月の踏査時には完全に笹竹のブッシュに埋もれてしまって、山道そのものが完全に消滅した。
 
 梁山倭城“消滅”の情報は誤報であったが、同城周辺は開発の速度が速く、急激に環境が変化しつつある。史跡に指定されていることもあり破壊に及ぶ可能性は低そうであるが、何とかこのまま良好な状態で、後世に受け継がれていくことを願うばかりである。
(文・図・写真:堀口健弐)

№34:安宅八幡山城(和歌山県西牟婁郡白浜町)

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安宅八幡山城縄張図
 
 筆者が生まれて始めて訪れたお城は、小学校4年生の遠足での和歌山城で、2番目は小学校の修学旅行での大坂城である。この時はそれなりに楽しんで帰った記憶があるが、現在の城郭研究には直接繋がっていない。人生3番目に訪れ、そして初の中世城郭の訪城となったばかりでなく、その後の中世城郭研究にのめり込む切っ掛けとなったのが、今回紹介する安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城である。
 
 筆者は幼少期から、歴史や科学などのノンフィクション系の本を読むのが好きであった。中学校では必ずクラブ活動に参加しなければならず、奇しくも入学時に誕生したばかりの歴史クラブに入部した。入部してすぐに顧問の橋本観吉先生から「あの山は中世の城跡だよ」と教えて頂いた。その山とは筆者の自宅の真ん前で、川向であるが直線距離にして僅か600mほどであった。
 
 俄然興味が湧いてきて、同じ部員の友人たちと早速休日を利用して探索に出かけた。確か1977年の6月頃だったと思う。初訪城時は山頂部が擂鉢状に窪んでいることしか分からなかったが、踏査を繰り返すうちに、窪んでいるように見えたのは曲輪の周囲を土塁が取り巻いているのだと分かった。
 
 また山道を外れて雑木林に分け入ると、それまで気付かなかった新たな曲輪・堀・石積みなどの存在を見つけ、さらには友人が青磁常滑焼の破片まで見つけ出してしまった。このように山中の探索を繰り返すうちに、探せば探すほど遺構・遺物が見つかる中世城郭の魅力に、完全に取りつかれてしまったのであった。
 
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写真1:安宅八幡山城遠景(手前の小山)
 
 さて安宅八幡山城は、紀伊半島南端の和歌山県西牟婁(にしむろ)郡白浜町に所在する。城跡は日置川の左岸に面した、標高83m(比高70m)の半島状丘陵に占地する(写真1)。現在は丘の東麓が深田池となるが、江戸時代の古地図『安宅一乱記巻末絵図』によると、東麓と西麓がにそれぞれ沼に描かれており、往時は両脇の沼が天然の水堀の役割を果たしていたようである。
 
 当城は熊野水軍の一派で、南北朝期から室町時代末期にかけて日置(ひき)川下流域を支配した、安宅氏(安宅水軍)の持城である。日置川と安宅川の合流地点に安宅本城を構え、これを守備すべく輪形陣に支城群を築いている。現在同町では、この一帯を「安宅の里」と呼び、城跡の学術調査やシンポジウムを開催するなどして、地域振興に力を注いでいる。
 
 軍記史料『安宅一乱記』によると、当城は安宅定俊の居城で、安宅一族の跡目相続から発展した戦いにより、1530(享禄3)年に落城したとされる。現在も落城したとされる日には、麓の矢田地区民により、戦火に散った城主の魂を弔うささやかな祭礼が行われている。
 
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写真2:発掘されたⅡ郭の雁木(2004年1月撮影)
 
 縄張りは、急崖の東斜面を除く三方を堀切と横堀で曲輪群を取り巻き、急崖側にも竪堀を設けている。特に尾根続きの背後は、二重の堀切で遮断する防御意識が見られる。城域は決して広くはないが、切岸は高くて堀は深く、とにかく土木量の多い城跡である。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。周囲に土塁を巡らし、東北隅が土饅頭上に一段高くなっている。地元では城主を供養した塚と伝えられるが、位置的に考えて櫓台の可能性もある。土塁に虎口A・Bを開口する。虎口BとⅣ郭間は、石段で繋がっていたことが2003(平成15)年度に行われた発掘調査により判明した。
 
 Ⅱ郭は三方が土塁囲みで、土塁内面に石積みを施す。また発掘調査では、土塁上面に登る雁木が出土している(写真2)。主郭ではなくⅡ郭が発掘調査の対象に選ばれたのは、主郭の地面には地山の岩盤が一部露出しており、ここを発掘しても成果が少ないであろうと判断してのことだそうだ。
 
 Ⅲ郭は堀切をはさんでⅡ郭と土橋で繋がり、三方が土塁囲みとなるが、曲輪内の削平は極めて悪い。おそらく純戦闘的な機能を担った空間であろう。塁線には張り出しCがあり、堀底を攻め上がってくる敵兵に弓矢などで掃射可能である。
 
