コラム:馬出みたいなもの

 「馬出」と呼ばれる虎口は近畿地方には少ない。近畿地方で馬出を持つ中世・織豊期の城郭と言えば賤ヶ岳の合戦に関わる陣城群が思い浮かぶが、精々近江国止まりであり他地域ではほとんど聞かない。おそらく中国・四国・九州地方でも同様ではないだろうか。やはり馬出は、東海地方以東で用いられて発展した虎口形態なのだろう。では馬出に近い形をしたものは、近畿地方にも存在するのだろうか。本稿ではそんな事例の一端を紹介したい。

 まず紹介するのは、安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城と大野城である。ともに紀伊半島の南端に近い和歌山県西牟婁郡白浜町に所在する。室町時代に日置(ひき)川下流域を支配した安宅氏関連の城跡である。

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第1図 安宅八幡山城

 安宅八幡山城(第1図)は縄張り図で見るとさほど大きくなさそうな印象だが、実際に現地を訪れてみると切岸は高くて堀は深く、大変土木量の多い城郭である。Ⅰ郭とⅡ郭を挟み、堀を超えて土橋を渡った空間がⅢ郭になる。「コ」字形の土塁と堀に囲まれて一見すると馬出のようだが、良く見ると外部に出られる構造になっておらず、実際外周を巡る堀との落差も大きくて城外に出るのも困難である。

 Ⅰ・Ⅱ郭はともに削平が行き届き、このうちⅡ郭の北半部は2003年度に学術目的の発掘調査が行われた。建物跡は見つかっていないが、生活痕のある遺構や遺物が出土している。これに対してⅢ郭内部はほとんど削平がされておらず、自然地形のままに近くて本格的な建物も建てられないであろう。Ⅰ・Ⅱ郭が生活の場であるのに対し、Ⅲ郭は生活空間とは考えにくく、言い換えると戦闘に特化した空間ではなかったのか。この土塁には若干の折れがあって堀底に横矢が掛かるが、細かな横矢がどうのこうのよりも、この曲輪の存在自体が生活空間から一歩張り出すことによって、強力な射撃陣地として機能したのではないかと推測される。

 なおⅡ郭の発掘調査では焼土層が確認され、焼土層より上では遺物の出土がほとんど見られなかったことから、火災に遭った後は城は再興されなかったとみられる(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。焼土層にパックされた状態で出土した備前焼甕の年代観は、16世紀初頭である(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流ー備前焼を中心にしてー」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)。備前焼のような硬質の焼き物は割れにくく、生産されてから廃棄されるまでの時間差を差し引いたとしても、城の存続時期は16世紀前半までに収まりそうな気配である。

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第2図 大野城

 大野城(第2図)は、日置川を挟んで安宅八幡山城をとは目と鼻の先である。この城は本当に小規模だが、縄張り面で安宅八幡山城との共通項が見て取れる。Ⅰ郭が主郭で、堀を挟んで低い土橋と繋がり、その対岸にⅡ郭がある。この曲輪は「L」字形をした土塁と堀に囲まれて馬出のように見えるが、ここも外部へ出られる構造になっていない。西側に防御施設が見られないのは、元々自然地形の急斜面だからである。安宅八幡山城と同様に、主郭を守るために敵正面に突出した堡塁的な曲輪だったとも考えられる。

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第3図 但馬竹田城

 次に紹介するのは、打って変わって織豊系城郭2例である。まずは“天空の城”としてすっかり有名になった但馬竹田城(兵庫県朝来市)である(第3図)。現在の縄張りは文禄・慶長初期頃に、赤松広秀が豊臣政権のテコ入れで築かれた時の姿と考えられている(城郭談話会1991『但馬竹田城』)。

