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コラム4:釜山倭城をめぐる新出の古写真3題

…出兵)で築かれた釜山倭城(韓国釜山広域市)は、韓国第二の都市釜山の繁華街近くに位置することから、植民地時代に多くの測量図や地形図が作成された。今回紹介するのは、植民地時代と独立直後に釜山倭城を写した貴重な写真3枚である。釜山倭城を写した古写真はこれまであまり知られておらず、非常に貴重な資料と言える。 写真1 1900年代の釜山倭城(学習院大学東洋文化研究所より引用) まず紹介するのは、学習院大学東洋文化研究所が所蔵する1900年代に写された古写真である。この古写真の存在は植本…

コラム:馬出みたいなもの

…)。 第4図 西生浦倭城 最後に紹介するのは近畿地方の事例ではないが、ほぼ同時期に築かれ韓国に今も残る西生浦倭城(大韓民国蔚山広域市蔚州郡)である(第3図)。この城は加藤清正が1592(文禄2)年に築城し、登り石垣が壮大なことで知られているが、今回注目してもらいたいのはⅠ郭(主郭)の背後(西側)にある曲輪である。主郭虎口の前面に石塁囲みの「コ」字形の曲輪を設け、やはり左右に虎口を開口する。戦後日本で初めて本格的な倭城調査を行った倭城址研究会によると、これを「馬出曲輪」と評価し…

コラム2:海を渡った城郭瓦~東莱倭城と蔚山兵営城~

…1)。 第1図 東莱倭城縄張図 東莱邑城攻略後の1592(文禄2)年、すぐ隣の標高105m(比高75m)の望月山に吉川広家が東莱倭城(釜山広域市)を築いた(第1図)。図中を東西に横断する城壁は、18世紀に入って城域を拡大して再建された後期東莱邑城の遺構である。現在Ⅰ郭(主郭)には、邑城時代の物見櫓「東将台」が復元されている。詳しい出土状況は情報不足のために分からないが、建設時に軒平瓦(滴水瓦)が出土し(写真2)、現在は釜山博物館で保管されている(羅東旭2015「朝鮮時代釜山地…

№44:固城倭城その2(大韓民国慶尚南道固城郡)

固城倭城縄張図 固城(コソン)倭城については、当ブログ「№14:固城倭城」でも一度紹介した。固城倭城は慶長の役が勃発した1593(慶長2)年に吉川広家が普請を担当し、立花宗茂が在番したが、翌年には日本軍撤退とともに廃城となった。 昭和初期に日本の軍人・原田二郎陸軍工兵大佐(最終階級は少将)が作成した倭城縄張り図が九州大学に伝わっている(いわゆる『九大倭城図』)。そのうち「固城城図」によると、狭義の城郭本体部の周囲に明らかに朝鮮式の邑城(集落の周囲を城壁で囲郭した城塞集落)と思…

番外編:堀口健弐著作目録(城郭編)

…稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会 共著1998「石垣」「瓦」『史跡岩尾城跡調査報告書』兵庫県山南町 拙稿1999「倭城の石垣ー資料化と分類の試みー」『倭城ー城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像ー』倭城研究シンポジウム実行委員会 拙稿1999「倭城の石垣ー資料化と分類の試み」「金海竹島倭城の遺構と遺物、石垣」「西生浦倭城の遺構と遺物、石垣」『倭城の研究』3、城郭談話会 拙稿1999「城郭遺構の簡易測量方法」『花園大学考古学研究論叢』Ⅱ、花園大学考古学研究室2…

コラム:昭和14年発行『釜山城址』について

…は少ないのだが、こと倭城と朝鮮考古学に関しては紙媒体の情報自体が少ないので、小まめに何か新しい情報が出ていないか頻繁にチェックしている。たとえ個人の旅行記的なブログであっても、そこから得られる情報が少なくなく、上手くいくと韓国で刊行された発掘調査報告書(もちろん韓国語だが)をダウンロードできることもある。 写真1 『釜山城址』表紙(Auclfreeより引用) そんななかで思わず目に留まったのが、今回紹介する『釜山城址(釜山観光叢書第二集)』なる小冊子である。これはWEBサイト…