 堀切はいずれも岩盤を掘りぬいた、いわゆる「岩盤堀切」である(写真3)。尾根背後の大堀切からは、常滑焼もしくは備前焼の甕片が多量に見つかっている。東斜面は、目測で傾斜角度が70~80°くらいもありそうな岩肌が露出した崖で、とても敵兵がよじ登ってこれそうに思えないが、こんな所まで竪堀を2条設けており防御の厳重さが窺える。
 
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写真3:尾根筋の大堀切
 
 さてⅡ郭で行われた発掘調査では、『一乱記』の記述を裏付けるように焼土層が検出され、この焼土より上層には生活痕がなく、遺物は主に焼土より下層から出土した(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。このことから火災による消失後は、城は再興されなかった可能性が高い。
 
 出土遺物の内訳は、白磁皿、青磁椀、染付皿、備前焼甕・壺・擂鉢、瀬戸美濃焼皿、常滑焼甕、土師器皿などで、貯蔵具が多く日常の土師器類が少ない。遺物の年代観は、伝世品の可能性が高い貿易陶磁器を除外しても、14世紀から16世紀初頭までと実に200年近くにおよぶ時間幅がある。
 
 城郭存続期間の下限を示す備前焼擂鉢は15~16世紀初頭に位置付けられるが(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流―備前焼を中心にして―」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)、この年代は『一乱記』で当城が落城したとされる1530(享禄3)年に近い数値である。
 
 当城は長らく『一乱記』の記述に基づいて、安宅氏の一族内紛により灰塵に帰したと信じられてきた。しかし1980年代に入って縄張り研究が進展すると、紀州の中世城郭は1585(天正13)年に起きた豊臣秀吉紀州攻めに引き付けて年代を下げて考えられるようになった(村田修三1985「戦国時代の城跡」『歴史公論』115、雄山閣)。
 
 ところが発掘調査の結果、落城を裏付ける焼土層が見つかり、また遺物の年代観も16世紀初頭止まりであることから、結局は元の鞘に戻った格好となった。それと同時に『一乱記』の記述も全くの創作ではなく、ある程度の史実を基に脚色して書かれた可能性も出てきた。
 
 現在、白浜町では、安宅の里の城跡群として国史跡にしようと動いている。和歌山県内の国史跡の城跡は、和歌山城1件のみと寂しく、この数字は近畿地方でも最も少ない。筆者も国史跡に関わる調査や啓発イベントがあれば、有償無償に関係なく文化面で故郷に恩返しする意味でも、何らかの形で関われればと考えている。
(文・図・写真:堀口健弐)

№33:南海倭城(大韓民国慶尚南道南海郡)

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南海倭城縄張り図

 南海(ナメ)倭城は、大韓民国慶尚(キョンサン)南道南海(ナメ)郡南海邑船所里(ソンソリ)に所在し、釜山から見ると、順天(スンチョン)倭城に次いで2番目に遠い所に位置する倭城である。しかし釜山市内の西部バスターミナル(別名:沙上バスターミナル)から「南海」行きの長距離バスに乗車して終点で下車し、そこから徒歩約20分で到着すので
で、倭城の中では遠方にありながらも比較的訪城しやすいと言える。
 
 同倭城は、これまで計11回の訪城経験がある。1999年11月5・6日には、筆者が所属するお城の研究会で、今はもう無くなったが当時は終点のバスターミナルビルの上階にモーテルがあり、ここを拠点にして2日がかりで同城を徹底調査した。その成果は書籍で既刊である(城郭談話会2000『倭城の研究』4)。
 
 2013年11月15日には、“倭城ナビゲーター”の植本夕里氏を同城に案内した。南海に向かう途中のバス車内で、隣の席に座っていたアジュンマ(おばちゃん)が「飴ちゃんあげる」とばかりに飴玉を周りの人に配り始めて、私も一つ頂いてご賞味に預かった。釜山の風景はどことなく大阪を彷彿させるものがあるが、人々の気質も似ているということだろうか。
 
 そして今年5月11日、韓国の大学に留学中の学生君と合流して同城を踏査した。訪韓直前の口コミやインターネット情報によると、近時、天守台上の樹木と雑草が切り払われて、非常に見学しやすくなっているとのことであった。この天守台は、以前はド藪を通り越してまるでジャングルのような有様で、藪漕ぎに慣れた者ですら分け入ることができないほどの酷い状態であった。整備の主目的は三角点の設置のようであったが、地元の人々も当地が倭城跡であることを再認識したようだ。

