№9:石垣山一夜城(神奈川県小田原市)

イメージ 1
 
  初めて石垣山一夜城を訪城したのは、忘れもしない1990(平成2)年8月6日のことである。筆者が初参加となった全国城郭研究者セミナー3日目の見学会にて、小田原城石垣山一夜城山中城を訪れた時のことである。
 
 セミナー2日目のシンポジウムも終了した当夜、城郭研究の先輩方と夜の繁華街に繰り出し、居酒屋にて城談義に花を咲かせながらの飲食会。筆者は決してアルコールに弱い方でも暴飲したわけでもなかったが、何故か当夜から翌日にかけて、人生で何度も経験しないような酷い二日酔いに見舞われた。おかげで見学会当日は、足元をふらつかせながらの踏査となった苦い経験があった。
 
 それから20年余りを経た2011(平成23)年、関東方面へ出向く用事が続き、同年4月15日と10月17日に再訪城して、2日がかりで縄張り図を作成した。但しⅢ郭(北曲輪)については、宗教法人「大本教」の敷地で許可なく立ち入りができないため、外周から距離計を用いて測距した。
 
 同城は、論文等では「石垣山城」の名で紹介されることが多いが、埋蔵文化財としての正式名称は「石垣山一夜城跡」であるので、本稿でもこれに準じて石垣山一夜城と呼ぶことにする。何より「一夜城」と言う言葉の響きも、個人的には何となく好きである。
 
イメージ 4
写真1:石垣山一夜城
 
 石垣山一夜城は、神奈川県小田原市に所在し、標高257m(比高ほぼ同じ)の笠懸山に占地する。城跡に向かう登山路からは、眼下に小田原城小田原市街を臨み、さらに相模湾をも一望することができる。
 
 当城は1590(天正18)年、言わずとしれた豊臣秀吉小田原城攻めの際に、豊臣方の陣所として築かれた。その名が示すとおり、関東では数少ない総石垣の織豊系城郭である。石垣の多くは、1923(大正12)年の関東大震災で崩落したとされるが、それでも各所に遺構を留めている(写真1)。
 
 但し城の年代については、古くから議論がある。1961(昭和36)年、久保田正男氏が天守台で「辛卯八月日」の銘文のある平瓦片を採集し、この年が1591(天正19)年に当るとした(久保田正男1969「真説 石垣山城の古瓦から見た研究」『日本城郭史論叢』雄山閣出版)。また1990(平成2)年、小田原市教育委員会が同じく天守台を測量調査中に、「天正十九年」の銘文のある平瓦片を採集している(大島愼一1995「石垣山一夜城の瓦の謎」『小田原城』学研)。
 
 瓦の銘文を文面どおりに受け取ると、当城は小田原落城の翌年もまだ普請が続いていたことを意味し、後北条氏討伐だけでなく、その後の関東支配も視野に入れた築城であったと見る向きもある。
 
 縄張りはⅠ郭(本丸)が主郭で、南西隅に天守台Aを設ける。これより前方に向かってⅡ郭(馬屋曲輪)、Ⅲ郭(北曲輪)、背後にⅣ郭(西曲輪)を連ねて、前後をバイパス機能のある帯曲輪で連結する。なお付言するならば、曲輪間には堀を掘っていない。あくまでも私論であるが、この曲輪配置はその後の豊臣系大名の山城で多く採用されている(拙稿2012「倭城の縄張りについて(その6)」『愛城研報告』16、愛知中世城郭研究会)。
 
イメージ 2
写真2:井戸曲輪
 
 なおⅡ郭には、水の手を守る「井戸曲輪」が付随する。踏査当時は石垣の修築工事に入る直前で木々を伐採していたので、以前の踏査時よりも随分と観察しやすくなっていた(写真2)。
 
イメージ 3
写真3:虎口Cの櫓門台
 
 Ⅳ郭には城内で唯一の隅櫓台Bがあるが、近世城郭を見慣れた眼からすると随分と少ない印章を受ける。勿論、櫓台を持たずに、直接地面に建てられていた可能性もあるのだが。その一方で、櫓門はC・D・Eの3か所に存在する(写真3)。これらから登城ルートの虎口防御を重視した、当時の縄張りの設計思想が見て取れる。
 
 さらにⅣ郭の背後、通称「大堀切」(自然の谷地形か)を隔ててⅤ郭(出曲輪)が存在する。ここは「笠懸古城」とも呼ばれるが、地表面観察では織豊系の石垣はおろか、土塁・堀・虎口等の城郭遺構は一切認められず、現在見られる石垣も近年の耕作地に伴う小ぶりで低い物である。本当に城郭遺構と判断して良いものか迷ってしまったが、とりあえず図化しておいた。この点については、将来の発掘調査などの公的な調査成果を待ちたいと思う。
(文・図・写真:堀口健弐)