№42:2019倭城踏査速報(後編)

…者の目を引いたのは、倭城の古写真のパネル展示であった。お馴染みの古写真に加えて、筆者がこれまで目にしたことがなかった蔚山倭城、釜山倭城、林浪浦倭城、竹島倭城、倭城洞倭城などの古写真も展示されていた。 面白いのは、九州大学に戦前から伝わる倭城図面(通称『九大倭城図』)に描かれた倭城は古写真も残るが、同図に描かれていない倭城は古写真も残っていない。例えば巨済(コジェ)島に残る倭城のうち、倭城洞(ウェソンドン)倭城(慶尚南道巨済市)は写真も図面も残っているのに対し、その他の倭城は写…

№41:2019倭城踏査速報(前編)

…て、約1年ぶりとなる倭城踏査旅行を行った。本来ならば年度末までに、有給休暇を消化する意味でも、遺構の写真映りを考えても3月中に訪韓したかったところだが、3月前半は発掘調査報告書の作成で忙しく、仕事が楽になると期待していた同月後半には急な遺跡発掘調査の仕事が入ったため、今年度も有給休暇を半分ほど流してしまった。そのため次の発掘現場が始まりそうな日まで時間がある4月上旬になって、漸く踏査旅行を決行することができたのであった。 韓国釜山界隈では関西よりも一足先に桜が満開で、帰国時に…

№39:蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)

蔚山倭城縄張図 蔚山(ウルサン)倭城は、倭城踏査のみならず人生の中でも忘れえない思い出の多いお城である。1999年には初の一人旅で倭城を巡り、その前年の98年には「蔚山の置いてけぼり事件」が起こった。韓国語もろくに喋れない異国の地で本隊に置いてぼりにされ、自力で高速バスに乗って釜山まで移動し、飛び込みでその日の宿を探すという、人生で何度もない貴重な経験をした。これは大変な思い出でもあるが、長くなりそうなので下記の文献を見つけられたら、是非とも一読されたいと思う(拙稿2004「…

№37:亀浦倭城(大韓民国釜山広域市)

亀浦倭城縄張図 亀浦(クポ)倭城は、都市鉄道2号線「徳川(トクチョン)」駅から歩いて行ける“駅前倭城”である。ただし昔からそうだったわけではなく、筆者が本格的に倭城踏査を開始した1990年代後半は、まだ釜山市内には南北に貫く地下鉄1号線1本しかなかった。韓国滞在中は釜山駅前の安宿を拠点とすることが多く、亀浦倭城へは釜山駅前から出ている市内バス(路線バス)を利用していた。便数も多く乗り換えなしで行けるので、城跡の麓まで小1時間ほど揺られるのんびりとした行程であった。 ある日の踏…

№35:梁山倭城(大韓民国慶尚南道梁山市)

梁山倭城縄張図 1996年の確か秋頃、梁山(ヤンサン)倭城が土取り工事で消滅するという、ショッキングな情報が飛び込んできた。さっそく筆者が所属するお城の研究会で、破壊前に地表面調査による調査を行い、その記録を残さねばという話しになって、有志で12月20・21の2日間にわたって実地踏査を行った。 韓国は12月に入ると途端に寒くなり、城跡のすぐそばを流れる小川には分厚い氷が張り、寒さを堪えながら各人、縄張り図、石垣、瓦といった決められた役割分担の調査を黙々とこなしたのであった。そ…

№33:南海倭城(大韓民国慶尚南道南海郡)

南海倭城縄張り図 南海(ナメ)倭城は、大韓民国慶尚(キョンサン)南道南海(ナメ)郡南海邑船所里(ソンソリ)に所在し、釜山から見ると、順天(スンチョン)倭城に次いで2番目に遠い所に位置する倭城である。しかし釜山市内の西部バスターミナル(別名:沙上バスターミナル)から「南海」行きの長距離バスに乗車して終点で下車し、そこから徒歩約20分で到着すので で、倭城の中では遠方にありながらも比較的訪城しやすいと言える。 同倭城は、これまで計11回の訪城経験がある。1999年11月5・6日に…