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写真1 天守

 さて南海倭城は、南海島の東岸に位置し、眼前は昌善(チャンソン)島とに挟まれたカンジン湾に望む。入り組んだ入り江はいつも波穏やかで、確かに天然の良港である。城跡は標高40m(比高同じ)と標高20m(比高同じ)の、二つの低位丘陵に跨って占地する。丘の南側は、干拓事業中により現在は湿地状だが、往時は入り江が入り込んでカンジン湾に突き出た岬状の地形であった。
 
 同城は1597(慶長2)年、宗義智が築城を担当し、水軍諸将が守備を担当した。
 
 道路を挟んで北側の高い丘が母城で、南側の低い丘が子城である。総石垣造りだが、天守台を除くと石垣の高さは3~4m程度とそれほど高くない。Ⅰ郭が最高所で主郭である。現在は畑に利用されおり、地表面には白磁椀などの朝鮮陶磁器片の散布が多く見られる。

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写真2 軒平瓦(滴水瓦)と軒丸瓦

 西隅に付け櫓台を持つ複合式天守台Aを設ける。天守台周辺には以前から瓦片の散布が認められたが、樹木の伐採により多くの瓦片が存在することが改めて確認できた。おそらく天守などの中心的な建物に、瓦屋根が葺かれていたのであろう。これまでに同城で朝鮮半島様式の軒平瓦(滴水瓦)が発見されていたが(羅2000「南海倭城の滴水瓦」『倭城の研究』4、城郭談話会)、今回新たに軒平瓦と蓮弁紋の軒丸瓦も見られた。
 
 明国の従軍画家が慶長の役を描いた『征倭紀功図巻』によると、2層大入母屋屋根の上に高欄を巡らした小さな望楼を載せ、壁は下見板張りで、“犬山城”似の3層望楼型天守を描いている。日本文化を知らない明の画家が描いたのにもかかわらず、当時の天守の様子を具体的に写実的に描いており、史料として信憑性が高いと思われる。
 
 虎口BはⅠ郭へ至る枡形虎口となるが、主郭への導線が分かりにくい。なお北斜面には6条の“畝状竪堀群”状の微地形が見られ、これを竪堀群とする見方もある。ただし筆者の印象では、竪堀群にしては幅が広すぎる気もするので自然の谷地形のような気もするが、この辺は意見の分かれるところかもしれない。

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写真3 Ⅱ郭の石垣

 一方道路を挟んで南側にも出曲輪群が存在する。Ⅱ郭は丘の先端部に位置し、東・南・西の三方に石垣を積み、そのつち南・西は崩れて低くなっているが石塁状になる。この曲輪にも瓦片の散布が見られる。
 
 Ⅲ周辺は最高所であるが、一部に低い石垣の残欠が認められるものの、現状は畑に利用されており、中には自然地形に近い箇所もあり、どこまでが城の遺構か判断に苦しむ。
 
 丘麓の北西には、かつての外郭線の土塁の残欠C・Dが2か所に残る。幸か不幸か道路に削られたたmに土層断面が観察できるが、下1/3までが地山とほぼ同じ灰白色砂層で、その上2/3は拳大の礫を混ぜた褐色土層で、これが人工的な土盛りであることが分かる。おそらく往時は丘麓を囲郭していたのであろう。
 
 南海倭城は史跡には指定されていないが、近時、登り口に日本人研修者作図の縄張り図入り説明板が設置され、今まで存在を知らなかった地元住民にも認知されるようになった。これを機に、少しでも良好な状態で保存されていくことを切に願うものせである。
(文・図・写真:堀口健弐)

№32:周山西城(京都市)

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周山西城縄張図
 
 2020年のNHK大河ドラマは、明智光秀が主人公の『麒麟がくる』に決定した。筆者は大河ドラマの類はほとんど見ないのだが、それでも密かに期待していることがある。丹波地域には、明智光秀が築いたり改修の可能性が指摘されている城跡が多いが、これまで研究者や愛好家を除くと、あまり注目されてこなかった。しかしこれを契機に歴史本などで紹介されて、一挙に注目が集まりそうな予感がしている。
 
 過去のブログ「№13:周山城」でも記したが、筆者は1980年代終わりから1990年代前半にかけて、周山城の調査をライフワークにしていた時期があった。周山城は、1580(天正8)年に明智光秀が築城した総石垣で瓦葺きの城郭で、丹波国でも屈指の規模と構造を誇っている。その当時は周山城と言えば、城山一帯の石垣曲輪群のみと考えられてきた。
 
 ある日、周山城の西尾根付近を測量中に、自分でもよく分からないが何かに呼び寄せられるように、測量機材を置いたまま西尾根を西へ西へと歩き始めた。途中の二重堀切(写真1)を超えると植林されて比較的歩きやすく、さらにどんどん進むとピーク上の平坦地に出た。そこから平坦面が段状に続き、所々に土塁らしき低い高まりもあ見られた。ここには城はないはずなのにと想いつつ、その時はとりあえずカメラのレンズに収めておいた。
 
