№30:2018倭城踏査速報(前編)

 2018年5月9日㈬~16日㈬にかけて、8日間(実質中6日間)の倭城踏査を行った。自身としては昨年3月以来1年2か月ぶりの訪韓であったが、今回は数字以上に久々に感じられた。当初の計画では、昨秋の10月か遅くても11月前半頃にと考えていたのだが、少々長丁場の発掘調査の仕事が入り、この間は暦どおりにしか休む事ができない。
 
 しかしその頃にはまだ悲壮感はなく、今季が駄目なら寒さの緩む3月後半頃をと本気で計画していたのだが、年度末に入っても報告書の原稿執筆を2本抱えて思ったほど時間が自由にならない。そんなこんなで年度も変わり休暇日数もリセットされた5月に入り、漸く休みがまとまって取れた経緯があった。
 
 さて今次踏査の主な目的は2題ある。一点目は、描きかけの縄張り図も含めて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の城郭を踏査して図面を作図すること。もう一点は、倭城をデジカメで再撮影することであった。筆者は総ての倭城をフィルムカメラで撮影しているが、インターネットに投稿することを考えると、フィルムからスキャンするよりもデジカメ画像を使用した方が綺麗なので、改めてレンズに収める必要性があった。
 
 作図した縄張り図はこれから多急ぎでトレース(清書)することになるが、今回もまずは写真のみで、踏査成果の一端を前・後編の2回に分けて報告したい。
 
 今回の踏査旅行は、“倭城ナビゲーター”の植本夕里女史と韓国の大学に留学中の学生君とが、入れ替わり立ち代わり同行する恰好での踏査となった。日本を発つ前は、釜山の週間天気予報を見て雨マークが心配であったが、日頃の行いが良かったのか、なんとか最低限の降雨で済んでくれたのは幸いであった。旅の前半は低温傾向で、上着があっても少し肌寒く感じられたが、半ば以降は初夏の強い日差しが容赦なく照りつける陽気となった。
 
5月9日㈬ 晴
 
 関西空港を午前11:00発のエアプサンで発ち、金海(キメ)国際空港で入国等の諸々の手続きを終えて、予約していた釜山駅前の釜山イン・モーテルに投宿すると、既に午後3時を少し回っていた。慌ただしく旅の荷物を解いて、夕暮れまでの残り少ない時間を利用し釜山倭城を踏査する。
 
 同城の最寄駅である都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅で、幸先の良いサプライズがあった。構内でミニ写真展「佐川歴史物語」が催されており、その中に倭城が写っている写真を3点見つけることができた。倭城が主題の写真ではなく、解説にも「倭城」の文字はどこにも無いが、いずれも見る人が見れば分かるレベルの写真である。
 
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1950年代の釜山倭城(ミニ写真展「佐川歴史物語」より)
 
 まず当時はまだ珍しかったカラーフィルムで撮影された、1950年代の佐川駅界隈の写真が目に留まった。その背景(写真左上方)に、釜山倭城の石垣がはっきりと写りこんでいる。同城には今も遺構が残るが、周囲の木立が成長したうえにアパート群が林立しており、今現在では麓から遺構を望める事ができず、非常に貴重な写真である。撮影者の記名はなかったが、おそらく豪州系韓国人のメ・ヘランとメ・ヘヨン姉妹(ともに故人)ではないかと思われる(※)。
 
 他にも1900年代初頃に撮影された、釜山倭城(トリミングして部分使用)や釜山子城台倭城(釜山鎮支城)の白黒写真もあった。子城台倭城を写した古写真は何点か存在するが、展示の古写真には朝鮮時代後期の鎮城の建物もはっきりと写っており、これも貴重な写真であった。
 
 さて釜山倭城の近くはよく通るものの、同城の踏査自体は実に数年ぶりであった。城跡は以前とほとんど変わらない様子であったが、主郭に展望台ができたと言う情報があって、是非ともこれに登ってみたかった。現在は木立が成長したため城跡から眼下を眺めることはできないが、展望台上からは釜山の港街全体が見渡せた。
 
 入国初日の夜は夕里さんと沙上(ササン)で待ち合わせして、カムジャタン(豚の背骨にこびり付いた肉をこそぎ落としながら食べる鍋料理)を食しながら、明日以降の作戦会議に花を咲かせた。
 
5月10日㈭ 晴
 
 事実上の踏査初日は、まず都市鉄道1号線「老圃(ノポ)」駅から市外バス(急行バス)に乗り、さらに市内バス(路線バス)に乗り換えて蔚山(ウルサン)市の蔚山兵営城へ向かう。「兵営城」とは朝鮮王朝のいわば“陸軍基地”で、同城は文禄の役の開戦当初に加藤清正に攻められて落城している。
 
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蔚山兵営城の東門
 
 昨春に一度踏査して縄張り図を作成途中であったが、一部は復元工事中のため立ち入ることができなかった。今現在では既に復元工事も終わって自由に見学でき、現存部分の縄張り図を作成することができた。
 
 前回踏査できなかった東門付近は、発掘調査を終えて雑にブルーシートを掛けたまま何か月も経過しているような雰囲気であったが、シートの合間からでも石垣遺構を垣間見ることができた。また東門の甕城(オンソン)の残欠を確認することもできた。ここも近い将来に史跡整備されるのであろう。
 
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蔚山倭城の修築された石垣
 
 作図作業が早目に終わったので、残りの時間を利用してすぐ近くにある蔚山倭城を踏査する。同城の石垣は、昨年から修築工事に入っているとの情報を得ていたが、既に修築工事が完成し、こちらも自由に見学することができた。元々この箇所の石垣は、残存状態が良くなかったが、真っ白く見える部分が新しく補充した石材で、日本式の石垣が蘇った格好となった。
 
