№13:周山城(京都市)

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周山城縄張図
 
 周山(しゅうざん)城は丹波を代表する屈指の山城であり、また明智光秀と言う歴史上有名な戦国武将の築城でありながら、一部の城郭研究者・愛好家を除くと未だ知名度が高くない。もし石垣が崩れずに残されていたならば、おそらく但馬竹田城にも匹敵するくらい有名になっていたのではないか?それゆえに“知られざる名城”と言えるかもしれない。
 
 周山城は、京都市右京区京北(けいほく)周山町に所在する。もっともこれは“平成の大合併”で編入合併されて以降の住所で、それ以前は「北桑田郡京北町」と呼ばれていて、さらに“昭和の大合併”以前は「周山町」と呼ばれていた。今でも近畿圏では、「京北町」あるいは単に「周山」の呼び名の方が通りが良いかもしれない。
 
 筆者は、20代末から30代初めだった1988年から94年頃にかけて、周山城の調査をライフワークにしていた時期があった。周山と言えば随分と山奥を連想される方もおられるかもしれないが、筆者の自宅アパートから周山城までは、先ずバス停まで自転車を走らてせて、そこからJRバスに乗り換えて1時間ほどの距離なので、比較的手頃なフィールドであった。
 
 そして毎週末ともなると土曜日か日曜日を利用して、同城の踏査に没入していたのであった。踏査回数も、メモを引っ張り出して数えてみないと正確な数字は分からないが、おそらく合計40回程度は訪城している。今回報告する石垣の城だけでも、約30回は通い詰めているはずである。
 
 しかもこの当時は今よりも貧困状態で、蓄えもほとんどなくその日暮らしに近い生活であった。それでもせっせと貯めたアルバイト代を叩いて、当時の額で10万円ほどもしたコンパストランシット(水平バーニヤを磁針に替えたような簡易型トランシット)を購入し、専用三脚とリュックを担いで週末のたびに山登りをしたものである。
 
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写真1:周山城遠望
 
 ところで筆者は永らくの間、周山城はてっきり京都市の史跡だとばかり思い込んでいたが、先日、別件で調べてみたところ、実は未指定であったことを知り驚愕している。しかし近年は、地元保存会の方々によって除草作業などが行われて、以前よりも観察しやすくなっているようである。筆者の踏査時は、主郭は視界も効かず歩行も困難な酷いブッシュで、磁針が示す方位角と巻尺の距離だけをたよりにして方眼紙に記入し、この曲輪だけでも作図作業に丸2日間を要してしまったほどである。
 
 その縄張り図(実測図)であるが、原図1/500の縮尺で作図し、測角はコンパストランシット、測距は巻尺を使用し、一部は望遠付きハンドレベルを併用した。そのため平板測量並みの制度があると自負している。その際の成果図は、等高線に乗せない考古学式のケバ描きで発表済みであるが(拙稿1994「周山城」『織豊期城郭の瓦』織豊期城郭研究会)、今回、新たに等高線に乗せたうえで、中城研式のケバ描きに変更して再トレースした。
 
 さて周山城は、標高480m(比高230m)の通称「城山」に占地する。山頂に立つと、文字どおり「周りは山」ばかりの風景が眼前に広がっている。城山の山麓には、京都と日本海側とを結ぶ若狭・周山街道が通り、今なお自動車交通の要衝地となっている。また眼下を流れる桂川を下れば、京都市内へと至ることができる。
 
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写真2:西尾根の高石垣
 
 当城は1580(天正8)年に、明智光秀丹波経略の拠点として築城した。1582(天正10)の山崎合戦で明智家滅亡後は、羽柴秀吉の持ち城となって加藤光泰が城主を務め、1584(天正12)年までは確実に存続していたようである(福島克彦1990「織豊系城郭の地域的展開―明智光秀丹波支配と城郭―」『中世城郭研究論集』新人物往来社)。しかしその後は史料に登場しないことから、間もなく廃城になったと見られる。
 
 縄張りは、高石垣によって築かれた総石垣造りである。Ⅰ(主郭)を中心にして、東西南北の各尾根上に曲輪を連ねている。但し石垣天端の多くは、大きく崩れている。特に麓から見えやすい南側ほど崩れが大きく、対して見えにくい西尾根は比較的良く残り、自然崩落としては不自然が否めない。おそらく廃城時の城破(しろわ)りによるものであろう。
 
 ところでこの縄張りを見て、どちらが大手かお分かりだろうか?答えは東尾根筋である。なぜなら山麓の登山口から山頂まで、最短距離で至るからである。しかし訪城経験がなくて縄張り図だけを眺めていると、まるでどの方向も大手のように思えてしまうのではないか。つまりこの城の縄張りは、特定の方向のみに防御を固めるのではなく、全方位どこから攻められても対応できるように設計されていると評価したい。
 
 Ⅰ郭(主郭)は周囲に石塁を巡らせ、石垣は2段築成(西側では3段築成)となって、階段ピラミッド状に周囲よりも一段高く築き上げる。東側には、変形ながら内枡形虎口Aを開口する。中央部には8間✕9間の天守台を設けるが、穴蔵への出入り口が3カ所もあり、他に類例がない摩訶不思議な形状をしている。
 
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写真3:石垣と石段
 
 またⅠ郭周辺には瓦片の散布が多く見られるが、他の曲輪では瓦片が全く見られないことから、主郭のみに瓦葺き建物が建っていたと思われる。丸瓦は総て古式の「コビキA手法」(内面に細かい斜め筋状の糸切痕が残る)である。軒瓦も見つかっており、軒丸瓦は「右巻巴紋」、軒平瓦は「三葉三転唐草紋」であるが、他の城郭・寺院瓦に同笵関係が見られず、当城のために製作された可能性が高い。なお同軒瓦は実測図と拓本を作成し、既に紙上で発表済みである(拙稿1994文献)。
 
 Ⅱ郭が井戸曲輪で、現在も楕円形の石組井戸が残る。内部は土砂が相当堆積して浅くなっているが、今でもこの近辺の地面は水分が多くてじめじめしている。井戸曲輪の石垣は大きく崩壊しているが、曲輪面から石垣裾部までの垂直高を計算で求めると約8mで、往時は城内で最高所の石垣であったと見られる。
 
 当城の最大の仕掛けは、Ⅰ郭とⅢ郭、Ⅳ郭とⅤ郭とを短い「登り石垣」で連結して、曲輪間の上下の一体化を図っている点である。登り石垣とは、文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮半島に築いた「倭城」で多用された、特徴的な防御施設である。但し倭城の登り石垣が山麓の駐屯地を囲い込むのに対して、当城は山頂と山腹を連結する点で異なる。自然地形を包括しながらも、防御線の一体化を図る点に主眼を置いている。
 
 またⅠ郭の周囲は石塁囲みとなるが、これも倭城で多く見られる手法である。
 
 このように周山城では、後の倭城に先行する“プロトタイプ(原型機)とも言える要素が見られ、天正期から文禄・慶長期への織豊系城郭の発達を考えるうえでも、非常に重要な城跡と言える。
(文・図・写真:堀口健弐)