 後日、お城の研究会が終わった二次会の席で、城友たちにその写真を見せてみたところ、「城跡で良いのでは」旨のご意見であった。
 
 そこで日を改めて、周山城の測量手段と同じコンパストランシットを導入し、のべ4日がかりで測量図を作成した。当時この曲輪群に正式名称はなく、拙稿では「周山城(西峰曲輪群)」と仮称したが(拙稿2014「周山城(西峰曲輪群)」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)、近時、管轄の京都市教育委員会では石垣の城を「東城」、土の城を「西城」と呼び分けており、今後はこの呼称にならいたい。
 
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写真1:東城と西城を隔てる大堀切
 
 さて周山西城は、黒尾山に近い標高480m(比高200m)の小ピーク上一帯に存在する。縄張りは比高のほぼ同じ3か所の小ピークと、それを結ぶ痩せ尾根上に跨って削平地を連ねている。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭と考えられ、上下2段になるが、特に下段の内部は削平がやや甘い。北西に外枡形虎口Aを開口する。この虎口は1990年代に入って開通した林道とニアミス状態で、豪雨にでも見舞われると崩落してしまいそうな危ない状態である。同じく南に、食い違いからカニばさみ状に変化する外枡形虎口Bを開口するが、この土塁は跨いで通れるくらいの低さである。いずれも織豊系城郭の虎口で、千田編年のⅣ期(1576~82年)に相当する(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。
 
 Ⅰ郭の西斜面下に帯曲輪が巡るが、縁辺部に一部低い土塁状の高まりが見られることから、もしかすると埋没した横堀の可能性もある。
 
 Ⅱ郭はⅠ郭に次ぐ独立性の高い曲輪である。削平が十分に行き届き、土塁を挟んでⅠ郭と対峙する格好となる。最高所の曲輪内部を一文字土塁で仕切るが、比高差のない曲輪を仕切る土塁は、丹波地方の中世城郭でしばしば見られる構造である。城域の西側斜面は全体的になだらかで、それをカバーすべく西の各支尾根に小規模な堀切や腰曲輪を設けている。
 
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写真2:信楽焼擂鉢片
 
 Ⅲ郭には約2m間隔で平な石が点在しており、建物礎石の可能性もある。曲輪内からは、別個体と思われる信楽焼擂鉢の破片が2点見つかっている(写真2)。これは木戸編年のB5類(16世紀前半~中頃)に相当する(木戸雅寿1995「信楽」『概説 中世の土器・陶磁器』真陽社)。
 
 このように石垣の城郭とその背後の土造りの城郭がセットで存在する事例には、但馬八木城(兵庫県養父市)があるが類例は少なく(谷本進2014「八木城」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)、織豊期の築城様式を考えるうえで貴重な遺構と言える。
(文・図・写真:堀口健弐)

№31:2018倭城踏査速報(後編)

(前編より続く)
 
5月13日㈰ 小雨のち晴
 
 昨日の午後から降り出した雨は、夜半過ぎには本降りとなっていたが、目覚めた頃にはほぼ上がりかけていた。
 
 本日の踏査地は、西洛東江(ナクトンガン)の左岸に位置する徳島(トクト)倭城と、右岸に位置する金海竹島(キメジュクト)倭城を予定していた。徳島倭城は城友からの口コミで、遺構は一切存在しないとの情報を得ていたが、それでも所在地と本当に遺構が存在しないことを自身の目で確認したかったことと、その対岸にある金海竹島倭城を学生君に案内し、自身も写真撮影を行いたかった。
 
 ところが沙上(ササン)バスターミナルに着き、時刻表を見て愕然とした。かつては15分間隔くらいで頻繁に出ていた金海行のバスが、午前10時台の次は午後4時台まで休止時間となってしまっている。その理由はすぐに察しがついた。数年前に釜山・沙上と金海市内とを結ぶ釜山金海軽鉄道(ニュートラムのような自動運転の電車)が開通して、バスの利用者が激減したためと思われる。しかし金海竹島倭城はバスでないと行きにくい所にあり、タクシー利用なら行きは良いが帰りのタクシーが拾いにくい。
 
 しかしショックに打ちひしがれていても時間だけが無駄に経ってしまうので、急遽踏査地を巨済(コジェ)島の古県(コヒョン)邑城に変更する。同島は釜山市の南西に浮かぶ、韓国で2番目に大きな島である。かつては市外バス利用だと片道3時間もかかり、所用時間で言えば釜山から最も遠い順天(スンチョン)倭城に次いで2番目に時間を要した。しかし本土から加徳(カドク)島を経て巨済島とを結ぶ巨加(コガ)大橋が開通してからは、バスで片道1時間ほどで往来できるようになった。
 
