№41:2019倭城踏査速報(前編)

 4月3日㈬から同月10日㈬にかけて、約1年ぶりとなる倭城踏査旅行を行った。本来ならば年度末までに、有給休暇を消化する意味でも、遺構の写真映りを考えても3月中に訪韓したかったところだが、3月前半は発掘調査報告書の作成で忙しく、仕事が楽になると期待していた同月後半には急な遺跡発掘調査の仕事が入ったため、今年度も有給休暇を半分ほど流してしまった。そのため次の発掘現場が始まりそうな日まで時間がある4月上旬になって、漸く踏査旅行を決行することができたのであった。
 
 韓国釜山界隈では関西よりも一足先に桜が満開で、帰国時には早くも葉桜に変わりつつあった。日差しはめっきりと春めいてきてはいたが、吹く風はまだ少し冷たく感じる日も多かった。
 
 今次踏査の成果は今夏刊行の専門誌に投稿の予定であるが、8日間のうち初日と最終日はほぼ移動日なので、実質中6日の行程を前編・後編の2回に分け、速報として以下に報告する。
 
4月4日㈭ 晴
 
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安骨浦倭城
 
 事実上の初日は安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)へ。釜山駅から都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り下端(ハダン)駅で下車し、龍院(ヨンウオン)行の市外バス(急行バス)に乗り換え、下車後徒歩にて現地へ向かう。
 
 同城は10回+αの訪城経験があるが、どうしてもデジタルカメラで再撮影がしたく改めての訪城となった。事前の情報で草木が刈られて観察しやすくなっているとのことであったが、現地に着いてみると確かにそのとおりで、今や倭城の中では最も見学しやすいと言える。山菜獲りのアジュンマ(おばちゃん)たちの横を失礼しながら、終日写真撮影に興じた。
 
 夕刻、沙上(ササン)バスターミナルで“倭城ナビゲーター”の植本夕里女史と再会し繁華街へ。夕食はテジカルビ(豚の味付け焼肉)と韓国冷麺を食しながら、明日以降の日程や踏査地などに花を咲かせた。
 
4月5日㈮ 晴
 
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固城邑城と踏査中の筆者(植本夕里氏撮影)
 
 沙上バスターミナルから固城(コソン)行の市外バスに乗り込み、固城邑へと向かう。この日の目的は、固城倭城の外郭線にも転用された固城邑城(慶尚南道固城郡固城邑)の遺構探索である。
 
 同邑城の遺構は完全に消滅したと思い込んでいたが、偶然にもインターネット上で見つけた『固城邑城址地表調査報告書』(2001年、固城郡、慶南発展研究院歴史文化センター)によると、2001年段階でも何か所に邑城の城壁遺構が残片的に残っていることを知り、俄然興味が湧いてきた。遺構は下町の路地裏などに辛うじて一部が残る状態で、当日はあまり確認することができず、後日への持越しとなかった。
 
 遅い昼食の後、すぐ近くにある松鶴洞(ソンハクドン)古墳群と、併設する国立固城博物館を見学する。同古墳はかつて「韓国の前方後円墳か?」と日韓の考古学界で話題になった。東亜(トンア)大学校が行った発掘調査によると(団長:沈奉謹教授)、同古墳は円墳が重なって築かれたもので、前方後円墳説はひとまず否定された(これに関しては項を変えて私見を述べたい)。
 
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松鶴洞古墳出土の日本産須恵器(撮影可能資料)
 
 ところで博物館の展示品には、どう見ても日本の須恵器に見える蓋杯とハソウが何点か展示されていた。須恵器は朝鮮半島から渡来人が伝えた土器なので、故地と姿形が似ている物も多い。筆者は須恵器の専門家ではないものの、日頃から須恵器を目にし触れる機会が多く、件の須恵器は陶邑編年のMT15型式(6世紀前半)にしか見えなかった。が、この問題は明後日に思わず解決した。
 
 国立晋州(チンジュ)博物館で購入した図録『固城』(2014年、国立晋州博物館)によると、件の須恵器は「倭系遺物」と紹介されている。この日は展示替えで見られなかったが、以前の訪館時には須恵器提瓶も展示されていた。「提瓶」とは軍隊や登山家が使うような水筒形の器で、日本で生まれて朝鮮半島には存在しない器種である。このことからも松鶴洞古墳の被葬者は、大和政権と関係の深い豪族であったことが分かる。
 
 その後釜山の沙上に戻り、夕食は韓国焼肉の定番中の定番であるサムギョプサル(味付けしない豚の焼肉)を食した。
 
4月6日㈯ 晴
 
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西生浦倭城
 
 4月6日は語呂合わせで「城の日」なので、「西生浦(ソセンポ)倭城へ行きたい」と言う夕里さんのリクエストに答えて、この日は終日西生浦倭城(蔚山広域市蔚州郡)を踏査する。少し前までは釜山市内の海雲台(ヘウンデ)から市外バスが出ていたが、近時、残念ながら路線が廃止となり、西生浦倭城への直通便がなくなってしまった。
 
 この日はコレール(韓国国鉄)の釜田(プジョン)駅からムグンファ号(急行)に乗り、まず南倉(ナムチャン)駅へ向かうが、本数は2時間に1本間隔である。下車後、駅前から鎮下(チナ)方面へ向かう市内バス(路線バス)に乗り換える。本数は1時間に1本間隔だが、急行の到着時間に合わせているのか、ほとんど待ち時間なしに乗ることができ、その名も「西生浦倭城前(ソセンポウェソンアプ)」という名のバス停で下車した。
 
 当日は雲一つない“日本晴れ”で、西生浦倭城名物の登り石垣も青空をバックに撮影することができた。城内に植えられた桜も満開から散り始めで、団体客や家族連れの花見客、さらには新婚さんの記念撮影などで城跡も大層賑わっていた。
 
 帰路は再び南倉駅まで戻ったところで、運良く海雲台行きの市外バスが通りかかったので、急ぎこれに飛び乗り釜山市内まで戻る。
 
 夕食は西面(ソミョン)のその名も“テジクッパ通り”で、釜山名物のテジクッパを食す。テジクッパとは、白濁したあっさり味の豚骨スープにチャーシューのような豚ばら肉が入った、雑炊のような韓国のソウルフードである。例えるなら豚骨ラーメンの替え飯のような感覚で、日本人の口に向いている味かもしれない。夕里さんは明日以降に一時帰国されるので、一旦ここでのお別れとなった。
(文・写真:堀口健弐)