№31:2018倭城踏査速報(後編)

…置する徳島(トクト)倭城と、右岸に位置する金海竹島(キメジュクト)倭城を予定していた。徳島倭城は城友からの口コミで、遺構は一切存在しないとの情報を得ていたが、それでも所在地と本当に遺構が存在しないことを自身の目で確認したかったことと、その対岸にある金海竹島倭城を学生君に案内し、自身も写真撮影を行いたかった。 ところが沙上(ササン)バスターミナルに着き、時刻表を見て愕然とした。かつては15分間隔くらいで頻繁に出ていた金海行のバスが、午前10時台の次は午後4時台まで休止時間となっ…

№30:2018倭城踏査速報(前編)

…間(実質中6日間)の倭城踏査を行った。自身としては昨年3月以来1年2か月ぶりの訪韓であったが、今回は数字以上に久々に感じられた。当初の計画では、昨秋の10月か遅くても11月前半頃にと考えていたのだが、少々長丁場の発掘調査の仕事が入り、この間は暦どおりにしか休む事ができない。 しかしその頃にはまだ悲壮感はなく、今季が駄目なら寒さの緩む3月後半頃をと本気で計画していたのだが、年度末に入っても報告書の原稿執筆を2本抱えて思ったほど時間が自由にならない。そんなこんなで年度も変わり休暇…

№28:若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)

…・慶長の役に築かれた倭城で多く見られるパーツである。Ⅲ郭の大手に相当する虎口Cは内枡形となる。Ⅳ郭から少し下った地点に擂鉢状の大きな窪みEがあり、井戸跡と見られる。 Ⅴ郭には、現在は埋め戻されて実見できないが、発掘調査でⅠ郭とを繋ぐ虎口が出土した。この虎口はⅠ郭へ直接登れないことから、概報では「行き止まりの虎口」として話題を呼んだが(若桜町教育委員会1990『鬼ヶ城遺跡』)、おそらく往時は木製の階段状施設を用いて昇降していたのであろう。 Ⅰ~Ⅴ郭の石垣は、粗割り石を使用して割…

№27:加徳倭城(大韓民国釜山広域市)

第1図:加徳倭城縄張図 加徳(カドク)倭城は大韓民国釜山広域市江西(ガンソ)区訥次(ヌルチャ)洞、本土と加徳島に挟まれた小島「訥次島」に所在する。 加徳倭城の初訪城は、筆者が所属するお城の研究会の面々らと踏査した、1998年4月28日である。この時は、筆者は石垣の実測図作成に専念した。翌29日には単独で再訪城し、丸1日かけて縄張り図作成に専念した。その後は何度か城友を案内して再度訪城し、2014年11月8日には改めて縄張り図の修正を行った。 当時訥次島へ渡るには、釜山市との市…

№25:倭城洞倭城(大韓民国慶尚南道巨済市)

倭城洞倭城縄張図 かつて筆者は『倭城の研究』創刊号にて、巨済島(コジェド)に残る倭城石垣の報告文を発表したことがある(拙稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会)。実はこの時点で倭城洞(ウェソンドン)倭城だけは、未だ自身での訪城を果たしていなかった。 1996年4月28日~5月2日にかけて、筆者が所属するお城の研究会で巨済市を訪れ、古県(コヒョン)の観光ホテルを基地にして、島内に残る4つの倭城を徹底踏査した。元々激辛料理好きの筆者は、ついつい韓国料理を暴食…

№24:熊川邑城(大韓民国慶尚南道昌原市)

…お城の研究会で初めて倭城を訪れた時の事である。この日は午前中に熊川倭城を踏査する予定で、チャーターしたマイクロバスに乗り込んで同城を目指したが、目的地に近づいた時、車窓から何やら城郭石垣らしき物が目に飛び込んできた。同行者の誰かが「停めて」と言うと、通訳の女性は「あれは倭城ではありません」と言ったが、「それでも良いからちょっとだけ見たい」と無理をお願いして、急遽予定には無かった同城の見学となった。バスを降りてほんの5分か10分くらいの短い時間であったが、皆大急ぎでカメラのシャ…

