№37:亀浦倭城(大韓民国釜山広域市)

イメージ 1
亀浦倭城縄張図
 
 亀浦(クポ)倭城は、都市鉄道2号線「徳川(トクチョン)」駅から歩いて行ける“駅前倭城”である。ただし昔からそうだったわけではなく、筆者が本格的に倭城踏査を開始した1990年代後半は、まだ釜山市内には南北に貫く地下鉄1号線1本しかなかった。韓国滞在中は釜山駅前の安宿を拠点とすることが多く、亀浦倭城へは釜山駅前から出ている市内バス(路線バス)を利用していた。便数も多く乗り換えなしで行けるので、城跡の麓まで小1時間ほど揺られるのんびりとした行程であった。
 
 ある日の踏査の帰路で、突然バスがバス停でない所で停まった。韓国ではよくあること…と思っていたが、運転手が乗客に向かって何やら告げると他の乗客が一斉にゾロゾロと降りはじめた。韓国語なので何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、皆に合わせて下車すると別のバスが既に待機していた。どうやらバスの不具合か何かで運行できなくなり、代わりのバスを呼んだらしい。そんなほのぼのとした日常の一コマも今となっては懐かしいものである。
 
 それが2000年代前半に入って都市鉄道(当時の呼称は地下鉄)2号線が開通すると、徳川駅から亀浦倭城へのアクセスが俄然便利になった。それどころかこれにより市内へのアクセスの利便性が高まり、「随分と便利になったものだ」と思っていたのも今や昔の話である。
 
イメージ 2
写真1:Ⅳ郭から望む主郭石垣
 
 亀浦倭城は、大韓民国釜山広域市北区徳川洞に所在する。城跡は洛東江(ナクトンガン)の左岸に位置し、標高100m(比高90m)の小山に占地する。現在は徳川市民公園となり、釜山広域市記念物第6号に指定されている。一時期近隣農民が城跡内に違法に農地を開墾していたが、近時は徐々に撤去されつつある。
 
 この付近は倭城の密集地帯で、城跡に立つと梁山(ヤンサン)倭城、狐浦(ホポ)倭城(消滅)、金海竹島(キメジュクト)倭城、農所(ノンソ)倭城を見渡すことができる。当城は文禄の役の1593(文禄2)年、小早川隆景が普請し在番も担当した。
 
 当城の縄張りは、東の尾根続きを大堀切で遮断して曲輪を並べる。Ⅰ郭が主郭である。天守台は存在せず、北端が僅かに高まり曲輪面は緩く傾斜する。東南方向にAが突出し枡形虎口を形成すると同時に、強力な横矢掛かりを可能にしてる。主郭へ上がる虎口が見られないが、Ⅱ郭から建物と直結した昇降施設で出入りしていたのであろうか。Ⅱ郭から続くⅢ郭は内枡形虎口Dを開口するほか、隅櫓台と登石垣側の櫓台が並び櫓門であった可能性がある。
 
 一方Ⅱ郭から虎口Bを通ってⅣ郭に至り、ここでも櫓門Cを開口する。ここは永らく立木に加えて雑草は繁茂し、人が立ち入れない状態であったが、近年伐採され見事な高石垣が観察できるようになった(写真1)。さらに中腹のⅤ郭とⅥ郭とが両翼を広げたような格好で登り石垣で連結し、縄張りの一体化を図っている。
 
イメージ 4
写真2:Ⅷ郭の石垣
 
 さて亀浦倭城には、城郭史上において重要な問題点が二つ内在する。
 
 一つ目は畝状竪堀群の問題である。Ⅶ郭から7条とⅧ郭から4条の計11条の、「畝状竪堀群」に見える微地形が存在する。日本国内の中世城郭でも、横堀や帯曲輪から畝状竪堀群を落とす事例は多いが、倭城となると話が少し複雑になる。なぜなら織豊系城郭は、基本的に畝状竪堀群を使用しないと言われているからである。他の倭城にも「畝状竪堀群」に見える微地形がいくつかあり、城郭研究者でも意見が分かれるところである。
 
 畝状竪堀群でないとするならば、雨水が作り出した自然の造形物や、山の崩壊を防ぐために雨水を流す施設(和歌山県の一部地域では「まかせ」と呼ぶ)などの城郭類似遺構の可能性も考えられる(拙稿2005「“畝状空堀群”を持つ倭城について『愛城研報告』9、愛知中世城郭研究会)。
 
 否定派の中には「織豊系城郭は畝状竪堀群を使用しない→だから倭城に畝状竪堀群が存在するはずがない」と言う二段論法で否定する方もおられるが、さすがにこの考え方は学問的ではなく良くない。筆者は畝状竪堀群説に固執するわけではないが、否定するのであれば「これこれこういう理由で城郭類似遺構である」と検証すべきであろう。
 
イメージ 3 
写真3:Ⅷ郭の矢穴
 
 二つ目は矢穴の問題である。当城の石垣は自然石をそのまま用いるか、粗割りしただけのいわゆる「野面積み」あるいは「打ち込みハギ」と呼ばれる積み方で、基本的に矢穴(石を割るためのクサビを打ち込む穴)は見られない。しかしⅧ郭のみに矢穴が集中的に認められる箇所がある(写真2)。矢穴は1個の築石(つきいし)に対して1~2個の割合で穿たれ、矢穴のサイズは幅4~5㎝、深さは4~5㎝と3㎝以下の2種類で(写真3)、いずれも小型である(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
 矢穴は小さい物から大きな物へと変化し、慶長期後半には幅15㎝以上にまで大型化するが、江戸時代中頃になると一転して通称「豆矢」と呼ばれる小型が主流になる。当石垣は天端が崩れて、後世に積まれたり修築されたようには見えない。この評価が正しければ、廃城になった1598(慶長3)年以前には既に小型の矢穴が存在していたことになる。
 
 もっとも近年の肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の石切り場でも小型の矢穴が確認されており(市川浩文2014「肥前名護屋城石切場」『織豊系城郭の石切場』織豊期城郭研究会)、数は少ないながらも技術の雛形は存在していて、それが時間を置いてある時期から主流になったと考えるべきであろうか。
 
 亀浦倭城は交通アクセスの良さから、近年訪城する城郭研究者・愛好家も増えている。前述のごとく当城は城郭史の興味深い問題点を内包しており、「百聞は一見にしかず」で、是非ともご自分の目で確認して、賛成、反対意見を述べて頂きたいものである。
(文・図・写真:堀口健弐)