№24:熊川邑城(大韓民国慶尚南道昌原市)

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熊川邑城縄張図
 
 熊川(ウンチョン)邑城の初訪城は1990年5月25日、筆者が所属するお城の研究会で初めて倭城を訪れた時の事である。この日は午前中に熊川倭城を踏査する予定で、チャーターしたマイクロバスに乗り込んで同城を目指したが、目的地に近づいた時、車窓から何やら城郭石垣らしき物が目に飛び込んできた。同行者の誰かが「停めて」と言うと、通訳の女性は「あれは倭城ではありません」と言ったが、「それでも良いからちょっとだけ見たい」と無理をお願いして、急遽予定には無かった同城の見学となった。バスを降りてほんの5分か10分くらいの短い時間であったが、皆大急ぎでカメラのシャッターを切ったのであった。
 
 その後、お城の研究会の踏査旅行や単独あるいは筆者が城友を案内するなどして、合計7度ほど訪城している計算になる。同城は、バス停を降りてから熊川倭城に徒歩で向かう途中にあるので、いやがうえにも目に入るし、熊川倭城と抱き合わせで見学するにも丁度良い。
 
 初訪城時は蔦の絡まる古びた石垣のみで、堀も完全に埋まった状態であったし、何より当時は筆者自身に邑城に対する知識も乏しかったため、石垣の周囲に堀が存在することすら知らなかった。2001年から順次史跡整備のための事前の発掘調査が開始され、2009年5月5日に筆者主催の倭城ツアーで訪城した時は、ちょうど城門A付近を発掘調査中で、それを目の当たりにして漸く堀が存在することを把握したのであった。
 
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写真1:復元された甕城と門楼
 
 2011年4月29日の訪城時には、日本の櫓門に相当する「門楼(ムンル)」が復元されていた(写真1)。日本でも地方自治体では模擬天守などを建てたくなるものであるが、韓国でもご多分に漏れず、近年では邑城の門楼や楼閣を復元する機運が高まっている。そしてそれらが地方都市のシンボル的存在となっているようである。
 
 熊川邑城は、釜山市の西隣に位置する慶尚(キョンサン)南道昌原(チャンウォン)市鎮海(チネ)区城内(ソンネ)洞に位置する。もっとも初訪城当時は鎮海市であったが、その後昌原市に合併して現在に至っている。数年前には高速道路が開通してインター出口が設けられたため、釜山市のベッドタウンとして急速に開発が進んでいる最中である。
 
 その熊川邑城は、慶尚南道記念物第15号に指定されている。「邑城(ウプソン)」とは、中国の影響を受けた集落の周囲に城壁を巡らした城塞都市で、いわば都城のミニチュア版である。倭寇の襲来に備えて1434(世宗16)年に築かれ、1452(端宗1)年に増築された。1510(仲宗6)年には、在朝和人が起こした「三浦の乱」で一は度落城している(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査成果―最近調査された鎮城を中心として―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
 また文禄・慶長の役では日本軍が占拠しており、日本とも関わりの深い城郭である。このように朝鮮王朝側の城郭をそのまま使用したり、多少日本式に改修したものを「広義の倭城」とも呼ぶ。
 
 当城は、臥城(ワソン)湾から少し奥に入った海岸沿いに築かれており、小西行長が守備を務めた熊川倭城とは目と鼻の先である。城域は、東西220m×南北350mの南北にやや長い長方形を呈する。城壁内には初頭学校・中学校・高校や教会などがあり、今なお集落の中心となっている。
 
写真2:現存石垣
 
 石垣は、史跡整備により東面と南面の一部が修築され、堀も往時の姿が蘇ったが、西面の一部は当時のまま残されている(写真2)。高さは目測で約3mだが、天端が崩落しているので本来はもう少し高さがあったのであろう。石垣は根石を水平に据えて石材をほぼ垂直に積み上げ、内外両側を石積みとした「挟築」となる。
 
 往時は東西南北にそれぞれ城門を開いていたが、現在では東門Aと西門Bの遺構が残る。東門Aは前述のとおり門楼が復元されており、上に登ることもできる。城門は、日本の丸馬出しに似た半円形の石塁を突出させる「甕城(オンソン)」である。発掘調査では堀底から木橋が出土しているが、城門と橋とを少しずらして作られており、敵兵が直進できない構造になっている。
 
 城壁には、横矢掛かりのための突出部「雉城(チソン)」Cを設けている。さらに城壁の隅部には、斜め対角線状に突出する「角楼(カクル)」DとEを設けて、射撃の死角をなくす工夫が施されている。このように邑城は、横矢掛かりの意識が発達している。また城壁と堀との間に幅10m前後の犬走りを設けているが、これも邑城の特徴である(写真3)。
 
 なお文禄・慶長の役時に日本軍によって改修された痕跡は、地表面観察では窺えず、発掘調査でも出土していないようである。
 
写真3:史跡整備された城壁
 
 ところで日本で出版された邑城関連の書籍や論文は極めてに少なく、どちらかと言えば文献史料や歴史地理的な考察が主流である。縄張りや遺構に則した論考は「広義の倭城」に関する論考が数点あるが、それとて決して多いとは言えないのが実状である。
 
 朝鮮半島の城郭と言えば、古代山城(朝鮮式山城、神籠石系山城)に関する研究は古くからあり、研究者や愛好家も一定数存在する。一方、邑城の研究の蓄積が我が国でほとんどないのは、日本の歴史とさほど関わっていないことが理由と考えられる。
 
 しかし文禄・慶長の役では、邑城が日朝の攻防戦の舞台となったり、また占拠した邑城を日本側が使用した歴史がある。一方の韓国では、日本のように縄張り図を描いて城郭を研究する文化が存在しない。今後は日韓が協力しあって、邑城を研究していくことを切に願うものである。
(文・図・写真:堀口健弐)