 元来たルートで釜山市内まで戻り、夕食はファーストフード「キンパプ天国」にて、韓国を代表するB級グルメの辛ラーメンとキンパプ(韓国式海苔巻き)を食した。
 
5月11日㈮ 晴
 
 昨夜のうちに釜山入りして同じモーテルに宿泊している学生君と合流し、この日は終日、南海(ナメ)郡(南海島)の南海倭城を踏査する。同城は釜山を起点にして見ると、最も遠い順天倭城に次いで2番目に遠い場所に位置するが、沙上バスターミナルから市外バスに乗って終点の「南海」で下車し、下車後は徒歩約20分で目的地に着くので、意外と踏査の容易な倭城である。
 
 同城は既に縄張り図も作成して何度も訪城経験があるが、訪韓直前の口コミやインターネット情報によると、天守台が整備されて非常に観察しやすくなっているとのことで、是非ともレンズに収めておきたかった。
 
 まず登山口に着くと、さっそく日本人研究者が作図した縄張り図入りの説明板がお出迎え。当城は史跡には指定されていないが、地元民もこれを契機に倭城の存在を知った人が多いようで、踏査中にも明らかに農夫ではない方が天守台に登られていた。中には現地の方なのか日本人観光客なのか、会話を交わさなかったので分からなかったが、一眼レフカメラで熱心に写真を撮っている30~40代くらいの男性にも出くわした。
 
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南海倭城天守
 
 この天守台は、以前は草木が繁茂してジャングルのような有様で、藪漕ぎすらできない酷い状態であったが、木々が総て伐採され始めて天守台上に登ることができた。上面には三角点点が設置されていて、どうやら史跡整備ではなくこれが本当の目的らしい。しかし三角点が存在する以上、近々に開発工事などで破壊されることもないであろうから、まずは一安心である。
 
 学生君には縄張り図を描いてもらい、その間に筆者はフィルムとデジタルの両方のカメラで写真撮影に専念した。
 
 元来たルートで沙上まで戻り、夕食は以前夕里さんに案内された事のあるクッパの名店にて、テジクッパ(薄口の豚骨スープに豚のばら肉が入った雑炊風の料理)を食した。
 
5月12日㈯ 曇のち小雨
 
 朝目覚めるとどんよりと低い雲が垂れ込め、時間天気予報では午後1時より雨の予報が出ている。雨が降り出した時点で“雨天コールド”にする予定で、梁山(ヤンサン)市の梁山倭城を目指す。同城は、近年都市鉄道2号線「甑山(チュンサン)」駅が開業したおかげで“駅前倭城”の仲間入りを果たし、随分と踏査が便利になった。ただし以前は田園風景しかなかった所に街一つが新しくできたため、訪城するたびに景観が変貌し、道路区画まで変わってしまっていて、登山口まで辿り着くのにちょっとした苦労であった。
 
 ここでも学生君には縄張り図を描いてもらい、筆者は写真撮影に専念する。そして時計の針が午後1時を回ったところで、正に天気予報どおりの小雨がぱらつき始めたので、この時点で踏査を終了して下山を開始した。
 
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梁山倭城
 
 帰路は本来の大手道を下って山麓居館を案内しながら帰ろうかと考えていたが、これが思わぬ事態になることに。本来の山道は地元の人ですら近年は利用しなくなったのか、想像以上の荒れ放題である。竹笹ブッシュに加えて倒木がいたる所にあり、それでも藪漕ぎしながらの下山を試みたが、行けども行けども一向に道が開ける気配がない。これ以上無理に下山すると、藪漕ぎに慣れた者ですら前に進む事も戻る事もできなくなって危険と判断し、意を決してブッシュを直登して城跡まで戻り、新しく開通した遊歩道を見つけて何とか無事に下山することができた。
 
 日暮れまでの残り少ない時間を利用して、都市鉄道2号線「大淵(テヨン)」駅近くにある釜山博物館を見学に予定を変更する。同博物館な何度となく訪れているが、リニューアルオープン後は初めてとなる。釜山と言う土地柄、日本の古代史とも関わり合いの深い遺物が数多く展示されており、中には日本の九州の縄文土器や山陰地方と思われる古墳時代の土師器なども展示されていて、改めて日韓交流の歴史を体感したのであった。
 
 館内のお土産売り場では、もう一つの目当てである『釜山城郭』という“電話帳”くらい分厚い図録を購入する。同書には釜山市内の古代から倭城を含む近世にまで至る城郭を紹介しており、巻末には日本の城郭研究界でもお馴染の羅東旭(ナ・ドンウク)氏や北垣聰一郎氏の特論も収録されていて、これからの倭城研究にも大いに役立ちそうである。
 
 夕食は博物館近くにある焼肉屋にて、韓国料理の定番であるサムギョプサル(豚の三枚肉の焼肉)を食した。考えてみれば、韓国に入国以来、初めての焼肉料理にありついたのであった。
 
※メ・ヘランとメ・ヘヨン姉妹は、豪州人の医師で宣教師の父と看護師の母を持つ。両親は朝鮮戦争で荒廃した釜山に孤児院やハンセン病病院を設立し、姉妹も両親の志を受け継ぎ復興に尽力した。姉妹は晩年を故国の豪州に戻り、余生を送った。
 姉妹は写真が趣味で、当時まだ普及段階にあったカラーフィルムを用いて、釜山市内の様々な風景をレンズに収めた。現在、写真の原版は京畿(キョンギ)大学校博物館が所蔵する(WEBサイト「ハフポスト日本語版」)。
 
(後編へ続く)
(文・写真:堀口健弐)