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古県邑城「鶏龍門」
 
 その目指す古県邑城は、古県バスターミナルで降りて徒歩約20分の所である。古県邑城は巨済島の中心的な邑城で、1432(世宗14)年に倭寇対策で築かれ、文禄の役では日本軍の攻撃の前に落城した。その後復興したが1663(顕宗4)年に廃城となった(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査成果―最近調査された邑城と鎮城を中心として―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
 同城は山麓から平地にまたがる恰好で築かれているが、現在では山麓側のみに遺構を残す。1991年に東亜大学校博物館により発掘調査が行われ、現在ではその成果に基づいて石垣の修築や、西門の門楼「鶏龍楼」の復元が行われた。城内は今も巨済市庁(日本の市役所に相当)となるが、城内に現代の役所が建つ様は日本も韓国も同じようである。ここでは学生君と一緒に、夕刻まで縄張り図の作成に時間を当てた。
 
 元来たルートで釜山・沙上まで戻り、ここで夕里さんと合流して、今回の旅で唯一3人が一緒に揃い、夕食は「プルコギが食べたい」と言う筆者にリクエストにより、チーズテジプルコギ(溶けたチーズを絡めながら食べる豚の焼肉)を食した。
 
5月14日㈪ 晴
 
 学生君は本日で帰宅の途に就くため、単独で密陽(ミリャン)市の密陽邑城を踏査する。沙上バスターミナルから市外バスで密陽バスターミナルへ向かい、さらに国鉄密陽駅方面行の市内バスに乗り換えて、「嶺南楼(ヨンナムヌ)」で下車するとすぐ目の前が城跡である。バスターミナルから徒歩でも2・30分程度の距離である。
 
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密陽邑城東門
 
 同城は1450(文宗元)年に改修が開始され、1479(成宗10)年に完成した(前掲羅文献)。文禄の役では小西行長との戦闘で荒廃したが、その後再建され朝鮮時代末期まで存続した。同城は一昨年秋に初訪城を果たしていたが、今回は縄張り図の作成を行った。前回の訪城時よりも城壁の復元工事が北進中で、既に東門と門楼の復元が完了していたが、残念ながらまだ上に登ることは叶わなかった。
 
 縄張り図の作成が当初の見込みよりも早く完了したので、直ぐに釜山・沙上に戻る。この日も夕里さんと合流予定だが、集合時間までまだ随分と時間があるため、近くにある亀浦(クポ)倭城を踏査する。同城は2000年代に都市鉄道2号線が開通して、最寄り駅の「徳川(トクチョン)」駅から徒歩約15分の“駅前倭城”の仲間入りを果たした。既に縄張り図は作成済みのため、この日は写真撮影に専念する。
 
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亀浦倭城
 
 当城は縄張り図作成のために、1990年代後半から2000年代にかけて頻繁に通っていたが、当時は主郭背後の曲輪がジャングルのような有様で、藪漕ぎするにも勇気がいるような状態であった。しかし数年前に樹木が綺麗に伐採されて、今までブッシュに覆い隠されていた見事な高石垣を拝めるようになった。
 
 夕食は夕里さんお奨めの定食屋のような小さなお店へ向かい、テンジャンチゲとキムチチゲを注文する。テーブルが席が4つくらいの小さなお店だが、ファーストフード店よりも1000ウォン高い程度で、チゲは美味しくパンチャン(おかず)の小皿も10皿くらい出てきて、非常にお値打ちでお味の方も大満足であった。
 
5月15日㈫ 晴
 
 事実上の最終日は、夕里さんと市外バスで慶州(キョンジュ)市の城郭を踏査する。世界遺産の慶州は“新羅千年の古都”で、古墳・寺院・博物館と言った名所旧跡や展示施設などの見所が多いが、城郭は他の文化財に比べてこれまで地味な存在であった。もっともこれは、日本の奈良や京都でも同じような状況かもしれない。しかし近年になって漸く城郭にも光が当てられるようになり、現在では遺構の修築や復元に着手している。
 
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復元工事中の慶州邑城「向日門」
 
 まずは第一の目的地である慶州邑城へ向かう。この邑城も文禄の役では加藤清正に攻められて荒廃したが、その後再建されて朝鮮時代末期まで存続した。現在は城壁の北辺と東辺の一部が残存し、石垣の修築と東門「向日門」の復元工事が進行中であった。また鶏林(ケリム)初頭学校の敷地と道路とを区画する箇所には、崩れかけた現存石垣を確認することもできた。
 
 ここでは暫く自由行動とし、筆者は縄張り図の作成に専念すると同時に、初訪城のためフィルムとデジタルの両方で写真撮影を行う。
 
 次に夕里さんの案内で、郊外に位置する明活(ミョンファル)城へと市内バスで向かう。現在は今秋まで石垣の修築工事中のために柵外からの見学となったが、それでも発掘調査で出土した石垣や、修築を終えた石垣を眺めることができた。この城の麓には、同城にあやかった「山城(サンソン)カルビ」と言う名の焼肉屋もあって、今度は是非とも来店したいところである。
 
