№15:島城(京都府南丹市)

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島城縄張図
 
 島城は福井県境に近い、京都府南丹市美山町島に所在する。同所は平成の大合併以前は、北桑田郡美山町と呼ばれていた所である。今も茅葺屋根の古民家が残る「かやぶきの里」として有名で、近年は観光資源としても力を注いでいる。当地域一帯はかなり山深い土地ではあるが、見応えのある縄張りの城がいくつか近隣に散見される。
 
 当城の訪城は、寒さも緩んだ今年(2016年)3月26日のことで、筆者が所属するお城の研究会の城友たちに車で誘われての踏査となった。島城の存在自体は書籍等で以前から知ってはいたのだが、車を出さないと行きづらい山深い所であるため、なかなか訪城が叶わなかった。
 
 後で調べてみて分かったが、公共交通機関での訪城手段もあるようだ。JR山陰線「日吉」駅からコミュニティバス「美山園部」線に乗車し、「美山支所前」で下車すると登山口まで直ぐのようである。便数は朝1便、昼2便、夕方1便の1日4便と少ないが、それでも車に乗らない者からすると、有るのと無いのとでは雲泥の差である。
 
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写真1:島城遠景
 
 さて島城は、標高403.7m(比高210m)の通称“城山”に所在し、山頂部から西尾根一帯にかけて占地する(写真1)。山頂部には簡易な木造の展望台が敷設されていて、ここに立つと谷間の集落を一望できる。城山の麓には南丹市美山支所(旧・美山町役場)があって、今も昔も地域の拠点となっている。
 
 当城の詳しい来歴は不明であるが、16世紀後半に由良川流域の野々村荘を支配した川勝氏の持ち城とされる。1575(天正3)年の明智光秀丹波攻略では、川勝継氏は織田方に見方しているようである(福島克彦2014「島城」『図解 近畿の城郭』1、戎光祥出版)。
 
 Ⅰ郭が主郭である。数段の小曲輪を伴い、一部に低い土塁や石積を施すが(写真2)、防御性がやや乏しい印象を受ける。また現地の説明板にあるような“櫓台”は確認できなかった。
 
 その尾根続きの背後に三方土塁囲みの小曲輪があるが、中に入ってみるとさしずめ銃座のイメージで、ここから眼下の敵兵を弓矢や鉄砲などの投射兵器で攻撃できる位置にある。背後の尾根筋には二重堀切、そして東斜面に3条の畦状竪堀群を設け、二重堀切と併せて事実上5条になる。
 
 まるで堀切のような2条の竪堀を挟んで、Ⅱ郭がある。一部に削平の悪い箇所が見られるが、礎石と思しき平石が数個点在する。おそらく御殿相当の建物が建つ居住空間であろう。Ⅰ郭とⅡ郭とは、尾根を加工した竪土塁で結ばれるが、これは離れた曲輪同士の防御線を築くためであろう。
 
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写真2:Ⅰ郭(主郭)石積み
 
 Ⅲ郭とⅣ郭は、城内でも戦闘能力の高い曲輪である。Ⅲ郭は三方土塁囲みの方形曲輪で、虎口を開口して折れを2カ所設けるが、この折れは説明板にないものの、見所の一つである。さらに曲輪の北西隅部分の土塁が途切れて、そこから横矢掛かりの張り出しが突出する。そして尾根前方に合計7条の竪堀群を巡らす。
 
 自然地形を挟んで存在するⅣ郭は、さらに独立性が高い。三方土塁囲みで虎口を開口し、背後を堀切のような2条の竪堀で遮断する、橋頭堡的な曲輪である。
 
 さて当城の築城思想は明快で、城外に面する末端の曲輪に、戦闘能力の高い曲輪を配置している。これを曲輪の機能分化と見るか、それとも改修の時期差と見るかは今後の検討課題であろう。
 
 もう1点。当城を含め近隣の山城に言えることであるが、堀切の使用が少なく、尾根前面でさえ堀切でなく畝状竪堀群を設けている。堀切を掘った方が楽そうに思えるが、あえてそうしていない意図はなにか。堀切ならば敵兵の進撃を遮断することが可能だが、防御のための防御に終わってしまう。これに対して尾根前方に畝状を設けると、その間を縫って進撃してくる敵兵に対して、投射兵器で攻撃を加えることが可能であり、より攻撃的な防御施設と評価できる。
 
 島城は、取り立てて高い石垣や深い堀があるわけでもないが、細部を注意深く見ていくと、土塁、横矢掛かりの折れ、石積み、畝状竪堀群、建物礎石など城郭を構成するパーツが一通り出揃っており、実に見所の多い城郭であると言える。山深い地域ではあるが、是非とも訪城を推奨したい“逸品”である。
(文・図・写真:堀口健弐)