№34:安宅八幡山城(和歌山県西牟婁郡白浜町)

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安宅八幡山城縄張図
 
 筆者が生まれて始めて訪れたお城は、小学校4年生の遠足での和歌山城で、2番目は小学校の修学旅行での大坂城である。この時はそれなりに楽しんで帰った記憶があるが、現在の城郭研究には直接繋がっていない。人生3番目に訪れ、そして初の中世城郭の訪城となったばかりでなく、その後の中世城郭研究にのめり込む切っ掛けとなったのが、今回紹介する安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城である。
 
 筆者は幼少期から、歴史や科学などのノンフィクション系の本を読むのが好きであった。中学校では必ずクラブ活動に参加しなければならず、奇しくも入学時に誕生したばかりの歴史クラブに入部した。入部してすぐに顧問の橋本観吉先生から「あの山は中世の城跡だよ」と教えて頂いた。その山とは筆者の自宅の真ん前で、川向であるが直線距離にして僅か600mほどであった。
 
 俄然興味が湧いてきて、同じ部員の友人たちと早速休日を利用して探索に出かけた。確か1977年の6月頃だったと思う。初訪城時は山頂部が擂鉢状に窪んでいることしか分からなかったが、踏査を繰り返すうちに、窪んでいるように見えたのは曲輪の周囲を土塁が取り巻いているのだと分かった。
 
 また山道を外れて雑木林に分け入ると、それまで気付かなかった新たな曲輪・堀・石積みなどの存在を見つけ、さらには友人が青磁常滑焼の破片まで見つけ出してしまった。このように山中の探索を繰り返すうちに、探せば探すほど遺構・遺物が見つかる中世城郭の魅力に、完全に取りつかれてしまったのであった。
 
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写真1:安宅八幡山城遠景(手前の小山)
 
 さて安宅八幡山城は、紀伊半島南端の和歌山県西牟婁(にしむろ)郡白浜町に所在する。城跡は日置川の左岸に面した、標高83m(比高70m)の半島状丘陵に占地する(写真1)。現在は丘の東麓が深田池となるが、江戸時代の古地図『安宅一乱記巻末絵図』によると、東麓と西麓がにそれぞれ沼に描かれており、往時は両脇の沼が天然の水堀の役割を果たしていたようである。
 
 当城は熊野水軍の一派で、南北朝期から室町時代末期にかけて日置(ひき)川下流域を支配した、安宅氏(安宅水軍)の持城である。日置川と安宅川の合流地点に安宅本城を構え、これを守備すべく輪形陣に支城群を築いている。現在同町では、この一帯を「安宅の里」と呼び、城跡の学術調査やシンポジウムを開催するなどして、地域振興に力を注いでいる。
 
 軍記史料『安宅一乱記』によると、当城は安宅定俊の居城で、安宅一族の跡目相続から発展した戦いにより、1530(享禄3)年に落城したとされる。現在も落城したとされる日には、麓の矢田地区民により、戦火に散った城主の魂を弔うささやかな祭礼が行われている。
 
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写真2:発掘されたⅡ郭の雁木(2004年1月撮影)
 
 縄張りは、急崖の東斜面を除く三方を堀切と横堀で曲輪群を取り巻き、急崖側にも竪堀を設けている。特に尾根続きの背後は、二重の堀切で遮断する防御意識が見られる。城域は決して広くはないが、切岸は高くて堀は深く、とにかく土木量の多い城跡である。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。周囲に土塁を巡らし、東北隅が土饅頭上に一段高くなっている。地元では城主を供養した塚と伝えられるが、位置的に考えて櫓台の可能性もある。土塁に虎口A・Bを開口する。虎口BとⅣ郭間は、石段で繋がっていたことが2003(平成15)年度に行われた発掘調査により判明した。
 
 Ⅱ郭は三方が土塁囲みで、土塁内面に石積みを施す。また発掘調査では、土塁上面に登る雁木が出土している(写真2)。主郭ではなくⅡ郭が発掘調査の対象に選ばれたのは、主郭の地面には地山の岩盤が一部露出しており、ここを発掘しても成果が少ないであろうと判断してのことだそうだ。
 
 Ⅲ郭は堀切をはさんでⅡ郭と土橋で繋がり、三方が土塁囲みとなるが、曲輪内の削平は極めて悪い。おそらく純戦闘的な機能を担った空間であろう。塁線には張り出しCがあり、堀底を攻め上がってくる敵兵に弓矢などで掃射可能である。
 
 堀切はいずれも岩盤を掘りぬいた、いわゆる「岩盤堀切」である(写真3)。尾根背後の大堀切からは、常滑焼もしくは備前焼の甕片が多量に見つかっている。東斜面は、目測で傾斜角度が70~80°くらいもありそうな岩肌が露出した崖で、とても敵兵がよじ登ってこれそうに思えないが、こんな所まで竪堀を2条設けており防御の厳重さが窺える。
 
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写真3:尾根筋の大堀切
 
 さてⅡ郭で行われた発掘調査では、『一乱記』の記述を裏付けるように焼土層が検出され、この焼土より上層には生活痕がなく、遺物は主に焼土より下層から出土した(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。このことから火災による消失後は、城は再興されなかった可能性が高い。
 
 出土遺物の内訳は、白磁皿、青磁椀、染付皿、備前焼甕・壺・擂鉢、瀬戸美濃焼皿、常滑焼甕、土師器皿などで、貯蔵具が多く日常の土師器類が少ない。遺物の年代観は、伝世品の可能性が高い貿易陶磁器を除外しても、14世紀から16世紀初頭までと実に200年近くにおよぶ時間幅がある。
 
 城郭存続期間の下限を示す備前焼擂鉢は15~16世紀初頭に位置付けられるが(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流―備前焼を中心にして―」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)、この年代は『一乱記』で当城が落城したとされる1530(享禄3)年に近い数値である。
 
 当城は長らく『一乱記』の記述に基づいて、安宅氏の一族内紛により灰塵に帰したと信じられてきた。しかし1980年代に入って縄張り研究が進展すると、紀州の中世城郭は1585(天正13)年に起きた豊臣秀吉紀州攻めに引き付けて年代を下げて考えられるようになった(村田修三1985「戦国時代の城跡」『歴史公論』115、雄山閣)。
 
 ところが発掘調査の結果、落城を裏付ける焼土層が見つかり、また遺物の年代観も16世紀初頭止まりであることから、結局は元の鞘に戻った格好となった。それと同時に『一乱記』の記述も全くの創作ではなく、ある程度の史実を基に脚色して書かれた可能性も出てきた。
 
 現在、白浜町では、安宅の里の城跡群として国史跡にしようと動いている。和歌山県内の国史跡の城跡は、和歌山城1件のみと寂しく、この数字は近畿地方でも最も少ない。筆者も国史跡に関わる調査や啓発イベントがあれば、有償無償に関係なく文化面で故郷に恩返しする意味でも、何らかの形で関われればと考えている。
(文・図・写真:堀口健弐)