№14:固城倭城(大韓民国慶尚南道固城郡)

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固城倭城縄張
 
 「倭城の中で一番好きな城は?」と問われれば、筆者は登り石垣が圧巻の西生浦(ソセンポ)倭城でも、枡形虎口が連続する熊川(ウンチョン)倭城でもなく、残りの悪い固城(コソン)倭城や東莱(トンネ)倭城が思い浮かぶ。今回紹介する固城倭城は、現存する倭城の中でも1・2位を争うほど保存状態の悪い城である。しかしだからこそなのか、残りの悪い城跡ほどなぜか愛おしく感じてしまうのである。
 
 固城倭城の初訪城は、調べてみると2001年11月24日のことである。この時は、韓国の大学院に留学中だった院生君の案内で、お城の研究会の城友らと共に泗川(サチョン)倭城、泗川邑城、馬山(マサン)倭城、それに固城倭城など慶尚南道西部の倭城と関連史跡をいくつか見て回った。その院生君も今や日本の大学で教授を務められていて、立場が完全に逆転したと同時に、改めて月日の経つ早さを実感させらされる。
 
 その後は単独、あるいは筆者が城友を案内して、合計5回の訪城を果たしている。当城は平城に近い縄張りで、今では周囲を完全に民家に取り囲まれている。しかも住宅街の似たような風景なので、近くに目印になるような地形や施設なども少ないので(※)、訪城のたびに道に迷ってしまい、何度も同じ所をぐるぐる回っているうちに辿り着いてしまう。それゆえに水先案内人なしの訪城には、結構易度が高い城跡とも言える。
 
 そんな初訪城時に、倭城の遺構を求めて住宅街をうろついていると、偶然通りかかった固城郡庁に努める男性職員に声をかけられた。院生君の流暢な韓国語で通訳してもらうと、近くに勤務しながらここが倭城であることを知らなかったとのことであった。それもそのはずで、慶尚南道文化財資料第89号に指定されていると言っても、城跡であることを示す石碑や説明板などが何一つなく、これでは知らなくても無理からぬ話しである。
 
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写真1:松鶴洞古墳群
 
 さて固城倭城は、慶尚(キョンサン)南道固城郡固城邑水南(スナム)里に所在する。釜山から西へおよそ65㎞に位置する、長閑な地方都市である。
 
 城跡のすぐ近くには、1980年代に日韓考古学界で“韓国の前方後円墳か?”と話題になった松鶴洞(ソンハクドン)古墳群がある(写真1)。発掘調査の結果、前方後円墳ではないことが判明したが、それでも日本製の須恵器などが副葬品として出土しており、ヤマト政権と交流のあった在地首長の墳墓であろうと考えられている。現在は古墳公園として史跡整備され、2012年には同公園内に国立固城博物館も開館したので、併せて訪れたいところである。
 
 城跡は固城湾の最奥部の、標高20m(比高10m)の海岸段丘上に占地する。現在は干拓事業により海岸線が後退しているが、往時は近くまで波打ち際が迫っていた。当城は1593(慶長2)年に吉川広家が築城を担当し、立花宗茂が守備を担当した。
 
 朝鮮時代後期(17~19世紀)に描かれた絵画史料『倭城固城府地図』(ソウル大学校蔵)によると、日本軍撤退後の倭城は放置されたままとなっていて、朝鮮王朝側に再利用された形跡はない(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会・城館史料学会)。ただ現在では市街地化が進み既に失われた遺構も多いが、それでも史跡に指定されている。
 
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写真2:主郭石垣
 
 Ⅰ郭が主郭である。特に東面の一部は、帯曲輪が巡る二段築成となる。但し石垣の多くが民家の裏庭などに残存するため、なかなか思うような踏査ができない。写真2の石垣は、初訪城時は民家に隠れて分からなかったが、その後取り壊されて現在は駐車場となったことにより、ようやく観察できるようになった。
 
 Ⅰ郭の東南角には天守台Aを設ける。現在では主郭面と同じ高さに造成されて、この上に民家が建っているが、1914年に人類学者の鳥居龍蔵率いる古蹟調査隊が撮影した古写真によると、周囲よりも一段高く築かれているのが分かる(国立晋州博物2014『固城』)。
 
 Bは石垣の開口部であるが、片側に隅角部が残っているので、破壊道ではなく本来の虎口であったことが分かる。
 
 ところで1927(昭和2)~32(昭和7)年頃に、日本の軍人・原田二郎陸軍工兵大佐(後に少将)が作図した、いわゆる『九大倭城図』のうち「固城城図」によると、主郭から続く曲輪は北から東へ平面「L」字形に曲がる形状に描かれ、これに隣接する固城邑城(朝鮮王朝側が15世紀後半に築いた邑城)の城壁を倭城の外郭線に取り入れた構造となっている(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)。「邑城」とは、集落の周囲を城壁で囲郭した、朝鮮半島伝統の城郭であるが、同邑城の遺構は現在では“全く”残らない。
 
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写真3:邑城の朝鮮式石垣
 
 ここで問題となるのが、石垣Cの存在である(写真3)。ここは周囲よりも一際大きな石材で積まれており、初訪城時は筆者自身の見識不足もあって、日本国内の近世城郭に見られる「鏡石」の類であろうと思い込んでいた。しかし訪城を重ねるうちに、実はそうではない事に気付いた。石垣は平らな根石を水平に据えて、そこから少し後退した位置から石材を垂直に近い角度で積み上げる、典型的な朝鮮式城郭に見られる石積み技法である。
 
 当初は朝鮮人技術者の協力を得て倭城の石垣を積んだのでは?と考えたこともあったが(拙稿2009『倭城の縄張りについて(その3)」『愛城研報告』13、愛知中世城郭研究会)、現在ではここが倭城本体と邑城との結節点ではないかと考えている。
 
※織豊期城郭研究会編『倭城を歩く』(2014年、サンライズ出版)に所収の「固城城へのアクセス」(138頁)は誤りである。実際は地図中の「固城郡庁」と記された所から、真南へ徒歩5分ほどでの地点である。
(文・図・写真:堀口健弐)