№38:二条城(京都市)

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二条城縄張図
 
 二条城は国宝であり世界遺産でもある。同城は昔から京都を代表する観光名所であったが、近年は海外からのお客さんも増えて大層な賑わいである。筆者は京都に住んで長いので、二条城はもはや地元のお城の感覚である。入城料を払って入ったのは10回を超えないと思うが、お堀端を歩いたり自転車で通過したのを含めると数えられないほどである。さらに今の職に就いてからは、電車の車窓からほぼ毎日のように二条城の隅櫓を眺めながら通勤している。
 
 ところで詳しくは後述するが、二条城は将軍徳川家光によって今我々が目にする姿に再築した。しかし城郭研究者はともかく、一般書やマスコミも含めていまだに家康が築いた城として紹介されることが多い。それを改めて実感させる出来事が今年起こった。
 
 2018年9月に近畿地方を襲った台風21号は“戦後最大の風台風”と呼ばれ、各地に甚大な被害をもたらした。貴重な文化財も例外ではなく、二条城も二の丸御殿の破風板が損傷した。その際に皇室を表す菊のご紋の覆い金具が外れて、その下から徳川家の葵のご紋の飾り跡が見つかった。その時の模様を伝える新聞記事の見出しでも「家康築城時の飾り跡か」とあり(『京都新聞』朝刊、2018年9月27日付け)、まるで家康が築いたかのように誤解させる記述である。
 
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写真1:外堀石垣
 
 二条城は京都盆地の中央部に占地し、水堀を「回」字形に巡らせた平城である。提示する縄張図は、ちょうど城内の桜が満開の頃の、2013年4月5日を中心に作成したもので、既存の案内板などをなぞったものではない。立ち入り禁止区域については、レーザー距離計を用いて測距した。
 
 当城の創築は、1602(慶長7)年に将軍徳川家康が京都上洛の御座所として築いたのが始まりで、その場所は現在の二の丸御殿付近に比定される。1626(寛永3)年、徳川家光後水尾天皇行幸のために、西に城域を拡大して現在見る姿に再築した(今谷明1980「二条城」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。
 
 縄張りは総石垣造により、内堀・外堀ともに切石だけで角石・角脇石・築石を積んだ「間地積」による(写真1)。これは寛永期に入ってから出現する石積技法であり、家康が同城を築いたとされる慶長期前半には未だ存在していなかった技法である(拙稿2002「城郭石垣の様式と編年―近畿地方寛永期までの事例を中心に―」『新視点・中世城郭研究論集』新人物往来社)。総ての石垣が同じ技法で積まれており、また石垣の繋ぎ目も見られないことから、同時期に積まれたことが分かる。
 
 Ⅰ郭が主郭(本丸)である。正方形を呈し内堀の外周も含めると約200m四方で、本丸だけでも約2丁四方の規模を誇る。西南隅に天守台Aを設けるが、この天守台には5層の層塔式天守が建てられていたが、1750(寛延3)年に落雷により焼失した(平井聖1980「二条城の天守」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。本丸の四周に石塁を巡らすが、総ての面を雁木坂にすることにより、守備兵の昇降を容易にしている。この北西隅と東南隅には、隅櫓台状の張り出しを設けている。
 
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写真2:天守台から見た虎口B
 
 BとCにそれぞれ虎口を開口する。いずれも内枡形と外枡形を組み合わせた形状であるが(写真2)、同型式の虎口は名古屋城(愛知県名古屋市)や篠山城(兵庫県篠山市)など、慶長期以降の徳川系城郭に共通する手法である。虎口BからⅢ郭(二の丸)へは廊下橋で繋がっていた。「廊下橋」と言うと優雅な響きもあるが、橋を掩体化して守備兵を出撃させる防御的な構造である。
 
 外堀は仕切り石塁によって東西に二分される。石垣の向きから、西側(Ⅱ郭)が内で東側(Ⅲ郭)が外の関係になる(写真3)。この仕切り石塁で区画されたⅡ郭を、馬出曲輪とする見解もある(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。二の丸(Ⅱ郭・Ⅲ郭)は隅櫓台が載る箇所を除き土塁で囲郭され、城外側の下半部だけに石を積んだ腰巻石垣としている。4隅には隅櫓台を設け、うち2棟の隅櫓が現存する。
 
 この二の丸には、D(東大手門)、E(北大手門)、F(西大手門)の三方向に虎口を開口する。虎口Fのみが内枡形虎口で、残る虎口は平入り虎口となる。現在は入城ゲートのある東大手門が正門的扱いであるが、Ⅰ郭虎口BといいⅡ郭虎口Fといい、縄張りだけを見ていると西に防御正面を置いているようにも見える。
 
 
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写真3:二の丸仕切り門
 
 このように徳川系の平城には外堀の3方に虎口を開口するものが多いが、4方向はあまりない。4=「死」に通じるために嫌ったのであろうか。なお虎口Gは大正時代になって新たに造られた城門で、築城当時には存在していなかった。
 
 Ⅲ郭には有名な国宝の二の丸御殿が建つ。2009年度に実施された遺構確認のための発掘調査によると、地表下40~50㎝地点から矢穴の残る礎石列が出土しており、これが家康期の建物に相当すると見られる(京都市埋蔵文化財研究所2010『史跡二条離宮(二条城)』)。つまり家康期二条城に厚さ40~50㎝の土盛りをし、その上に現在の二の丸御殿が建てられていたことが考古学的にも判明した。
 
 二条城は、二の丸御殿に代表されるようにどうしても御殿的イメージが強いが、細部を詳細に見ると、しっかりと防御面も考慮された縄張りとなっている。また石垣の様式や発掘調査成果から、現在我々が目にする姿は家光期のものであり、家康期二条城は二の丸御殿の下に今も眠り続けているのである。
(文・図・写真:堀口健弐)