 谷本進氏は竹田城の縄張りのうち、Ⅱ郭(北千畳)、Ⅲ郭(南千畳)、Ⅳ郭(花屋敷)をそれぞれ「馬出形態の曲輪」と評価した。谷本氏は千田嘉博氏の織豊系虎口編年を肯定的に継承して、新たに山城における馬出形態の曲輪を「ⅤA3類型」として追加設定した。千田氏は、平城では馬出が巨大化して一般曲輪化する旨を説いたが(千田嘉博1987「織豊系城郭の構造ー虎口プランによる縄張り編年の試みー」『史林』70‐2、史学研究会)、谷本氏は山城でも同様の発展を遂げるとし、織豊系城郭における山城の発達の最終形態とした。具体的に言うとⅡ・Ⅲ・Ⅳ郭は、いずれも上位の曲輪に対して下位の曲輪が「コ」字形に石垣または石塁を築き、左右に虎口を開口して馬出と同様の形状を呈する点を指摘した(谷本進1991「竹田城の構造形式について」『但馬竹田城』城郭談話会)。

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第4図 西生浦倭城

 最後に紹介するのは近畿地方の事例ではないが、ほぼ同時期に築かれ韓国に今も残る西生浦倭城(大韓民国蔚山広域市蔚州郡)である(第3図)。この城は加藤清正が1592(文禄2)年に築城し、登り石垣が壮大なことで知られているが、今回注目してもらいたいのはⅠ郭(主郭)の背後(西側)にある曲輪である。主郭虎口の前面に石塁囲みの「コ」字形の曲輪を設け、やはり左右に虎口を開口する。戦後日本で初めて本格的な倭城調査を行った倭城址研究会によると、これを「馬出曲輪」と評価している(八巻孝夫1979「西生浦城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。

 近畿地方では典型的な馬出は少ない。しかし馬出に似た形のもの、あるいは馬出と同等の機能を発揮しそうなものがいくつかあることを紹介した。馬出の定義自体も研究者によって微妙に異なっているが、馬出の機能を再考するうえでの一助になれば幸いである。

 ※本稿は2021年2月20日に行われたオンライン会『城飲み諸説あり!』でプレゼンテーションを予定していながら、機械的トラブルにより叶わなかったため、当ブログにおいて文章化したものである。

(文・図:堀口健弐)

コラム:海を渡った城郭瓦~東莱倭城と蔚山兵営城~

 中国・元の時代に考案された軒瓦に「滴水瓦」がある。屋根に残った雨水が凍てついて瓦が割れてしまうのを防ぐため、水切りをよくするために軒瓦の先端を尖らせた独特な形状をしている。そのうち軒平瓦は、正面から見ると立面形が木の葉状を呈している。韓国もまた冬の厳しい国なので、滴水瓦は高麗時代末期から朝鮮時代初頭頃に朝鮮半島へと伝わった。

 日本へは文禄・慶長の役(豊臣秀吉朝鮮出兵)から帰国した大名らが軒瓦を直接持ち帰ったり、また朝鮮人の瓦工人を日本に連れてきて同じ形の物を焼かせたことに始まる。同戦役では西国から出兵した大名が多かったことから、滴水瓦も西日本の近世城郭で多く採用されている。それらは姫路城(兵庫県姫路市)や熊本城(熊本市)など日本を代表する城郭建築に葺かれ、発掘調査で出土した物は枚挙にいといまがない。

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写真1 前期東莱邑城

 文禄の役(第一次朝鮮出兵)は、日本軍の釜山上陸とともに闘いの火蓋が切って落とされた。1591(文禄元)年の東莱(トンネ)の戦いでは、小西行長が東莱邑城(15世紀に築かれた前期東莱邑城:大韓民国釜山広域市)を攻略した。現在同城は地表面に一切遺構を残さないが、2000年代に入って行われた地下鉄4号線建設に伴う事前の発掘調査で、石垣・堀や日韓双方の武器類・刀傷の残る人骨などが多量に出土した。現在それらは地下鉄寿安(スナン)駅構内の東莱邑城壬辰倭乱歴史館にて、出土時の模様が再現されている(写真1)。

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第1図 東莱倭城縄張図

 東莱邑城攻略後の1592(文禄2)年、すぐ隣の標高105m(比高75m)の望月山に吉川広家が東莱倭城(釜山広域市)を築いた(第1図)。図中を東西に横断する城壁は、18世紀に入って城域を拡大して再建された後期東莱邑城の遺構である。現在Ⅰ郭(主郭)には、邑城時代の物見櫓「東将台」が復元されている。詳しい出土状況は情報不足のために分からないが、建設時に軒平瓦(滴水瓦)が出土し(写真2)、現在は釜山博物館で保管されている(羅東旭2015「朝鮮時代釜山地域城郭出土葺瓦」『釜山葺瓦』釜山博物館)。