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修築工事中の明活城
 
 再び市内へ戻り、「大陵苑(テヌンウォン)」と呼ばれる新羅王族が眠る古墳公園を探索しつつバスターミナルへと向かう。2000年代に訪れた時にはまだなかった、チョクセム遺跡発掘館と言う古墳の発掘現場に覆屋を掛けた展示館が建設されていて、石室や断ち割った墳丘などを発掘当時のまま見学することができた。
 
 釜山・沙上へ戻り、最後の晩餐はタッカルビ(鶏の焼肉)を食し、さらに席をビアホールに移して、旅の思い出を振り返りながら夜は更けていったのであった。
 
5月16日㈬ 小雨のち曇り
 
 昨夜から降り出した雨は、モーテルを出立するころにはほぼ止みかけていた。例年は帰国便が昼前の便なので、朝食もそこそこに慌ただしく空港へ向かうだけの日程だったが、今回は初めて午後4:30発の便なので、いつもよりもかなり時間の余裕がある。ただし飛行機は新幹線などと違って乗り過ごしたら大変なので、お城へは行かずに金海空港の近くにある金海市の博物館や古墳公園を見学する。
 
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国立金海博物館
 
 国立金海博物館はこれまでも何度か訪れ、リニューアルオープン後も2度目となる。ここでも先日の釜山博物館と同様に、日本の古代史と関わり合いの深い遺物が数多く並び、九州の弥生土器なども展示されていた。
 
 お土産売り場では、思いがけなく『密陽』と言うこれまた“電話帳”くらい分厚い図録を購入する。先日訪城した密陽邑城についても詳しく紹介されており、38000ウォン(日本円で約4000円)と少々お高かったが、日本ではなかなか入手困難な情報源でなので買わないわけにはいかなかった。
 
 その後キャリーバッグを引っ張りながら、お隣の大成洞(テソンドン)古墳群(通称“王家の丘”)と付属の大成洞古墳群博物館へ移動する。ここは金海博物館の別館で、発掘された古墳の石室の実物やレプリカを見ることができる。中には日本で作られた金銅製の装飾品なども副葬されていたが、古墳自体は典型的な伽耶の構造であることから、倭人が眠る墓というよりも、倭国と交流の深かった金海王族の墓と考えられているようだ。
 
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大成洞古墳群“王家の丘”
 
 ここでも多くの出土品が展示されていたが、最後の方は帰国便の時間が気になりだして、少々駆け足での見学となってしまった。その後金海国際空港へと向かい、無事に帰国の途へと就いたのであった。
 今回の踏査旅行では、作図途中の図面も含めて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の縄張り図を4城ほど完成させることができた。
 
 また合間を見て、古墳公園や博物館なども積極的に見学することができた。釜山市をはじめお隣の慶州市や金海市には、お城だけではなく日本の古墳文化とも関わり合いの深い遺跡や展示施設が多く、お城ファンのみならず考古学・古代史ファンも必見の地であることを改めて再確認する踏査旅行となった。
(文・写真:堀口健弐)

№30:2018倭城踏査速報(前編)

 2018年5月9日㈬~16日㈬にかけて、8日間(実質中6日間)の倭城踏査を行った。自身としては昨年3月以来1年2か月ぶりの訪韓であったが、今回は数字以上に久々に感じられた。当初の計画では、昨秋の10月か遅くても11月前半頃にと考えていたのだが、少々長丁場の発掘調査の仕事が入り、この間は暦どおりにしか休む事ができない。
 
 しかしその頃にはまだ悲壮感はなく、今季が駄目なら寒さの緩む3月後半頃をと本気で計画していたのだが、年度末に入っても報告書の原稿執筆を2本抱えて思ったほど時間が自由にならない。そんなこんなで年度も変わり休暇日数もリセットされた5月に入り、漸く休みがまとまって取れた経緯があった。
 
 さて今次踏査の主な目的は2題ある。一点目は、描きかけの縄張り図も含めて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の城郭を踏査して図面を作図すること。もう一点は、倭城をデジカメで再撮影することであった。筆者は総ての倭城をフィルムカメラで撮影しているが、インターネットに投稿することを考えると、フィルムからスキャンするよりもデジカメ画像を使用した方が綺麗なので、改めてレンズに収める必要性があった。
 
 作図した縄張り図はこれから多急ぎでトレース(清書)することになるが、今回もまずは写真のみで、踏査成果の一端を前・後編の2回に分けて報告したい。
 
 今回の踏査旅行は、“倭城ナビゲーター”の植本夕里女史と韓国の大学に留学中の学生君とが、入れ替わり立ち代わり同行する恰好での踏査となった。日本を発つ前は、釜山の週間天気予報を見て雨マークが心配であったが、日頃の行いが良かったのか、なんとか最低限の降雨で済んでくれたのは幸いであった。旅の前半は低温傾向で、上着があっても少し肌寒く感じられたが、半ば以降は初夏の強い日差しが容赦なく照りつける陽気となった。
 
