№42:2019倭城踏査速報(後編)

4月7日㈰ 曇のち雨
 
 旅の後半戦となる本日からは単独行動となる。天気予報では「曇のち雨」の予報が出ており、時間予報でも昼前からの降り出しとのこと。この予報を信用して山城へは行かずに、国立晋州(チンジュ)博物館(慶尚南道晋州市)で情報収集することにしたが、これが予想以上の成果を得ることができた。
 
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晋州城発掘現場(道路から撮影)
 
 いつもの沙上(ササン)バスターミナルから、市外バスにて一路晋州市へと向かう。
 
 まずは晋州城を訪れるが、以前は古ぼけた大きな建物が建っていた所が、再開発なのかそれとも史跡整備なのか、大々的に発掘調査中であった。当日は日曜日ということもあって関係者は誰もおらず、発掘現場にはブルーシートが被せられていたが、それでもシートの隙間から遺構を眺めることができた。解説の横断幕によると、朝鮮時代(後期か)の石垣、高麗時代の土塁、それに統一新羅時代の水路などの遺構が出土しているとのことであった。
 
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国立晋州博物館
 
 次に向かったのが晋州城内に建つ国立晋州博物館。博物館としての歴史は古いが、同城は文禄・慶長の役の激戦地であることにちなみ、何年か前に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)専門博物館にリニューアルされたが、早くも昨秋に再リニューアルオープンしたばかりであった。韓国の博物館はリニューアルが早いと思っていたら、実はその逆で、日本の博物館の方が世界的に見てリニューアルが遅いのだそうだ。
 
 新装なった展示の中で筆者の目を引いたのは、倭城の古写真のパネル展示であった。お馴染みの古写真に加えて、筆者がこれまで目にしたことがなかった蔚山倭城、釜山倭城、林浪浦倭城、竹島倭城、倭城洞倭城などの古写真も展示されていた。
 
 面白いのは、九州大学に戦前から伝わる倭城図面(通称『九大倭城図』)に描かれた倭城は古写真も残るが、同図に描かれていない倭城は古写真も残っていない。例えば巨済(コジェ)島に残る倭城のうち、倭城洞(ウェソンドン)倭城(慶尚南道巨済市)は写真も図面も残っているのに対し、その他の倭城は写真も図面も残っていない。
 
 これは戦前に存在した「要塞地帯法」の影響であろう。この法律は要塞や軍港から一定距離以内では、たとえ自分の土地であっても写真撮影、スケッチ、測量などの行為が固く禁じられており、許可なく行うとスパイ容疑で逮捕され懲役刑が科せられた。おそらく「要塞地帯法」の影響で、倭城の写真撮影も縄張図作成もできなかったのであろう(拙稿2006『倭城の縄張りについて」『愛城研報告』10、愛知中世城郭研究会)。
 
 博物館ではいずれも電話帳くらいもある図録『固城』(2014年、国立晋州博物館)と、リニューアルなった常設展示図録『丁酉再乱1597』(2018、国立晋州博物館)を購入し、明日の固城邑城踏査にも大いに役立った。
 
 博物館を出る頃には予報どおりに雨が降り出していて、晋州城の見学もそこそこに市外バスに飛び乗って、釜山への帰路に就いた。
 
4月8日㈪ 晴
 
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固城邑城(右手に甕城の一部が残る)
 
 昨日からの雨も上がり、一昨日に引き続き終日固城(コソン)邑城(慶尚南道固城郡固城邑)の踏査を行った。昨日購入した図録『固城』に固城邑城の概念図と現存遺構の写真などが掲載されていて、これが大変役立った。ただし同書では、固城倭城の石垣を固城邑城の遺構と誤認している所が3か所あり、しかもマッピングする位置も間違っていた。
 
 遺構は下町の路地裏の所々に残る状態である。これまで何度も訪城経験のある固城倭城のすぐ傍らにも、固城邑城の南門跡の甕城(オンソン:丸馬出に似た朝鮮式城郭の虎口)が残ることを初めて知り、自分自身の見識の低さを恥じた。城壁は畑と民家の境界となり、敷地の塀越しでないと目視しづらい状況で、人の家を覗き込む外国人など土地の人に見つかると怪しいことこの上ない。
 
