№1:永登浦倭城(大韓民国慶尚南道巨済市)

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永登浦倭城縄張図

 当ブログの最初の報告は、韓国の巨済(コジェ)島に残る永登浦(ヨンドゥンポ)倭城である。

 永登浦倭城は巨済島の北端に位置する。同島は釜山にほど近い韓国で2番目にに大きな島で、本土との間が内海「鎮海(チネ)湾」となり、リアス式海岸が発達していて古来より天然の漁港となっている。鎮海湾を挟んだ対岸は安骨浦(アンゴルポ)倭城の位置する龍院(ヨンウォン)で、今もフェリーが発着する水運の要衝地である。この巨済島には文禄・慶長の役の際には、日本軍によって倭城が4城ほど築かれ、そのうちの3城までが近接した地域に築かれている。 

 巨済島では人生忘れる事のできない“事件”を経験したが、それは機会があれば今後触れてみよう。興味のある方は、以下の文献を一読されたい(福島克彦2004「巨済島の出来事」『城郭研究の奇跡と展望』Ⅱ、城郭談話会)。

 さて永登浦倭城であるが、標高230m(比高ほぼ同じ)の山頂を中心に占地する。1592(文禄元)年に島津義弘・忠恒が築城と在番を担当したとされる(黒田慶一1996「巨済島の倭城」『倭城の研究』1、城郭案話会)。山頂部に主郭を置いて天守台を設け、さらに痩せ尾根上を石塁で細かく仕切ることによって、曲輪を創出している。現地に立ってみると、この狭い尾根上に一体どのような建物が建っていたのだろうかと首を傾げたくなる。 

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永登浦倭城登り石垣

 永登浦倭城を最初に訪城したのは1996年4月29日だが、自身で縄張り図を作成したのは2003年11月21~23日にかけてである。

 当城にも倭城の特徴的なパーツである「登り石垣」が見られ、曲輪群の北端と南端から斜面(図面下方)に向かって2条の竪堀・竪土塁が延びている。登り石垣は山城と山麓居館や兵士の駐屯地とを囲いこんで上下を一体化させることに意味があるのだが、当城の場合は先端に居館などが存在せず、また竪堀・竪土塁の空間内は兵士の駐屯地に使用できるほど緩斜面でもない。どうにも中途半端な位置で終わっているように見えて、縄張りの解釈に苦しんでいた。 

 2013年4月30日・5月1日に再々度同城を踏査した際、同行した関東の城友から「竪堀・竪土塁の先端にも登り石垣が続いている」と指摘されたのだが「本当かなぁ、手の込んだ冗談なのでは?」と、その時は半信半疑であった。が、実際に行ってみると確かにそれは存在していた。

 竪堀・竪土塁は林道で破壊で破壊されてそこで終わっているようにも見えたのだが、その先からは緩斜面で石塁へと変化して、谷筋をカニばさみ状に囲い込むような形で存在していた(掲載写真)。谷には踏査時には水流は見られなかったが、明らかに過去に雨水が流れたような痕跡が見られた。おそらく雨が降った時にだけ水が流れるような谷なのであろう。

 考えるにこの登り石垣は、谷筋を攻め登ってくる敵兵をくい止める、あるいは水の手(水源)を確保する狙いがあったのではないのか?日本国内の城郭でも谷筋を登り石垣で遮断した周山城(京都市)や、竪土塁で遮断した山崎城(京都府大山崎町)などの事例がある。おそらく当城も、同様の効果を狙って構築されたものと思われる。

(文・図・写真:堀口健弐)