№43:石倉山城(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)

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  石倉山城縄張図

 昨年(2019)年1月12日から13日にかけて、筆者が所属するもう一つのお城の研究会で、南紀勝浦方面の踏査旅行を行った。参加者はいつもの顔ぶれに加えて、今も郷土史研究をされている筆者の高校時代の事実上の師匠も特別参加するサプライズがあった。

 JR和歌山駅前で待ち合わせて南紀方面へと車を走らせたが、国道42号線を南下するにしたがい小雨がぱらつき始める生憎の天気となった。そこで皆と相談の上、1日目の日程を新宮城界隈に急遽変更した。

 まず向かったのが新宮城下町遺跡の発掘現場。突然のアポなし訪問であったが、メンバーの一人と発掘担当者が顔見知りということもあり、傘を差しながら特別に発掘現場を見学させてもらった。その足で新宮城を訪城し、筆者が急遽石垣の積み方や矢穴の説明をしながら石垣を中心に見学した。

 当夜は海沿いにある一軒家の民泊に宿泊し、鍋料理を突きながら明日の踏査目的などについて語り合いながら、夜は更けていったのであった。

 

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  写真1 石倉山城遠景

 さて2日目は、いよいよ本来の目的地である石倉山城である。当日は早くも春の到来を思わせるようなポカポカ陽気で、また麓の神社では地元のお祭りが行われており、これを横目に見ながら一同城跡を目指した。

 石倉山城は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に所在し、勝浦温泉のある那智湾から2kmほどさかのぼった、那智川とその支流の長谷川との合流地点に位置する。この那智川をさらにさかのぼると、世界遺産の構成要素の一つである熊野那智大社へと至る。

 城跡は、東西に細長い半島状丘陵の痩せ尾根上に占地する。標高40m(比高30m)とそれほど高い山ではないが、山中の所々では岩盤がむき出しとなり、特に北側斜面は直登が不可能なほどの急崖となっている(写真1)。

 城の歴史については不明な点が多いが、江戸時代後期に編纂された地誌『紀伊風土記』によると、城主は那智の社僧の清水門善坊で、堀内氏善が那智川対岸に蚤ヶ城を築いて石倉山城を攻めたとある。言うまでもなくこれは一次史料ではないが、当時の人々にはそのように認識されていたのであろうか。

 縄張りは小ピーク上に主郭を置いて曲輪を段々に連ね、背後と尾根前方を堀切で遮断して城域としている。また要所には、山中で産出する石材を用いた、高さ1m前後の石積みを築いている。

 

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  写真2 Ⅲ郭の岩盤堀切

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。数段の削平地から成るが、段差はいずれも1m前後で特に遮断施設もないことから、この区域全体が主郭の認識と思われる。Aが城外へ少し張り出した恰好になるが、これは北側への眺望を意識したためであろうか。曲輪の北側から尾根背後にかけては土塁を巡らしている。また要所には石積みをを築いている。曲輪の片隅には石桝状の遺構Bが残る。

 主郭背後の尾根筋は2条の堀切による遮断している。ここから傾斜の緩い痩せ尾根伝い進むと堀切状の微地形が存在するが、現在も山道として利用されていることから、切通と判断して良いであろう。

 Ⅱ郭も石積みを多用した曲輪で、石段で連結して堀底に至る。

 Ⅲ郭以東は岩盤が露出した痩せ尾根が続き、その先端には堀切を設けて城域を区画していいるが、この堀切は岩盤を掘削したいわゆる“岩盤堀切”となっている(写真2)。さらにその東方の尾根先端部は小ピークとなるが、自然地形と思われる平坦面が存在するだけで、曲輪に造成された痕跡は認められない。

  南斜面には数段の削平地からなるⅣ郭があり、現状は果樹園や津波の避難所に利用されている。ここは門善坊屋敷の伝承が残るが(白石博則2020「山麓から温泉がわく那智勝浦井関石倉山城を訪ねて」『紀州古城館情報』341、和歌山城郭調査研究会)、ここに残る石積みは前述の物と比べると石材は一回り小ぶりで、城郭遺構かどうかは疑わしい。

 石倉山城は那智勝浦一帯を支配すると同時に、那智街道を抑える目的もあったのであろう。

 なお余談になるが、那智川を挟んだ山側に堀内氏が築いたとされる付城「蚤ヶ城」を求めて山中を探索したが、城郭遺構を確認することはできなかった。場所が違っていたのか、それとも遺構を残さない簡易な陣だったのか、はたまた単なる伝承に過ぎないのかは、今後の研究課題として残った。

  (文・図・写真:堀口健弐)