№29:古武之森城(和歌山県西牟婁郡白浜町)

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第1図:古武之森城縄張図
 
 古武之森(こぶのもり)城は、1977年に地元の“城好き高校生”グループによって発見された城跡である。同城は紀伊半島の南端に近い、和歌山県西牟婁郡白浜町(当時は日置川町)に所在する。この城跡自体は、地元に伝わる江戸時代の軍記史料『安宅(あたぎ)一乱記』に登場し、また『安宅一乱記巻末絵図』にもはっきりと描かれているのだが、永らくその存在を確かめた者はいなかった。
 
 この幻の城跡を求めて、当時、和歌山県立熊野高校に通う郷土史研究クラブのメンバー4名が探索し、初めてその実在が確認されたのであった。この快挙を伝える当時の『読売新聞(和歌山版)』、その他の紙面によると、夏休みなどを利用し、道なき道を掻き進んで山中を探索するも中々発見には至らず、実に4度目のアタックで漸く目指す城跡に辿り着いたのだそうだ。
 
 城跡で新聞記者の記念撮影に応じる彼らの姿は、恥ずかしそうにしつつも、どこか誇らしげのようにも見える。そんな彼らも数えてみると、今や50歳代に突入している計算になる。彼らはその後、立派な考古学者や城郭研究者になったのだろうか?機会があれば、聞いてみたいものである。
 
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写真1:山麓の露頭に残る矢穴
 
 さて筆者は今年(2017年)の正月休みを利用し、筆者の同級生で和歌山城郭調査研究会のメンバーでもある城友と一緒に、原稿のネタ作りを兼ねて同城を踏査した。城跡は同郡すさみ町境に近い、標高301m(比高290m)の「古武之森」に位置する。山自体も結構な高所だが、それにも増して城跡まで通じるまともな道がなく、しかも山肌に岩肌が露出して巨石が転がるなど、登頂するにはかなりの難所である。
 
 登頂を開始して間もなく、思いがけなく矢穴が残る露頭を発見した(写真1)。「矢穴」とは石を割る際にクサビを入れる穴の事であるが、当地に石切丁場があったという伝承も調査記録も一切残っていない、全くのノーマークであった。いつの時代に誰が何の目的で採石を行ったのか、また新たな謎が一つ誕生したのであった。
 
 当城の縄張は、山頂部から北尾根筋にかけて占地する。この山頂からは麓の集落は直接望めず、また付近には街道も通っていないことから、日常生活とは遊離した性格の城郭であると思われる。山頂に立てば、隣町のすさみ町や陽光きらめく熊野灘を望むことができる。
 
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写真2:腰曲輪の石積
 
 城史については不明な点が多いが、『安宅一乱記』によると享禄年間(1528~31)に勃発した安宅一族の内乱の際に、阿波国から来援した小笠原右近大夫が守備したと伝えられる(長谷克久1976『熊野水軍史料 安宅一乱記』名著出版)。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。削平は悪く、しかも曲輪中央部に巨大な岩塊がむき出しになっており、これでは本格的な建物が建てられそうにもない。この点からも、居住には不向きな城郭である。
 
 Ⅰ郭直下には小さな腰曲輪を設けるが、人頭大の自然石による石積が施されれている(写真2)。Ⅱ郭も削平がやや甘く、東斜面に竪堀を1条落とす。北尾根筋には4条の連続堀切りと2条(不明瞭な物も含めると3条)の畝状竪堀群を落とし、堀切と併せると事実上4条となる。堀切も竪堀も、現状では堀幅は狭くて浅い。さらに西北の尾根続きにも堀切を1条設けて、西方とを完全に遮断する意図が読み取れる。
 
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写真3:南尾根に残る円礫の集石
 
 Ⅱ郭よりさらに下った南尾根上Aには、この山中にはない河原石のような拳大ほどの円礫の集石が見られる(写真3)。もしかすると投弾用の飛礫(つぶて)の可能性もある。筆者は未確認であるが、同様の円歴は北尾根の最も外側の堀切土橋付近にも認められるとのことである(白石博則2015「城郭」『日置川町史』1、日置川町)。これはあくまでも一つの推理だが、Aの円礫集石は攻撃のための備蓄用で、堀切周辺に散乱する円礫の散布は、実際の戦闘に際して投下された跡とも考えられる。
 
 さて当城の縄張りの特徴は、南尾根は非常に緩い傾斜にも関わらず、防御施設は僅かに竪堀が1条しかない。反面、北尾根は急斜面にも関わらず、多重堀切・畝状竪堀群・石積などを用いて、北方面に対しての集中防御を施しており、明らかにこちらが防御正面である。
 
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第2図:安宅勝山城縄張図(参考資料)
 
 ところで当城より北西尾根の延長線上には、安宅勝山城が占地する。安宅勝山城は、東尾根筋に対して石積みを伴う5重堀切にって多重防御となっている。あたかも古武之森城と安宅勝山城が、多重堀切を築き合って互いに対峙しているかのようである(第2図) 。しかも古武之森城は、安宅勝山城よりも100mほど標高が高く、眼下に見下ろす位置関係にある。
 
 室町時代に日置川下流域を支配した安宅氏と、周参見(すさみ)川下流域を支配した周参見氏との間で、幾度となく争いが繰り広げられていたようである。当城は史料上不明ながらも、周参見氏が安宅勝山城攻めのために築いた付城、もしくは安宅氏に睨みを効かせる境目の城などの機能を担っていたのではないか、と推測される。
(文・図・写真:堀口健弐)