5月9日㈬ 晴
 
 関西空港を午前11:00発のエアプサンで発ち、金海(キメ)国際空港で入国等の諸々の手続きを終えて、予約していた釜山駅前の釜山イン・モーテルに投宿すると、既に午後3時を少し回っていた。慌ただしく旅の荷物を解いて、夕暮れまでの残り少ない時間を利用し釜山倭城を踏査する。
 
 同城の最寄駅である都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅で、幸先の良いサプライズがあった。構内でミニ写真展「佐川歴史物語」が催されており、その中に倭城が写っている写真を3点見つけることができた。倭城が主題の写真ではなく、解説にも「倭城」の文字はどこにも無いが、いずれも見る人が見れば分かるレベルの写真である。
 
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1950年代の釜山倭城(ミニ写真展「佐川歴史物語」より)
 
 まず当時はまだ珍しかったカラーフィルムで撮影された、1950年代の佐川駅界隈の写真が目に留まった。その背景(写真左上方)に、釜山倭城の石垣がはっきりと写りこんでいる。同城には今も遺構が残るが、周囲の木立が成長したうえにアパート群が林立しており、今現在では麓から遺構を望める事ができず、非常に貴重な写真である。撮影者の記名はなかったが、おそらく豪州系韓国人のメ・ヘランとメ・ヘヨン姉妹(ともに故人)ではないかと思われる(※)。
 
 他にも1900年代初頃に撮影された、釜山倭城(トリミングして部分使用)や釜山子城台倭城(釜山鎮支城)の白黒写真もあった。子城台倭城を写した古写真は何点か存在するが、展示の古写真には朝鮮時代後期の鎮城の建物もはっきりと写っており、これも貴重な写真であった。
 
 さて釜山倭城の近くはよく通るものの、同城の踏査自体は実に数年ぶりであった。城跡は以前とほとんど変わらない様子であったが、主郭に展望台ができたと言う情報があって、是非ともこれに登ってみたかった。現在は木立が成長したため城跡から眼下を眺めることはできないが、展望台上からは釜山の港街全体が見渡せた。
 
 入国初日の夜は夕里さんと沙上(ササン)で待ち合わせして、カムジャタン(豚の背骨にこびり付いた肉をこそぎ落としながら食べる鍋料理)を食しながら、明日以降の作戦会議に花を咲かせた。
 
5月10日㈭ 晴
 
 事実上の踏査初日は、まず都市鉄道1号線「老圃(ノポ)」駅から市外バス(急行バス)に乗り、さらに市内バス(路線バス)に乗り換えて蔚山(ウルサン)市の蔚山兵営城へ向かう。「兵営城」とは朝鮮王朝のいわば“陸軍基地”で、同城は文禄の役の開戦当初に加藤清正に攻められて落城している。
 
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蔚山兵営城の東門
 
 昨春に一度踏査して縄張り図を作成途中であったが、一部は復元工事中のため立ち入ることができなかった。今現在では既に復元工事も終わって自由に見学でき、現存部分の縄張り図を作成することができた。
 
 前回踏査できなかった東門付近は、発掘調査を終えて雑にブルーシートを掛けたまま何か月も経過しているような雰囲気であったが、シートの合間からでも石垣遺構を垣間見ることができた。また東門の甕城(オンソン)の残欠を確認することもできた。ここも近い将来に史跡整備されるのであろう。
 
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蔚山倭城の修築された石垣
 
 作図作業が早目に終わったので、残りの時間を利用してすぐ近くにある蔚山倭城を踏査する。同城の石垣は、昨年から修築工事に入っているとの情報を得ていたが、既に修築工事が完成し、こちらも自由に見学することができた。元々この箇所の石垣は、残存状態が良くなかったが、真っ白く見える部分が新しく補充した石材で、日本式の石垣が蘇った格好となった。
 
 元来たルートで釜山市内まで戻り、夕食はファーストフード「キンパプ天国」にて、韓国を代表するB級グルメの辛ラーメンとキンパプ(韓国式海苔巻き)を食した。
 
5月11日㈮ 晴
 
 昨夜のうちに釜山入りして同じモーテルに宿泊している学生君と合流し、この日は終日、南海(ナメ)郡(南海島)の南海倭城を踏査する。同城は釜山を起点にして見ると、最も遠い順天倭城に次いで2番目に遠い場所に位置するが、沙上バスターミナルから市外バスに乗って終点の「南海」で下車し、下車後は徒歩約20分で目的地に着くので、意外と踏査の容易な倭城である。
 