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写真2 東莱倭城出土の軒平瓦(釜山博物館サイトより引用)

 高正龍・立命館大学教授(考古学)の研究によると、この軒平瓦は小西の居城である麦島城(熊本県八代市)で出土した軒平瓦と同范瓦(同じ范木で作られた軒平瓦)であることが確認された(高正龍2007「豊臣秀吉朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播」『渡来遺物からみた古代日韓交流の考古学的研究』科研報告)。

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第2図 蔚山兵営城縄張図

 次に紹介するのは蔚山(ウルサン)兵営城(蔚山広域市)である(第2図)。「兵営城」とはいわば朝鮮王朝の陸軍基地のことで、1417(太宗17)年に築かれた(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査ー最近調査された邑城と鎮城を中心にー」『韓国の倭城と大坂城』倭・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。同城は文禄元年に加藤清正によって攻められて落城した。城壁の南半部は市街地化により消滅したが、北半部については近年発掘調査に基づき石垣の積み直しなどの史跡整備が進行中である。

 城内に所在する、その名も兵営初等学校建設に先立つ事前の発掘調査で軒丸瓦が出土したが(写真3)、この瓦は同じく高教授の研究によると、清正の支城である佐敷城(熊本県芦北町)で出土した軒丸瓦と同范瓦であった(高正龍2015「蔚山慶尚左兵営城と熊本佐敷城の同范瓦ー豊臣秀吉朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播(2)ー」『東アジア瓦研究』4、東アジア瓦研究)。

 また同范瓦ではないが、よく似た文様構成の軒平瓦が清正の本城である熊本城でも使用されている(大脇潔2012「周防・長門甍紀行ー吉川広家・大内義弘と山本勉弥ー」『民俗文化』24、近畿大学民俗学研究所)。

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写真3 蔚山兵営城出土の軒丸瓦(植本夕里氏撮影)

 日本軍は朝鮮半島からの帰国時に、船で瓦を運搬したことが知られているが(黒田慶一2013「秀吉軍の日本搬入の朝鮮瓦についてー東莱倭城との関係からー」『城館史料学』8、城館史料学会)、当時の日本人が見慣れない木の葉状の軒瓦が珍しくて、戦利品として持ち帰り自らの居城に葺いたのであろう。海を越えた日韓の城郭瓦の、点と点を結ぶ貴重な歴史資料と言えるだろう。

 ※本稿は2021年1月23日に行われたオンライン会『城飲み諸説あり!』において、「海を渡った城郭瓦」と題したプレゼンテーションを文章化したものである。なお掲載写真の一部は、植本夕里氏が撮影されたものを使用させていただいた。記して感謝申し上げる。

(文・図・写真:堀口健弐)

№45:安宅中山城(和歌山県西牟婁郡白浜町)

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  安宅中山城縄張図(一部、白浜町教育委員会原図を参照)

 一昨年(2019年)の秋頃に嬉しいニュースが飛び込んできた。筆者の郷里の城跡が「安宅(あたぎ)氏城館跡群」として国史跡に答申された。安宅氏とは、室町時代紀伊半島の南端に近い日置(ひき)川下流域を支配した土豪で、熊野水軍の一派でもあった。まず安宅本城、八幡山城、土井城、中山城、要害山城が答申され、この他にも答申から外された大野城、勝山城、大向出城は追加登録への待機となった(『紀伊民報』2019年11月16日付け)。翌2020年3月に国史跡に指定された。

 この付近の城跡は、筆者が中学・高校生だった1970年代後半頃、ほとんど遊び場のような感覚で何度も登城した経験がある。当時はまだ中世城郭の書籍も情報もほとんどなかった時代で、学校の先生から聞いた僅かな情報を手掛かりにして、自分たちで登り口を見つけて登ったものであった。そのため件の城館跡群は誰よりも詳しい自負があったので、喜びもひとしおであった。

 和歌山県下の国史跡は近畿地方の中でも群を抜いて少なく、当時は和歌山城と新宮城のみで、中世城郭は一つも無しというお寒い状況であった。今回国史跡に指定された城郭群は、一つ一つはいずれも小規模だが、保存状態が良く、なおかつ狭い範囲に集中して残っている点が評価されたようだ。