 他の場所でも石垣が民家の基礎になって残っていたりして、長居すると怪しい人と間違えられて警察に通報されかねないので、路地裏で遺構を確認すると素早くレーザー距離計で計測して、直ぐに通りに戻って作図するヒットアンドアウェー戦法の波状攻撃で、何とか遺構の確認と図化を行った。
 
 ただし『固城』にマッピングされた遺構との位置関係が異なる箇所もあり、同書が間違っている可能性もあるが、筆者自身も単なる古ぼけた石垣を固城邑城の城壁と誤認している可能性もあることを付言しておきたい。
 
4月9日㈫ 晴のち雨
 
 この日は事実上の最終日である。天気予報では「曇のち雨」の予報だが、時間予報によると雨の降り出しは夕方からで、これに賭けて踏査を決行した。結局この賭けが当たり、昼過ぎまでは青空が残り、小雨が降り始めたのは踏査を終えて帰路に就いた日暮れ前になってからであった。
 
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徳島倭城遠景
 
 まず午前中に、これまで懸案となっていた徳島(トクト)倭城(釜山広域市)を踏査する。同城へは数年前まで沙上バスターミナルから金海(キメ)行のバスが頻繁に出ていたが、近年、ニュートラムのような釜山金海軽鉄道が開通したあおりを受け、バス便は朝夕のみの数本に減便されてしまい、踏査のタイミングが難しかったた。
 
 城跡は小高い丘に占地し現状では要害地形には見えないが、朝鮮時代末期(19世紀)の古地図『東莱釜山古地図』(東亜大学校所蔵)によれば、西洛東江の中に漢字で「徳」とか「竹」とか書かれた小島が描かれている。これが徳島倭城と竹島(チュクト)倭城で、往時は両城とも大河に浮かぶ水城であった。
 
 当城は、城郭研究者仲間の情報網で目ぼしい遺構は存在しないと聞かされていたが、確かに丘頂に平坦面があるだけで現状は墓地や耕作地となり、石垣や堀といった防御遺構は一切確認できなかった。ただし開墾された畑には青磁や陶器の破片の散布が見られたので、朝鮮時代にこの地で何らかの人々の営みがあったことだけは確かのようである。
 
 なお事前情報では、矢穴の残る露岩があると聞いていたのだが、範囲が広大過ぎて探し出すことができなかった。
 
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竹島倭城
 
 午後からは、徒歩にて川向にある竹島倭城へと向かう。同城も過去に10回超の訪城経験があるが、改めてデジタルカメラで写真撮影を行った。
 
 同城は遺構が良く残るものの、主郭石垣はツタや雑草が繁茂してなかなか石垣を良い条件で観察することができなかった。ところが数年前に釜山市によって大々的な除草作業が行われて、初めて石垣の全容を目の当たりにすることができた。その結果、今まで気付かなかった築石に不自然な稜線の存在を確認した。おそらく石垣の改修か、施工単位を表しているのだろう。
 
 同城の帯曲輪には矢穴の残る露岩が数か所あり、筆者は実測図を発表しているが(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)、どうやら成長した草木に埋もれてしまったようで、所在を再確認することすらできなかった。現地には重機が入った形勢はなく、一個人が鍬やスコップで撤去できる代物ではないので、探せばどこかに眠っているはすなのだが。
 
 帰路はバス便が夕刻までないはずなので、最寄りの軽鉄道「金海市庁前駅」まで1時間ほどかけて歩く覚悟を決めていたのだが、麓の停留所から軽鉄道「大渚(テジョ)駅」行きのマウルバス(マイクロバスタイプのコミュニティバス)が出ているのを発見。運行時間は1~2時間に1本間隔だが、運良くあまり待ち時間なし乗車することができた。反対方向に乗っても「金海市庁前駅」まで行けるようだ。 
※ 
 中6日間の踏査旅行は短かった。決して楽しい時間は早く過ぎ去ると言うのではない。滞在中は雨天で山城に行けない日もあれば、1城の踏査が数日がかりになる日もある。当然それも見越して計画を立ているつもりであるが、それでも予定どおりには進まないのが世の常である。具体的に言うと、今回予定に含めていた機張(キジャン)邑城(釜山広域市機張郡)は、残念ながら全く踏査することができず今後の踏査に持ち越しとなってしまった。
(文・写真:堀口健弐)