№44:固城倭城その2(大韓民国慶尚南道固城郡)

 

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   固城倭城縄張図 

 固城(コソン)倭城については、当ブログ「№14:固城倭城」でも一度紹介した。固城倭城は慶長の役が勃発した1593(慶長2)年に吉川広家が普請を担当し、立花宗茂が在番したが、翌年には日本軍撤退とともに廃城となった。

 昭和初期に日本の軍人・原田二郎陸軍工兵大佐(最終階級は少将)が作成した倭城縄張り図が九州大学に伝わっている(いわゆる『九大倭城図』)。そのうち「固城城図」によると、狭義の城郭本体部の周囲に明らかに朝鮮式の邑城(集落の周囲を城壁で囲郭した城塞集落)と思われる城壁を描いて、それが城郭本体に接続している(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)。つまり邑城の城壁を、倭城特有の外郭線に転用した縄張りであったことが推察される。

 筆者はこれまで何度となく同城の踏査経験があるが、そのような遺構を一度も目にしたことがなく、無いと思い込んでいると余計に見えなくなっていたのだろう。ところがインターネット検索で情報収集していると、韓国側で刊行された分布調査報告書(PDF版)に偶然出くわした。それによれば現在も城壁の残欠が、建物の基礎や敷地の境界となって数か所にかろうじて残っていることを知った(固城郡・慶南発展研究院歴史文化センター2001『固城邑城址地表調査報告書』)。いまだ戦後の縄張り図で外郭線を描いた図は未出なだけに、これを読んで俄然興味が沸いてきて、少しでも良好なうちに踏査して図化しておきたいと考えるに至った。

 そこで2019年4月5日と8日の2日間にわたって現地踏査を行った。1日目は倭城ガールの植本夕里氏と一緒に踏査。遅い昼食をはさんで、午後からは固城倭城のすぐ近くにある鶴松洞(ハクソンドン)古墳群と、併設する国立固城博物館を見学した。特に同博物館では、植民地時代に日本の古積調査隊が撮影した様々なパネル写真が展示されており、その中にはこれまで書籍やインターネットでも見かけない新たな固城倭城の古写真も展示されていて、現地での情報収集の大切さを改めて実感した。

 3日おいて2日目は単独での踏査となった。下町の路地裏奥深くまで入り込んで縄張り図を描いたり写真を撮ったりと、かなり怪しい行動の繰り返しで、道行く土地の人と出会うと何食わぬ顔ですれ違って、人影が見えなくなるとまた図面作成と写真撮影の繰り返す、冷や汗ものの踏査であった。

 

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  写真1 石垣Bと甕城(写真奥側右手)

 さて固城倭城は、標高20m(比高10m)の海岸段丘上に占地する。現在は海岸線が大きく後退しているが、グーグルマップなどの衛星画像を見ると海岸線がまるで定規で引いたように直線的で、その中に池らしい地形が残る。つまりこれは干拓事業の最終段階で、潮受け堤防で仕切られた中に干拓湖が残っている姿である。朝鮮時代後期(17~19世紀)の古地図『固城府地図』(ソウル大学校蔵)によると、倭城のあったすぐ麓まで入江が迫り船着き場も描かれているので、往時は港としても最適の地であったことが分かる。

 Ⅰ郭が主郭で、西側は海岸段丘に面して落差があるが、地続きの東側は帯曲輪を巡らして2段築成によっている。東南隅に天守台Aを設ける。現在は主郭と同レベルに削平されてここに人家が建っているが、1914年に人類学者の鳥居瀧蔵率いる古積調査隊が撮影した古写真によると、主郭面よりも一段高く築かれていることが確認できる。

 海岸段丘上の縁辺部を巡るように外郭線が巡るが、これは前述のとおり朝鮮王朝が築いた固城邑城 の城壁を転用したものである。固城邑城は古くから土城として存在していたが、15世紀になって倭寇の侵入に備えて今見る石城に改修され、古地図によると北・東・南の三方に城門を開口していた。

 邑城の石垣は日本式の石垣とは異なり、先ず根石を水平に据えてそこから一歩後退させた位置から石材をほぼ垂直に積み上げている。Bは南門の遺構である。日本の丸馬出に似た甕城(オンソン)と呼ばれる三日月形の城壁がかろうじて残る(写真1)。Fは大城(テソン)初等学校と民家の境界となり、目測で高さ約2mである(写真2)。最も残存状態の良い石垣Gは目測で高さ約3mであるが、往時はもう少し高かったのであろう。その他の箇所では高さ1m以下となり、民家の基礎となってかろうじて残る。他にも道路の延伸工事により事前の発掘調査後に消滅した物もあり、跡地には説明板が立てられている。

 

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  写真2 石垣F

 このように既存の邑城の城壁をそのまま倭城の外郭線に利用した事例に、他には泗川倭城(慶尚南道泗川市)がある(泗川倭城については当ブログ「№4:泗川倭城」を参照)。朝鮮側の城郭を転用する理由について、既存の城壁を倭城の縄張りに組み込んだ方が、普請の工程を短縮できる利点があるためであろう。加えて固城倭城の事例では、固城邑城自体が地方政治や商業の拠点であったことは想像に難くなく、現在も地方都市として機能していることからそれが窺える。拠点集落を倭城に組み込むことにより、単に軍事拠点としてだけではなく、地域支配の主眼に入れて築城した結果であろう。

 (文・図・写真:堀口健弐)