 当町はお世辞にも文化財調査が進んでいたとは言えなかったが、合併に際して町内の文化財調査を要望する動きが官民から沸き起こった。それを受けて城跡の測量・発掘調査をはじめ、仏像や古文書などの調査も併せて行われ、それらの調査結果は数度にわたって開催された「熊野水軍シンポジウム」において報告されれた。

 

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  写真1 中山城遠景(手前の小丘)

 今回紹介する中山城は、埋蔵文化財としての正式名称は「中山城跡」であるが、他地域の中山城と区別する意味で、近時では安宅中山城とも呼ばれている。城跡は環流地形が作りだした小盆地の中央に位置し、標高40m(比高30m)の細長い独立丘に占地する(写真1)。江戸時代の軍記物『安宅一乱記』によると、城主は安宅氏の被官である田井(たのい)氏の居城と伝えられる。

 当城の縄張りは、南紀としては珍しい館城形式である。土塁囲みの方形の曲輪を二つ並べて、東斜面を除く三方に2重の堀と帯曲輪を巡らし(写真2)、特に南尾根筋は堀切が3重となってより遮断性が強い。2012年には日置川町(現・白浜町)教育委員会滋賀県立大学が共同で測量と遺構確認の発掘調査を行っており、その結果様々な遺構や遺物が出土した(白浜町教育委員会2013『平成25年度白浜町内遺跡発掘調査概報』)。

 Ⅰ郭が最高所で主郭であり、西辺と南辺に土塁を巡らす。この土塁は発掘調査でも石積みは確認されず、築城当初から土塁であったことが判明した。曲輪内から2条のピット列が検出され、柵列か建物の一部の可能性があるが、曲輪の主軸と一致しないことからなお検討の余地がある。Aが虎口で、石積みを施したスロープを下ってⅡ郭へと至る。

 Ⅱ郭の西辺と北辺に土塁が巡り、土塁外周と内周には鉢巻き状の低い石積みが残る。Ⅱ郭を巡る土塁上面がⅠ郭の曲輪面と同じ高さとなっているが、Ⅰ郭を出た守備兵がそのままⅡ郭の土塁上面を移動して防戦にあたることが可能となってる。なおⅠ郭とⅡ郭とは高低差が1mほどで、両者間を塁濠で区画されていないので、2つの曲輪と言うよりも主郭の上段と下段のような関係であろうか。

 Bは削平の甘い虎口受け風の小曲輪で、南端で礎石と見られる平石が1基検出されている。ここが大手木戸口だとすれば、あえて傾斜の急な東斜面を登城ルートに設定したのであろう。

 発掘調査では中国製の染付・青磁白磁、国産の瀬戸美濃系陶器・備前焼・土師器などの土器・陶磁器類のほか、鉄釘・土錘・飛礫(投石)などの遺物が出土した。報告書によると、遺物の年代は16世紀後半を下限とする。遺物は少なめで「館城」であっても生活の場ではなかった可能性を指摘するが(白浜町教育委員会2013『平成25年度白浜町内遺跡発掘調査概報』)、一通りの生活用具は揃っている印象である。

 

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  写真2 西斜面の帯曲輪 

 和歌山県内には、安宅氏城館跡群よりももっと大きな城跡もあれば、もっと優れた縄張りの城跡もある。ではなぜ当城館跡群が国史跡に指定されたかと言えば、非常に泥臭い物の言い方だが住民と行政側の熱意の差であろう。どんなに優れた城跡や遺跡であっても、国から史跡に指定しませんか、とはなかなか言ってはこない。それを動かしたのは、やはり熱意以外に他ならないのである。近年はボランティアによる語り部なども結成して活動されているようで、追加の指定も含めてこれからも目が離せない。筆者も執筆活動を通じて、ささやかながら部外からの援護射撃を行っていきたい。

 (文・図・写真:堀口健弐)

№44:固城倭城その2(大韓民国慶尚南道固城郡)

 

