№12:西生浦倭城(大韓民国蔚山広域市蔚州郡)

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西生浦倭城縄張図
 
 「生涯のうちに一度は見ておきたいお城は?」と尋ねられれば、筆者は迷うことなく西生浦(ソセンポ)倭城の名を挙げる。決して同城が倭城の中で一番好きと言うわけではないのだが、遺構の保存状態に加えて、縄張りの巧妙さや見栄えの良さなどを総合的に判断すると、やはりこの考えは動かしがたい。
 
 西生浦倭城の初訪城は、1990年5月26日のことである。自分の中ではまだ数年前のような感覚でいたが、改めて数え直してみると実に四半世紀も前である。それは筆者が所属するお城の研究会の踏査旅行で、同年5月24~29日にかけて5泊6日の日程で行い(うち2日間はソウル)、釜山周辺の有名な倭城を1日2城のペースで見て回った。当時は既に倭城址研究会より倭城本が刊行されていたが(倭城址研究会編1979『倭城』Ⅰ)、城郭研究の世界でもまだ倭城を訪れた研究者が少なかった頃である。
 
 その時の参加者は、大学教授1名を除くと、他は20代から30代の若手会員で占められていた。今思い返すと錚々たる顔ぶれで、現在は大学教授に博物館学芸員、埋蔵文化財調査員など、城郭研究の最前線で活躍している強者達である。
 
 その後、研究会での出版活動に伴う踏査会をはじめ、個人的、さらには筆者が幹事となってツアーを主催するなどして、合計12回の訪城を果たし、うち縄張り図作成だけでのべ7日間を要している。筆者は図面を描くのが人の倍以上遅いので、回数だけが無駄に増えてしまったが、これは決して自慢になる数字ではないと自覚している。
 
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写真1 西生浦倭城の登り石垣
 
 さて西生浦倭城は、釜山(プサン)広域市機張(キジャン)郡との郡境に近い、蔚山(ウルサン)広域市蔚州(ウルジュ)郡西生面西生里に所在する。城跡は標高133m(比高ほぼ同じ)の山頂と、海岸段丘を挟んだ海岸線に近い小丘陵にまたがって占地する。眼前には日本海(韓国呼称:東海)が広がり、遠浅の海は鎮下(チナ)海水浴場となっていて、夏場は海水浴客で賑わうそうである。
 
 同城は1593(文禄2)年に、後世に“築城の名人”と謳われた加藤清正が築城し、守備も担当したが、1598(慶長3)年の日本軍撤退に伴い廃城となった。慶長の役(韓国呼称:丁酉再乱)後は、朝鮮王朝側の西生鎮城として再利用されたが、朝鮮時代後期(17~19世紀)に描かれた絵画史料『蔚山西生鎮図』によると、鎮城は外郭線内(Ⅱ)の利用に留まり、山城は放置されたままとなっている(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会・城館史料学会)。
 
 縄張りは、山頂の山城(Ⅰ郭)と山麓の駐屯地(Ⅱ郭)、それに一城別郭(Ⅲ郭)の出曲輪群で構成される。Ⅰ郭が主郭で、西北隅に天守台を設ける。朝鮮側の史料によれば、実際に天守が建てられていたようである(松井一明2014「西生浦城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。この主郭を中心にして、山上に曲輪を連ねるが、各曲輪ごとに枡形虎口や食い違い虎口を連続して開口している。
 
 曲輪群は高石垣で築かれるが、石垣周囲にも横堀を巡らし、さらに横堀から数条の竪堀を落とすなど、日本国内の近世城郭ではほとんど見られない手法である。特にⅠ郭の南斜面には3条の竪堀群Aを設けている。「竪堀と脇の竪土塁を交互に三本以上並べて築いたもの」を畝状竪堀群とする見方もあり(千田嘉博ほか1993『城郭調査ハンドブック』新人物往来社)、この考え方に従えば同遺構も畝状竪堀群と見なすことができる。
 
 このⅠ郭を中心とした山城部分と、段丘の突端の小高い小丘(Ⅲ郭)とを、長大な登り石垣と竪堀による外郭線で連結して、その内側を駐屯地(Ⅱ郭)とすることで縄張りの一体化を図っている。現在でも外郭線内のⅡ郭に「城内(ソンネ)」、外郭線外の南側には「城外(ソンウェ)」の字名が残る。特に麓から山頂まで累々と伸びる長大な登り石垣の姿は、まさに「圧巻!」の一言であり、これを見るだけでも訪城の価値があると言うものである(写真1)。またⅢ郭には、海岸方向に面して「舟入」と伝えられる箇所(C)がある。
 
 城内には瓦片の散布が見られるが、地表面観察の限りでは総て朝鮮瓦である。史料によると、清正は本国肥後に対して瓦を焼いて船で送るよう指示を出しているが(中野等2014「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『加藤清正戎光祥出版)、同城内では和瓦の散布は一切見られず、この傾向は他の倭城でも同様である。おそらく指示は出したものの、何らかの事情で実現しなかったのであろう。
 
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写真2 櫓台に残る“二様の石垣”(右手が古くて左手が新しい)
 
 さて西生浦倭城の見所は、登り石垣も確かに素晴らしいが、決してこれだけに留まらない。同城では、後に清正が居城として築いた熊本城(熊本市)に繋がる要素が、城内の何カ所かで垣間見ることができる。
 
 熊本城には、「二様の石垣」と呼ばれる異なった時代の石垣が重なり合うようにして残り、訪城者の観察スポットにもなっているが、ここ西生浦倭城にも「二様の石垣」が存在する。曲輪のコーナーBに石垣を積み足して隅櫓台状に改修しているが、写真右手が古くて左手が新しい関係になる(写真2)。同城に残る石垣は基本的に反りが無く直線的であるのに対して、その後に積み足された石垣は僅かに反りが見られ、熊本城に見られる「扇の勾配」の萌芽を彷彿させるものがある。
 
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写真3 虎口Dの巨石角石
 
 ところで尾張名古屋城(愛知県名古屋市)では、枡形虎口に通称「清正石」と呼ばれる巨石が使われている。この割普請の丁場を担当したのは黒田長政だが、後世に「こんな巨石を運べるのは清正しかいないだろう」と誤伝されたのである。
 
 しかしここ西生浦倭城には、虎口Dの隅角部に正真正銘の「清正石」が残っている(写真3)。高さ2.5m×横幅1.2m×厚さ76㎝ほどで、現存する倭城の中では間違いなく最大の石材である。他の虎口では同様の巨石配置が見られないことから、ここが大手相当の虎口と思われる。
 
 ちなみに熊本城内で最大の石材は数寄屋丸の枡形虎口に残るが(富田紘一2008『熊本城 歴史と魅力』熊本城顕彰会)、西生浦倭城でもほぼ同規模の石材を使用している。既に倭城築城段階で、後の熊本築城に匹敵する大工事が行われていたことに驚きを隠せない。
 
 このように西生浦倭城には、後に天下の名城と謳われた熊本城のプロトタイプ(原型)とも言える遺構が残り、清正の築城技術の発展を考えるうえでも、大変重要な城郭遺構と言える。
(文・図・写真:堀口健弐)