№17:天王山山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)

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山崎城縄張図
 
 天王山山崎城(以下、山崎城と記す)は、大阪府境に近い京都府乙訓郡大山崎町に所在し、標高270.4m(比高240m)の天王山に占地する。当城は、あくまでも「天王山」として国史跡に指定されているらしい。
 
 筆者は大学入学以来京都を居としているので、山崎城は何度となく訪城経験がある。初訪城は大学生活の終わり頃だったので、80年代半ば頃だったろうか?また大学卒業後の20代後半は、大阪府での遺跡発掘アルバイトのために阪急京都線で通勤し、30代になって今の職場に拾われてからはJR京都線で通勤しているので、ほぼ毎日のように天王山を車窓から眺めている。
 
 山崎城への最寄駅は、JR「山崎」駅か阪急「大山崎」駅で、ここからハイキング道をひたすら登る事になる。しかしこんなに人里近い山崎駅近くの竹藪で、今秋クマさんが3頭現れた(『京都新聞』2016年10月5日付朝刊)。クマは集団行動をとる習性がないので、おそらく子育て中の親子クマだろう。クマさんにとっても、最近の山は食べ物が不足して住みづらくなったのだろう。
 
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写真1:天王山から山崎の地峡を望む
 
 1582(天正10)年、山崎の合戦(別称:天王山の戦い)で明智光秀に勝利した羽柴(豊臣)秀吉は、同年に大坂城完成までの仮住いとして、ここ天王山に山崎城を築いた。が、早くも1582(天正12)年には廃城となっている(福島克彦2005「山崎城」『京都 乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣)。
 
 但し当城は単なる仮住いに留まらずに、眼下に西国街道を抑える要衝地に位置することから、大坂以西と京都以東とを結ぶ地峡を抑える役目があった事は想像に難くない。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。北隅には、平面形が不等辺五角形の天守台Aを設ける。多くの先行図では東南隅に櫓台を付属する複合天守風に描かれているが、実際に寸法を測って作図してみると、なかなか綺麗な櫓台状になってくれないのは、筆者の測り方が悪いためだろうか。史料によるとこの天守台上には、規模や形状は不明ながら実際に天守が建てられていたそうである。
 
 主郭には、本丸御殿の礎石列が今も露出したままとなっている。その中には、墓石や石塔の一部と見られる転用石も見られる。また主郭周辺には瓦片の散布も見られ、天守や本丸御殿などの本格的な建物が完備していた事を窺わせる。
 
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写真2:天守台に残る石垣
 
 Ⅱ郭周縁部には石垣が所々に残存する。おそらく主要曲輪の周囲には、往時は高石垣が築かれていたのであろう。北隅に横矢掛かりの突出部である「横矢枡形」Bがある。この突出部は、石垣が崩れて見つけにいとは言え重要な見所であるが、先行図では僅かに池田誠氏の図に描かれているに過ぎない(池田誠1987「天王山宝寺城」『中世城郭事典』2、新人物往来社)。
 
 このような横矢枡形は、文禄・慶長の役朝鮮半島南岸に築かれた倭城に多く見られる。その倭城の横矢枡形については、朝鮮式城郭の「雉城(チソン)」を模倣したのではと見る向きもある(高田徹2004「厳重なる防御機能を保持した『仕置きの城』『戦国の堅城』学研)。しかし確実に倭城に先行する国内城郭に存在する事から、当遺構はその祖形と見なす事ができよう(拙稿2011「倭城の縄張りについて(その5)」『愛城研報告』15、愛知中世城郭研究会)。
 
 Ⅲ郭周縁部にも石垣が積まれているが、ここでも石塔類などの転用石を見ることができる。全体的に見て、山頂部にⅠ・Ⅱ・Ⅲ郭を中心にした方形の曲輪群を構成しようとする意図が見て取れる。
 
 この城の最大の特徴は、Ⅰ郭を中心とした山頂の主郭群と東斜面のⅣ郭とを、2条の竪土塁(一部に石垣あり)で連結し、北尾根続きには竪堀も掘削している。これも倭城で開花した、山頂と山麓とを繋ぐ登り石垣などによる外郭線の萌芽と評価できる。
 
 Ⅳ郭からⅤ郭に至る導線上の、DとEの2カ所は食い違い虎口となる。
 
 Ⅴ郭と山頂部の間に入る谷間を塞ぐように、竪土塁Fで仕切るが谷底部は開口する。同様の構造物は、明智光秀の周山城(京都市)、秀吉の上月合戦の本陣となった高倉山城(兵庫県佐用郡佐用町)、文禄の役の永登浦倭城(大韓民国慶尚南道巨済市)で類例が見られ、谷間を攻め登ってくる敵兵を遮断する役目があったのだろう。
 
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写真3:寄せ集められた転用石
 
 総じて当城は、Ⅱ郭の横矢枡形と言い、Ⅳ郭の竪堀・竪土塁と言い、尾根背後の北側を意識した防御線を敷いているように思える。
 
 山崎城は天下人の仮住いとは言え、コンパクトながら縄張り的には見所が多い。特に前述の横矢枡形や、外郭線を用いて上下の曲輪を一体化させる手法は、周山城などと並んで後の倭城のプロトタイプ(原型)と評価できる。単なる天下人の居城に留まらず、織豊系城郭の変遷を語る上でも極めて重要な城跡であると言えよう。
(文・図・写真:堀口健弐)