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   固城倭城縄張図 

 固城(コソン)倭城については、当ブログ「№14:固城倭城」でも一度紹介した。固城倭城は慶長の役が勃発した1593(慶長2)年に吉川広家が普請を担当し、立花宗茂が在番したが、翌年には日本軍撤退とともに廃城となった。

 昭和初期に日本の軍人・原田二郎陸軍工兵大佐(最終階級は少将)が作成した倭城縄張り図が九州大学に伝わっている(いわゆる『九大倭城図』)。そのうち「固城城図」によると、狭義の城郭本体部の周囲に明らかに朝鮮式の邑城(集落の周囲を城壁で囲郭した城塞集落)と思われる城壁を描いて、それが城郭本体に接続している(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)。つまり邑城の城壁を、倭城特有の外郭線に転用した縄張りであったことが推察される。

 筆者はこれまで何度となく同城の踏査経験があるが、そのような遺構を一度も目にしたことがなく、無いと思い込んでいると余計に見えなくなっていたのだろう。ところがインターネット検索で情報収集していると、韓国側で刊行された分布調査報告書(PDF版)に偶然出くわした。それによれば現在も城壁の残欠が、建物の基礎や敷地の境界となって数か所にかろうじて残っていることを知った(固城郡・慶南発展研究院歴史文化センター2001『固城邑城址地表調査報告書』)。いまだ戦後の縄張り図で外郭線を描いた図は未出なだけに、これを読んで俄然興味が沸いてきて、少しでも良好なうちに踏査して図化しておきたいと考えるに至った。

 そこで2019年4月5日と8日の2日間にわたって現地踏査を行った。1日目は倭城ガールの植本夕里氏と一緒に踏査。遅い昼食をはさんで、午後からは固城倭城のすぐ近くにある鶴松洞(ハクソンドン)古墳群と、併設する国立固城博物館を見学した。特に同博物館では、植民地時代に日本の古積調査隊が撮影した様々なパネル写真が展示されており、その中にはこれまで書籍やインターネットでも見かけない新たな固城倭城の古写真も展示されていて、現地での情報収集の大切さを改めて実感した。

 3日おいて2日目は単独での踏査となった。下町の路地裏奥深くまで入り込んで縄張り図を描いたり写真を撮ったりと、かなり怪しい行動の繰り返しで、道行く土地の人と出会うと何食わぬ顔ですれ違って、人影が見えなくなるとまた図面作成と写真撮影の繰り返す、冷や汗ものの踏査であった。

 

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  写真1 石垣Bと甕城(写真奥側右手)

 さて固城倭城は、標高20m(比高10m)の海岸段丘上に占地する。現在は海岸線が大きく後退しているが、グーグルマップなどの衛星画像を見ると海岸線がまるで定規で引いたように直線的で、その中に池らしい地形が残る。つまりこれは干拓事業の最終段階で、潮受け堤防で仕切られた中に干拓湖が残っている姿である。朝鮮時代後期(17~19世紀)の古地図『固城府地図』(ソウル大学校蔵)によると、倭城のあったすぐ麓まで入江が迫り船着き場も描かれているので、往時は港としても最適の地であったことが分かる。

 Ⅰ郭が主郭で、西側は海岸段丘に面して落差があるが、地続きの東側は帯曲輪を巡らして2段築成によっている。東南隅に天守台Aを設ける。現在は主郭と同レベルに削平されてここに人家が建っているが、1914年に人類学者の鳥居瀧蔵率いる古積調査隊が撮影した古写真によると、主郭面よりも一段高く築かれていることが確認できる。

 海岸段丘上の縁辺部を巡るように外郭線が巡るが、これは前述のとおり朝鮮王朝が築いた固城邑城 の城壁を転用したものである。固城邑城は古くから土城として存在していたが、15世紀になって倭寇の侵入に備えて今見る石城に改修され、古地図によると北・東・南の三方に城門を開口していた。

 邑城の石垣は日本式の石垣とは異なり、先ず根石を水平に据えてそこから一歩後退させた位置から石材をほぼ垂直に積み上げている。Bは南門の遺構である。日本の丸馬出に似た甕城(オンソン)と呼ばれる三日月形の城壁がかろうじて残る(写真1)。Fは大城(テソン)初等学校と民家の境界となり、目測で高さ約2mである(写真2)。最も残存状態の良い石垣Gは目測で高さ約3mであるが、往時はもう少し高かったのであろう。その他の箇所では高さ1m以下となり、民家の基礎となってかろうじて残る。他にも道路の延伸工事により事前の発掘調査後に消滅した物もあり、跡地には説明板が立てられている。