№23:釜山子城台倭城(大韓民国釜山広域市)

釜山子城台倭城縄張図 前回ブログ記事では釜山倭城(母城)を紹介したが、今回はその続編となる釜山子城台(プサンジャソンデ)倭城である。 釜山子城台倭城は、大韓民国釜山広域市東区凡一洞(ポミルドン)に所在する。都市鉄道1号線「凡一(ポミル)」駅から徒歩で15分程度の立地で、当城も前回ブログで紹介の釜山倭城と同様に“駅前倭城”である。当城は釜山倭城の一城別郭であるが、韓国側では山城の「母城」に対して出曲輪群を「子城台」と呼び、別個の独立した城郭として扱われている。当城は、釜山広域市…

№22:釜山倭城(大韓民国釜山広域市)

釜山倭城縄張図 釜山倭城は、大韓民国釜山広域市東区佐川洞に所在する。同城は港町釜山の市街地に位置し、都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅から徒歩で訪城可能な“駅前倭城”である。 釜山倭城を最初に訪城したのは、1996年12月23日である。この時は朝鮮考古学通のKさんと、筆者の大学時代の後輩でもある城友のY君との、3名での訪城であった。当日は午前中に釜山倭城を見学し、午後から一城別郭の釜山子城台倭城を踏査する予定であった。しかし筆者は以前に子城台を踏査しているので、午後からは…

№20:2017倭城踏査速報

…間(実質中4日間)の倭城踏査を行った。今回の主たる目的は、昨秋に縄張り図が未完成となっていた子馬(チャマ)倭城に残る日本式遺構の図化と、それに加えて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の城郭の縄張り図を作成することであった。 この季節の訪韓は初めてのことで、寒さに人一倍弱い筆者は時期を間違えたかと後悔にも近い念があったが、滞在中は早春の柔かい日差しに包まれた穏やかな日和が続いてくれた。帰国後に知った話しでは、この時期日本では肌寒かったと聞いたので、これも日頃の行いの良さだ…

№19:新宮城(和歌山県新宮市)

…ブログ(№18:機張倭城)でも紹介のように、筆者は和歌山県の出身で、今も南紀に実家がある。しかし同じ県内とは言っても、新宮市は県の最東端に位置して、熊野川を越えればもう三重県である。実家からだと電車で片道二時間ほどかかるので、初訪城は遅くて、お正月休みを利用した2002(平成14)年1月4・5日のことである。この時は2日がかりで、主に石垣調査を行っている。 次の訪城はそれから少し空いた3年後の2005(平成17)年で、同じくお正月休みを利用して1月5・7・8日の3日がかりで縄…

№18:機張倭城(大韓民国釜山広域市機張郡)

機張倭城縄張図 機張(キジャン)倭城は、釜山市の郊外に位置して日本海を望む、釜山広域市機張郡機張邑竹城里(チュクソンニ)に所在する。機張と言えば、近時では日本の観光ガイドブックでも「キジャンの水産市場」として紹介されていて、カニ料理がたいそう名物なのだそうだ。この機張倭城は、現地では竹城里倭城と呼ばれ、釜山広域市記念物第48号に指定されている。 同城の初訪城は1990年5月、筆者が所属する城郭談話会での最初の倭城ツアーのことである。筆者は倭城どころか海外旅行自体が初経験であっ…

№17:天王山山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)

…鮮半島南岸に築かれた倭城に多く見られる。その倭城の横矢枡形については、朝鮮式城郭の「雉城(チソン)」を模倣したのではと見る向きもある(高田徹2004「厳重なる防御機能を保持した『仕置きの城』『戦国の堅城』学研)。しかし確実に倭城に先行する国内城郭に存在する事から、当遺構はその祖形と見なす事ができよう(拙稿2011「倭城の縄張りについて(その5)」『愛城研報告』15、愛知中世城郭研究会)。 Ⅲ郭周縁部にも石垣が積まれているが、ここでも石塔類などの転用石を見ることができる。全体的…

