№40:安土城(滋賀県近江八幡市)

安土城縄張図:中心部(一部、滋賀県教育委員会原図を参照)
 
 安土城(滋賀県近江八幡市)は、言わずとしれた織田信長が天下統一を目指して築いた居城であり、1576(天正4)年から築城を開始して1579(天正7)年に完成を見た。1582(天正10)年の本能寺の変で一度焼失し、その後再興されるが、1585(天正13)年に廃城となった(秋田裕毅1980「安土城」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。高石垣、瓦建物、天主(天守)を備えた様は“近世城郭の嚆矢”と評されている。
 
 筆者は学生時代だった1980年代から90年代にかけて、何度か同城の訪城経験があった。が、当時としては、その後に立ち入り禁止区域が設定される日がやって来るなどとは、夢にも思っていなかった。やがて平成の史跡整備後に、地権者の摠見寺が入山料を徴収するようになってからは、何となく嫌気がさして永らく訪れなかった。
 
 昨年の2018年5月4日に、原稿のネタ作りも兼ねて実に約20年ぶりに安土城を訪れたが、噂に聞いていたとおり残念な結果であった。入山料を徴収するのはまだ良いとしても、大手の入山口から天主台までの順路以外の箇所が悉く立ち入り禁止区域で自由な踏査ができない状態になっており、これでは真の安土城の魅力も伝わらないと思わずにはいられなかった。しかし「立ち入り禁止」と言われると逆に創作意欲が湧いてくるもので、何とか中心部だけでも縄張り図を描いてやろうと奮い立たったのであった。
 
 そこで日を改めて同年11月18日と20日の両日にわたって、山頂の曲輪群を中心に縄張り図の作成を行った。城郭研究者の間では「有名な城ほど縄張り図がない」と言われるが、同城も例外に洩れず滋賀県教育委員会作成の実測図を除くと、村田修三大阪大学名誉教授の縄張り図しか未だ世に出た図がないのである(村田修三1987「安土城」『図説 中世城郭事典』2、新人物往来社)。
 
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写真1:天主台穴蔵
 
 なお作図に際して、立ち入り禁止区域については目視可能な範囲はレーザー距離計を用いて測距し、目視不可能な箇所については過去に踏査した際の写真や記憶に基づいた。ただしⅣ郭(八角平)については踏査経験はあるものの、滋賀県教育委員会の実測図をそのまま参照した。
 
 さて安土城は、琵琶湖の東岸標高199m(比高110m)の安土山に占地する。周囲は昭和時代の干拓事業により陸地化が進んだが、往時は三方を琵琶湖に突き出して湖水に囲まれた岬状の地形であった。安土山は大別して黒金門より内側の狭義の山城部分、大手道の左右に展開する家臣団屋敷群、摠見寺の3区画で構成される。安土山に上級家臣団や寺院を集住させることで、山全体が一種の城下町を形成している。
 
 縄張りは全山が総石垣造りによる。いわゆる「穴太積み」と呼ばれる積み方で、全く加工しない自然石や、自然石を真っ二つに割っただけの粗割り石を使用し、石材の間隙には間詰石を入れる。隅角部は算木積を意識しつつも、角石の左右の引きが揃わない箇所や、角石の控えに極端な長短が見られる。
 
 ただし山頂部を中心に石垣の多くは、1960(昭和35)年から1975(同50)年にかけて、穴太積み石工で人間国宝の故・粟田万喜三氏によって修築工事が行われた。しかし当時は石垣自体が文化財だという認識に乏しく、修築前の状態を写真や図面などの記録を残していないため、どこまでが現存で修築なのかの区別が分かりづらくなり、研究にも支障をきたしている。
 
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写真2:信長廟
 
 Ⅰ郭は最高所で現在は「二の丸」と呼ばれているが、ここが本来の主郭であろう。現在は天主台からの崩落土で通行不可能だが、往時はⅠ´郭(天主取付台)と帯曲輪で連絡していたと思われる。中央部には、穴蔵を有する平面形が不等辺八角形の天主台Aを設ける(写真1)。この上に『信長公記』などの史料によると、地上6階地下1階の天主が建てられていたことが分かるが、上屋構造については決定的な史料がなく未だ不明のままである。
 
 そのⅠ郭には、1583(天正11)年に豊臣秀吉が信長の一周忌に建立したと伝えられる「信長公本廟」が祀られている(写真2)。ただし今見る信長廟は、切石を用いた「亀甲積み」に近い積み方であり、「豆矢」と呼ばれる小型の矢穴を穿っている。石垣の稜線には反りが見られ、天端石は幕末台場に見られるようなオーバーハングして張り出す「はね出し」状となっている。いずれの要素も現存する他の石垣とは様相が大きく異なっており、間違いなく江戸時代中期かそれ以降に信長顕彰のために整備されたものであろう。
 
 Ⅱ郭は現在「本丸」と呼ばれている。ここは1941(昭和16)年と1999(平成11)年の2度にわたって発掘調査が行われ、本丸御殿の礎石の一部が今も露出した状態となっている。発掘調査の結果、異説もあるが平面構造が御所の清涼殿に似ることから、信長が天皇を迎えるための行幸施設であったと見られている。
 
 Ⅲ郭は「三の丸」と呼ばれており、Ⅰ郭同様にⅡ郭よりも高い位置にある。立ち入り禁止になる以前の踏査時には、この曲輪に多数の瓦片が散布していたのを記憶している。
 
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写真3:黒金門
 
 Ⅳ郭は「八角平」と呼ばれており、文字通り平面形が多角形をした独立性の強い曲輪である。織豊系の山城には、主郭背後に大堀切や尾根鞍部を挟んで独立性の高い1郭を設ける事例があるが、その機能についてはこれからの検討課題であろう。史跡整備が始まった平成時代初め頃まではここまで散策できて、東屋やベンチなどの休憩施設が置かれていたように記憶しているが、現在ではここも立ち入り禁止となっている。
 
 城外に対してB・C・D・Eの各虎口を開口する。このうち虎口B(黒金門)とⅣ郭へ向かう途中にある虎口C(現在は立ち入り禁止)は、初期の織豊系城郭に特徴的な嘴状虎口となる(写真3)。両虎口ともに昭和の修築の手が入っているが、1687(貞享4)年の『近江国蒲生郡安土古城図』(摠見寺蔵)によると、虎口Bは形状自体に大きな差異は見られない。一方、虎口Cは同図には描かれていないところを見ると、『古城図』は天主台までの道程は正確に描くものの、それより奥はやや不正確な傾向が見て取れる。
 
 安土城では残念ながら、昭和と平成の修築がおよんでいないオリジナルの穴太積み石垣や、縄張りの見所でもある虎口Cは立ち入り禁止となっている。これでは穴太積み石垣の魅力も縄張りの魅力も存分に伝えることができず、大変残念な結果と言わざるをえない。“蛇の道は蛇”で、安土城を管轄する滋賀県教育委員会と管理する摠見寺との間で、様々な軋轢のあることが漏れ聞こえてくるが、この素晴らしい城跡を存分に活用しきれてい状況を憂いずにはいられない。
(文・図・写真:堀口健弐)