№20:2017倭城踏査速報

 2017年3月16日㈭から同月21日㈫にかけて、6日間(実質中4日間)の倭城踏査を行った。今回の主たる目的は、昨秋に縄張り図が未完成となっていた子馬(チャマ)倭城に残る日本式遺構の図化と、それに加えて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の城郭の縄張り図を作成することであった。
 
 この季節の訪韓は初めてのことで、寒さに人一倍弱い筆者は時期を間違えたかと後悔にも近い念があったが、滞在中は早春の柔かい日差しに包まれた穏やかな日和が続いてくれた。帰国後に知った話しでは、この時期日本では肌寒かったと聞いたので、これも日頃の行いの良さだろうか。
 
 今次踏査旅行は、筆者が所属するお城の研究会の学生会員と行動を共にし、宿も釜山駅前の釜山イン・モーテルに投宿した。永らく定宿にしていた釜山駅前の太陽荘は、別資本の小洒落たホテルに代わってしまったが、釜山イン・モーテルは、安宿としては珍しく日本からネット予約が可能で、それまでの目的地に到着後飛び込みで宿を探す煩わしさから解放された。しかもこのご時世に、1泊3万ウォン(約3000円)なのがお財布に優しい。
 
 また航空運賃にしても、LCCのエアプサンで平日利用の場合、なんと関西―釜山間の往復券が13,000円と、「JR青春18きっぷ」なみの価格で行けてしまうのである。
 
 なお縄張り図のトレース(清書)には相当な時間を要するため、以下では踏査成果を写真中心の速報で報告する。いずれトレースした縄張り図を、紙上や当ブログで発表することを約束したい。
 
3月16日㈭ 曇
 
 投宿後、ファーストフード「キンパプ天国」で遅めの昼食(石焼ビビンバ)を食した後、都市鉄道1号線「釜山」駅から「凡一(ポミル)」駅まで移動し、そこから徒歩で釜山子城台倭城(釜山広域市)へ向かう。
 
 筆者は既に当城の縄張り図を作成しているため、学生君を案内して縄張り図作成に専念してもらった。一方の筆者は、総ての倭城をフィルムカメラで撮影済みであるが、デジカメでは未だ僅かしか撮影していないため、自身は写真撮影に専念した。
 
イメージ 1
釜山鎮支城期の敵水瓦か
 
 踏査中に、石垣の直下で滴水瓦(軒平瓦)の破片を見つけた。瓦当文様から判断して倭城当時と言うよりは、日本軍撤退後の朝鮮時代後期に再築された、釜山鎮支城時代の瓦の可能性が高いと思われる。その理由は、現在復元されている楼閣や城門に葺かれている軒平瓦と、全く同じデザインであるためである。
 
 陽も傾き始め、都市鉄道「西面(ソミョン)」駅に移動して、“倭城ナビゲーター”の植本夕里氏と合流する。滞在初日の夕食は、西面の「若者通り」でサムギョプサル(サンチュの葉で巻いて食べる豚の焼肉)を食し、ビールを酌み交わしながら、明日以降の作戦会議に花を咲かせた。
 
3月17日㈮ 晴
 
 事実上の踏査初日は、懸案となっていた子馬倭城(慶尚南道昌原市)へ。都市鉄道1号線「釜山」駅から「下端(ハダン)」駅まで移動し、そこから「鎮海(チネ)」行市外バスに乗り換え「熊東(ウンドン)マチョン」で下車。その後は、ハイキング道をひたすら登ることになる。
 
 学生君は山頂部に残る朝鮮式遺構の縄張り図を作成し、筆者は東尾根に続く、作図途中となっていた日本式遺構の縄張り図作成に専念する。
 
子馬倭城に残る朝鮮時代の遺物
 
 前回のブログでも触れたが、ここには多くの遺物片の散布が見られる。同所は熊川(ウンチョン)貝塚として慶尚南道史跡に指定されており、確かに三国時代(4・5世紀)に遡る、日本で言うところの韓式系土器や陶質土器に似た土器片が多く見られた。しかしその一方で、白磁、施釉陶器、瓦など確実に朝鮮時代に下る遺物も少なからず見受けられた。
 
3月18日㈯ 曇のち晴
 
 2日目の踏査地は蔚山(ウルサン)兵営城(蔚山広域市)。都市鉄道1号線北の終着駅「老圃(ノポ)」駅で夕里さんと待ち合わせて、座席バスで蔚山広域市へ向かい、蔚山市外バスターミナル前の停留所から市内バスに乗り換えて、目的地の蔚山兵営城へ。
 
 同城は慶尚左道兵馬節度使の営城で、平たく言えば朝鮮王朝・慶尚道方面軍の陸軍司令部のような城である。1417(太宗17)年に築城し、朝鮮時代末期に廃城となった(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査報告―最近調査された邑城と鎮城を中心として―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
イメージ 3
蔚山兵営城・西門の甕城
 
 蔚山倭城のすぐ北側に位置しながらも初訪城であったが、それもそのはずで当城は遺構の残存状態が悪かったが、近年発掘調査成果を基にした城壁の復元作業が進んでいる。但し西門の甕城(オンソン:丸馬出しに似た半円形の城壁を持つ虎口)は遺構が良く残り、また北門も一部が残ることから、史跡第320号に指定されている。
 