 同城は既に縄張り図も作成して何度も訪城経験があるが、訪韓直前の口コミやインターネット情報によると、天守台が整備されて非常に観察しやすくなっているとのことで、是非ともレンズに収めておきたかった。
 
 まず登山口に着くと、さっそく日本人研究者が作図した縄張り図入りの説明板がお出迎え。当城は史跡には指定されていないが、地元民もこれを契機に倭城の存在を知った人が多いようで、踏査中にも明らかに農夫ではない方が天守台に登られていた。中には現地の方なのか日本人観光客なのか、会話を交わさなかったので分からなかったが、一眼レフカメラで熱心に写真を撮っている30~40代くらいの男性にも出くわした。
 
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南海倭城天守
 
 この天守台は、以前は草木が繁茂してジャングルのような有様で、藪漕ぎすらできない酷い状態であったが、木々が総て伐採され始めて天守台上に登ることができた。上面には三角点点が設置されていて、どうやら史跡整備ではなくこれが本当の目的らしい。しかし三角点が存在する以上、近々に開発工事などで破壊されることもないであろうから、まずは一安心である。
 
 学生君には縄張り図を描いてもらい、その間に筆者はフィルムとデジタルの両方のカメラで写真撮影に専念した。
 
 元来たルートで沙上まで戻り、夕食は以前夕里さんに案内された事のあるクッパの名店にて、テジクッパ(薄口の豚骨スープに豚のばら肉が入った雑炊風の料理)を食した。
 
5月12日㈯ 曇のち小雨
 
 朝目覚めるとどんよりと低い雲が垂れ込め、時間天気予報では午後1時より雨の予報が出ている。雨が降り出した時点で“雨天コールド”にする予定で、梁山(ヤンサン)市の梁山倭城を目指す。同城は、近年都市鉄道2号線「甑山(チュンサン)」駅が開業したおかげで“駅前倭城”の仲間入りを果たし、随分と踏査が便利になった。ただし以前は田園風景しかなかった所に街一つが新しくできたため、訪城するたびに景観が変貌し、道路区画まで変わってしまっていて、登山口まで辿り着くのにちょっとした苦労であった。
 
 ここでも学生君には縄張り図を描いてもらい、筆者は写真撮影に専念する。そして時計の針が午後1時を回ったところで、正に天気予報どおりの小雨がぱらつき始めたので、この時点で踏査を終了して下山を開始した。
 
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梁山倭城
 
 帰路は本来の大手道を下って山麓居館を案内しながら帰ろうかと考えていたが、これが思わぬ事態になることに。本来の山道は地元の人ですら近年は利用しなくなったのか、想像以上の荒れ放題である。竹笹ブッシュに加えて倒木がいたる所にあり、それでも藪漕ぎしながらの下山を試みたが、行けども行けども一向に道が開ける気配がない。これ以上無理に下山すると、藪漕ぎに慣れた者ですら前に進む事も戻る事もできなくなって危険と判断し、意を決してブッシュを直登して城跡まで戻り、新しく開通した遊歩道を見つけて何とか無事に下山することができた。
 
 日暮れまでの残り少ない時間を利用して、都市鉄道2号線「大淵(テヨン)」駅近くにある釜山博物館を見学に予定を変更する。同博物館な何度となく訪れているが、リニューアルオープン後は初めてとなる。釜山と言う土地柄、日本の古代史とも関わり合いの深い遺物が数多く展示されており、中には日本の九州の縄文土器や山陰地方と思われる古墳時代の土師器なども展示されていて、改めて日韓交流の歴史を体感したのであった。
 
 館内のお土産売り場では、もう一つの目当てである『釜山城郭』という“電話帳”くらい分厚い図録を購入する。同書には釜山市内の古代から倭城を含む近世にまで至る城郭を紹介しており、巻末には日本の城郭研究界でもお馴染の羅東旭(ナ・ドンウク)氏や北垣聰一郎氏の特論も収録されていて、これからの倭城研究にも大いに役立ちそうである。
 
 夕食は博物館近くにある焼肉屋にて、韓国料理の定番であるサムギョプサル(豚の三枚肉の焼肉)を食した。考えてみれば、韓国に入国以来、初めての焼肉料理にありついたのであった。
 
※メ・ヘランとメ・ヘヨン姉妹は、豪州人の医師で宣教師の父と看護師の母を持つ。両親は朝鮮戦争で荒廃した釜山に孤児院やハンセン病病院を設立し、姉妹も両親の志を受け継ぎ復興に尽力した。姉妹は晩年を故国の豪州に戻り、余生を送った。
 姉妹は写真が趣味で、当時まだ普及段階にあったカラーフィルムを用いて、釜山市内の様々な風景をレンズに収めた。現在、写真の原版は京畿(キョンギ)大学校博物館が所蔵する(WEBサイト「ハフポスト日本語版」)。
 
(後編へ続く)
(文・写真:堀口健弐)