 

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  写真2 石垣F

 このように既存の邑城の城壁をそのまま倭城の外郭線に利用した事例に、他には泗川倭城(慶尚南道泗川市)がある(泗川倭城については当ブログ「№4:泗川倭城」を参照)。朝鮮側の城郭を転用する理由について、既存の城壁を倭城の縄張りに組み込んだ方が、普請の工程を短縮できる利点があるためであろう。加えて固城倭城の事例では、固城邑城自体が地方政治や商業の拠点であったことは想像に難くなく、現在も地方都市として機能していることからそれが窺える。拠点集落を倭城に組み込むことにより、単に軍事拠点としてだけではなく、地域支配の主眼に入れて築城した結果であろう。

 (文・図・写真:堀口健弐)

番外編:堀口健弐著作目録(城郭編)

■1990年代

拙稿1993「利神城の築城計画」『播磨利神城』城郭談話会

拙稿1994「周山城」「岩尾城」『織豊期城郭の瓦』織豊期城郭研究会

拙稿1995「洲本城の消長ー石垣編年の視点からー」『淡路洲本城』城郭談話会 

拙稿1996「近江坂本城の湖中石垣」『愛城研報告』3、愛知中世城郭研究会

拙稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会

共著1998「石垣」「瓦」『史跡岩尾城跡調査報告書』兵庫県山南町

拙稿1999「倭城の石垣ー資料化と分類の試みー」『倭城ー城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像ー』倭城研究シンポジウム実行委員会

拙稿1999「倭城の石垣ー資料化と分類の試み」「金海竹島倭城の遺構と遺物、石垣」「西生浦倭城の遺構と遺物、石垣」『倭城の研究』3、城郭談話会

拙稿1999「城郭遺構の簡易測量方法」『花園大学考古学研究論叢』Ⅱ、花園大学考古学研究室20周年記念論集編集委員会

 

■2000年代

拙稿2000「若桜鬼ヶ城の石垣ー編年上の位置付けと歴史的評価についてー」『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会

拙稿2000「南海倭城の石垣」、高田徹・堀口「釜山倭城の縄張りについて」『倭城の研究』4、城郭談話会

拙稿2000「織豊系城郭の発達史ー要塞研究的視点による新縄張り研究の試論ー」『愛城研報告』5、愛知中世城郭研究会

拙稿2001「大和高取城の石垣」『大和高取城』城郭談話会

拙稿2001「天正期の織豊系城郭」「城郭石垣の編年」「城郭遺構の簡易測量方法」『城郭研究の軌跡と展望』城郭談話会

拙稿2002「城郭石垣の様式と編年ー近畿地方寛永期までの事例を中心にー」『新視点 中世城郭研究論集』新人物往来社

拙稿2002「近世城郭石垣の様式と編年ー近畿地方の事例を中心にー」『「惣構」の再検討』第19回全国城郭研究者セミナー実行委員会・中世城郭研究会

拙稿2002「熊川倭城の石垣」「明洞倭城の石垣」『倭城の研究』5、城郭談話会

拙稿2003「近世城郭石垣の様式と編年ー近畿地方の事例を中心にー」『中世城郭研究』17、中世城郭研究会

共著2004『図説 近畿中世城郭事典』城郭談話会

拙稿2005「倭城の採石遺構について」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会

拙稿2005「畝状空堀群を持つ倭城について」『愛城研報告』9、愛知中世城郭研究会

拙稿2006「倭城の縄張りについて」『愛城研報告』10、愛知中世城郭研究会

堀口ほか2006「石垣現況調査」『史跡八上城跡保存管理計画策定報告書』篠山市教育委員会

拙稿2007「海城としての倭城」『海城について』第24回全国城郭研究者セミナー実行委員会・中世城郭研究会

拙稿2007「倭城の縄張りについて(その2)」『愛城研報告』11、愛知中世城郭研究会

拙稿2007「佐和山城彦根城の石垣」『近江佐和山城彦根城サンライズ出版

拙稿2009「倭城の縄張りについて(その3)」『愛城研報告』13、愛知中世城郭研究会

拙稿2009「倭城の曲倭配置」『花園大学考古学研究室論叢』Ⅱ、花園大学考古学研究室30周年記念論集刊行会

拙稿2009「和歌山城の石垣について」『和歌山城郭研究』8、和歌山城郭調査研究会

拙稿2009「大和郡山城の石垣」『大和郡山城』城郭談話会

 