№16:2016秋・倭城踏査速報

…日間(実質中3日)の倭城踏査を行った。今年は秋の深まりが早く、筆者の住む関西では11月の声を聞く前から早や晩秋の佇まいであった。韓国入国の初日は少し肌寒く感じられたほどであったが、翌日からは雲一つない連日の“日本晴れ”が広がった。 今次踏査の主目的は、子馬(チャマ)倭城の徹底調査であった。筆者は通常10日間程度の日程で倭城踏査を行うのが常だが、少し同城を舐めていたところもあり、今回は異例の短い踏査旅行であった。しかし結果論であるが、これが災いとなって縄張り調査があと一歩で終わ…

№14:固城倭城(大韓民国慶尚南道固城郡)

固城倭城縄張 「倭城の中で一番好きな城は?」と問われれば、筆者は登り石垣が圧巻の西生浦(ソセンポ)倭城でも、枡形虎口が連続する熊川(ウンチョン)倭城でもなく、残りの悪い固城(コソン)倭城や東莱(トンネ)倭城が思い浮かぶ。今回紹介する固城倭城は、現存する倭城の中でも1・2位を争うほど保存状態の悪い城である。しかしだからこそなのか、残りの悪い城跡ほどなぜか愛おしく感じてしまうのである。 固城倭城の初訪城は、調べてみると2001年11月24日のことである。この時は、韓国の大学院に留…

№13:周山城(京都市)

…が朝鮮半島に築いた「倭城」で多用された、特徴的な防御施設である。但し倭城の登り石垣が山麓の駐屯地を囲い込むのに対して、当城は山頂と山腹を連結する点で異なる。自然地形を包括しながらも、防御線の一体化を図る点に主眼を置いている。 またⅠ郭の周囲は石塁囲みとなるが、これも倭城で多く見られる手法である。 このように周山城では、後の倭城に先行する“プロトタイプ(原型機)とも言える要素が見られ、天正期から文禄・慶長期への織豊系城郭の発達を考えるうえでも、非常に重要な城跡と言える。 (文・…

№12:西生浦倭城(大韓民国蔚山広域市蔚州郡)

西生浦倭城縄張図 「生涯のうちに一度は見ておきたいお城は?」と尋ねられれば、筆者は迷うことなく西生浦(ソセンポ)倭城の名を挙げる。決して同城が倭城の中で一番好きと言うわけではないのだが、遺構の保存状態に加えて、縄張りの巧妙さや見栄えの良さなどを総合的に判断すると、やはりこの考えは動かしがたい。 西生浦倭城の初訪城は、1990年5月26日のことである。自分の中ではまだ数年前のような感覚でいたが、改めて数え直してみると実に四半世紀も前である。それは筆者が所属するお城の研究会の踏査…

№10:東莱倭城(大韓民国釜山広域市)

東莱倭城縄張図 東莱(トンネ)倭城は、釜山広域市東莱区に所在し、標高105m(比高75m)の望月(マンウォル)山に占地する。当城が占地する望月山は、山火事防止の措置から1年間のうち11月1日から翌年5月31日までの、実に7カ月間が門扉を閉ざして入山禁止となる。日本人にはピンとこないかもしれないが、韓国では山火事が非常に多く深刻な社会問題となっている。そのため空気が乾燥する晩秋から初夏にかけて、程度に差はあるものの入山禁止となる山が多い。 当城の初訪城は、1999年5月3日であ…

№9:石垣山一夜城(神奈川県小田原市)

…いる(拙稿2012「倭城の縄張りについて(その6)」『愛城研報告』16、愛知中世城郭研究会)。 写真2:井戸曲輪 なおⅡ郭には、水の手を守る「井戸曲輪」が付随する。踏査当時は石垣の修築工事に入る直前で木々を伐採していたので、以前の踏査時よりも随分と観察しやすくなっていた(写真2)。 写真3:虎口Cの櫓門台 Ⅳ郭には城内で唯一の隅櫓台Bがあるが、近世城郭を見慣れた眼からすると随分と少ない印章を受ける。勿論、櫓台を持たずに、直接地面に建てられていた可能性もあるのだが。その一方で、…