 この蔚山兵営城は、文禄の役加藤清正隊に攻められて一度落城している。高正龍(コ・ジョンヨン)・立命館大学教授の研究によれば、出土した軒丸瓦が清正の支城である佐敷城(熊本県芦北町)出土の軒丸瓦と同笵瓦(同じ版木で作られた軒瓦)であることが確認された(高正龍2015「蔚山慶尚左兵営城と熊本佐敷城の同笵瓦―豊臣秀吉朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播⑵―」『東アジア瓦研究』4、東アジア瓦研究会)。
 
 ここから導き出されるストーリーは,清正が蔚山兵営城を攻め落とした際に、戦利品として軒瓦を本国肥後に持ち帰り,それを自身の支城の屋根に葺いた展開が想定される。
 
 現地では、復元整備された北半部の縄張り図作成を行ったが、東門周辺は未だ復元工事中で4月30日まで通行止めのため、残念ながらあと一歩で完成に至らず、継続調査となった。
 
 夕食は釜山まで戻り、西面のその名も「テジクッパ通り」にある夕里さんお奨めの名店にて、テジクッパ(薄口の豚骨スープに豚のばら肉が入った雑炊のような料理)を食した。
 
3月19日㈰ 晴
 
 3日目の踏査地は彦陽(オニャン)邑城(蔚山広域市蔚州郡彦陽邑)へ。都市鉄道2号線「梁山(ヤンサン)」駅で夕里さんと待ち合わせ、梁山市外バスターミナルから彦陽邑へ向かう。下車後、暫く歩くと彦陽邑城の復元された門楼(日本風に言えば櫓門)が見えてくる。
 
イメージ 4
彦陽邑城の城壁
 
 彦陽邑城は、1390(高麗恭譲王2)年に土城として創築され、1500(燕山君6)年に石城に改修された(羅2005前掲文献)。韓国でも珍しい平面形が正方形の邑城で、国家史跡第153号に指定されている。この邑城も文禄の役の開戦当初に、加藤清正隊によって攻められ落城している。遺構は主に北半部が良好に残存し、南門周辺にも一部遺構が残る。城壁は復元された箇所もあるが、概ね残存状態は良い。城壁内部は、一部に彦陽初等学校や民家が立ち並ぶが、大半は田畑となっている。この日は、終日縄張り図作成に専念した。
 
 踏査後は少し早目の晩御飯とし、城跡のすぐ近くにある焼肉屋にて、彦陽名物の彦陽プルコギ(ミンチ状にした牛肉を網の上で焼く焼肉)に舌鼓を打った。
 
3月20日㈷ 曇のち雨
 
 事実上の最終日は、学生君を案内して熊川倭城(昌原市)へ。子馬倭城と同じ「鎮海」行の市外バスに乗車し、「熊川」で下車。同倭城はこれまで何度となく訪城してきたが、近年バイパス道が開通したのに合わせて再開発が行われている最中である。以前は長閑だった水田地帯を、大規模に埋め立て区画整理してタワーマンションが林立するようになり、そのため登山口も少し分かり難くなった。
 
 熊川倭城は、以前と変わりなく残されていた(と思っていた)。訪城時、ちょうど城跡の除草作業が行われている最中で、その時は感謝の気持ちで一杯であった。学生君は縄張り図作成に専念してもらい、筆者はデジカメで石垣や散布瓦の写真撮影をして時間を潰した。
 
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熊川倭城・山麓居館の“軌跡の一本石垣”
 
 陽が傾く前に早目に下山して、臥城(ワソン)集落に残る山麓居館へ移動する。しかし何かが以前と少し違う嫌な予感が…。見ると山腹には、ガードレール付きの農道が開通しているではないか。この農道のために、居館背後にあった堀切の存在が確認できない。おそらく農道建設で削られたか、あるいは埋められたかのどちらかであろう。
 
 石垣も道路建設の衝撃で崩落ちて、角石だけが熊本城ばりの“軌跡の一本石垣”状態となって、無残な姿をさらけ出していた。当倭城は、慶尚南道史跡に指定されていることから、保存に関して楽観視していたが、見事現実に頭を打ちひしがれる思いであった。
 
 下山後から小雨が降り出したため、その後は傘を差しながら熊川邑城を見学する。
 
 夕刻に西面に戻って夕里さんと合流し、マッコリの飲める居酒屋で“最後の晩餐”となった。普段はスイーツ系男子の学生君も、この日ばかりはマッコリがすすんで上機嫌であった。
 今次踏査旅行では、2城の縄張り図を完成させ、1城が作図途中となった。今後も引き続き文禄・慶長の役の舞台となった朝鮮王朝側の城郭を、ただ見学するだけでなくて、できるだけ縄張り図を作成したいと考えている。
 
 韓国には縄張り図を描く文化がなく、城郭書籍を開いてみても、発掘調査時の実測図か、地形図に載せて城壁だけを引いた線画のような概念図しかない。これらの関連城郭も積極的に資料化していくことで、文化学術面で日韓友好の一助になれればと願うものである。
(文・写真:堀口健弐)