№2:旧永登鎮城(大韓民国慶尚南道巨済市)

f:id:horiguchikenji0726:20190318223840j:plain旧永登鎮城縄張図

 今回報告するのは、前回の続編とも言える旧永登鎮城(クヨンドゥン)鎮城である(*城郭談話会編『倭城の研究』1では「旧永邑城」と紹介したが、正しくは旧永登鎮城であり今回より呼称を変更する)。

 当城は韓国巨済島の北端に位置する。永登浦倭城の北麓に占地し(詳しくは前回ブログ「№1:永登浦倭城」を参照)、遺構の保存状況が比較的良好なことから慶尚南道の史跡に指定されている。永登浦倭城のある大峰(テボン)山を背にして、眼前は巨済島と本土に挟まれた加徳(カドク)水道で、鎮海(チネ)湾と外洋とを繋ぐ東側の出入り口となる海上交通の要衝である。

 この旧永登鎮城は1490(成宗21)年に築かれたが、1592(文禄元)年、日本軍の攻撃により落城した。そのご再興するが、1623(仁祖元)年になり廃止された(沈奉謹1995『韓国南海沿岸城址の考古学的研究』、学研文化社)。

 「鎮城」とは朝鮮水軍の基地で、多くは倭寇の侵入に備えて15世紀頃に築かれた。城壁には「角楼(カクル)や「雉城(チソン)」と呼ばれる横矢掛かりの突出部を等間隔に設ける。虎口を東西南北に開口するが、日本の丸馬出ににた「甕城(オンソン」)と呼ばれる半円形の城壁を外部に向かって突出させ、いわゆる“2折れ1空間”となる。また城壁の周囲に堀を巡らす時は、城壁から数mから時には十数m程度の空閑地を設けるのが特徴である。

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写真1:旧永登鎮城の日本式石垣(1996年撮影)

 さてこの旧永登鎮城の中心部には、日本式石垣で積まれた居館状の方形区画が存在する。この巨館状遺構は1996年の踏査段階では、先行研究はおろか城郭研究者仲間の情報網でも全くのノーマークであったが、“発見”の経緯はちょっとしたアクシデントが発端であった。

 1996年4月29日、筆者が所属するお城の研究会で永登浦倭城を踏査した際の出来事である。麓でタクシーを降りて永登浦倭城への登山口へ向かう途中、メンバーの1人が心が逸ってか、道先も知らないのに水先案内人よりも先へ先へと急ぎ、やがて本来の道を間違って進み始めたのであった。言葉も通じない外国で迷子になっては大変と、筆者が後を追うのだが、なかなかその距離が縮まらない。そうこうして追いかけているうちに、ふと脇に眼をやると日本の城跡で見慣れた石垣が横たわっているではないか。最初は何故日本風の石垣があるのだろうと不思議に思ってしまった。

 石垣が法面に傾斜を付けて積み、築石(つきいし)は「割り肌仕上げ」と呼ばれる石材を真っ二つに割った割れ口を表側に向けた積み方で、織豊期の城郭に多く見られる手法である。朝鮮半島の石垣は「あご止め石」と呼ばれる根石を水平に据えて、そこから少し後退させた位置から垂直に近い角度で積み上げるのを特徴とするが、明らかにそれとは異なっている(写真1)。

 考えるにこの石垣は、開戦当初に日本軍がこの鎮城を占拠し、朝鮮王朝側の城壁をそのままに、その中央に日本式の居館を築くことによって、日本側の城郭に再利用したと評価できるのである。同時に、永登浦倭城の山麓居館としても機能したのであろう。f:id:horiguchikenji0726:20190318233933j:plain

写真2:旧永登鎮城の日本式石垣(2013年撮影)

 この日本式石垣であるが、1996年当時は方形区画内に古びた民家が建っており、石垣の天端も多少崩れて荒城の雰囲気を醸し出していた。ところが筆者が2014年に再度訪城した際、かつての古民家は今風の建物に建て替えられ、それに伴って崩れた天端には良く似た大きさの石材を充填していた。オリジナルの石材はそのままであったが、写真だけを見るとまるで史跡整備された城跡のようである(写真2)。

 その後に同城を訪城された“倭城ナビゲーター”植本夕里氏が撮影した写真を見て愕然とした。野面積の石垣の隙間にコンクリートを充填しまって、こうなると見た目だけだは本当に日本式石垣が否かの検証もできなくなってしまったのである(WEBサイト夕里『倭城ナビ』を参照)。同様の行為は釜山倭城(釜山広域市)でも見られた。

 このように記すと、倭城は日本人の遺跡だから蔑ろにされているのでは?と思う向きもあろうが、どうもそうでもないらしい。路線バスを乗り継いで韓国を旅していると、古い民家の野面石垣にコンクリートを充填しているのを時々見かけるので、彼の国ではそれほど珍しいことではないらしい。

 しかし野面積の隙間は、曲輪面に降って地中に潜った雨水を外部に逃がす“暗渠”の効果もあると聞いている。隙間をコンクリートで塗り込めてしまうと、雨水の逃げ場がなくない、やがて石垣の孕みの原因ともなり、最悪の場合崩壊の危険性すらある。今直ぐにその危険性はないにしろ、遠い将来に何とかそのような事態にならないようにと願うばかりである。

(文・図・写真:堀口健弐)