■2010年代 

共著2010『甲賀市史』7(甲賀の城)、滋賀県甲賀市

拙稿2010「倭城の縄張りについて(その4)」『愛城研報告』14、愛知中世城郭研究会

拙稿2010「新宮城の縄張り」『和歌山城郭研究』9、和歌山城郭調査研究会

平阪貞敏・堀口2011「東牟婁郡の山城跡三個所ー城之森城跡・三尾川中村城跡・大谷城跡ー」『和歌山城郭研究』10、和歌山城郭調査研究会

拙稿2011「倭城の縄張りについて(その5)」『愛城研報告』15、愛知中世城郭研究会

拙稿2011「倭城石垣の矢穴技法について」『倭城ー本邦・朝鮮国にとっての倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会・城館史料学会

拙稿2012「倭城の縄張りについて(その6)」『愛城研報告』16、愛知中世城郭研究会

拙稿2012「紀南の中世城郭にて表面採集の備前焼ー佐部城と神田城の資料からー」『和歌山城郭研究』11、和歌山城郭研究調査研究会

拙稿2013「倭城石垣の矢穴技法について」『城館史料学』8、城館史料学会

拙稿2013「すさみ藤原城の縄張り」『和歌山城郭研究』12、和歌山城郭調査研究会

共著2014『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版

拙稿2014「倭城の縄張りについて(補遺編)」『愛城研報告』18、愛知中世城郭研究会

共著2015『図解 近畿の城郭』Ⅱ、戎光祥出版

共著2016『図解 近畿の城郭』Ⅲ、戎光祥出版

拙稿2016「倭城の縄張りについて(補遺編その2)」『愛城研報告』20、愛知中世城郭研究会

共著2017『図解 近畿の城郭』Ⅳ、戎光祥出版

拙稿2017「洲本城の消長ー石垣編年の視点からー」『淡路洲本城』戎光祥出版

拙稿2017「倭城」「城郭石垣の発達」「周山城」『織豊系城郭とは何か』サンライズ出版

拙稿2018「古武之森城跡・安宅八幡山城跡・向平城跡」『和歌山城郭研究』17、和歌山城郭調査研究会

共著2018『石垣の城を極める!~廃城をゆく6』イカロス出版

拙稿2019「周山城」『廃城をゆくベスト100城』イカロス出版

共著2019『戦国和歌山の群雄と城館』戎光祥出版

拙稿2019「近世城郭の縄張り型式ー分類と変遷を中心にー」『花園大学考古学研究論叢』Ⅲ、花園大学考古学研究室40周年記念編集刊行会

 

2020年代

拙稿2020「丹波周山城」『歴史群像』159(2月号)、学研プラス

拙稿2020「石倉山城」『和歌山城郭研究』19、和歌山城郭調査研究会

 

※一部に記入漏れがあるため、随時更新中です。

番外編:堀口健弐著作目録(考古編)

■1990年代

拙稿1998「高城遺跡の発掘調査」『平成9年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報』吹田市教育委員会

西本安秀・堀口1998「第19次調査」『平成9年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報 蔵人遺跡』吹田市教育委員会

賀納章雄・海邊博史・堀口1999『目俵遺跡ー目俵市民体育館建設工事に伴う発掘調査報告書ー』吹田市教育委員会

田中充徳・花崎晶子・渡辺正巳・堀口1999『高城B遺跡ー都市計画道佐井寺片山高浜線工事に伴う発掘調査報告書ー』吹田市都市整備部・吹田市教育委員会

 

■2000年代

賀納章雄・堀口2001『高城B遺跡第2次発掘調査報告書』吹田市教育委員会

拙稿2004『吹田操車場遺跡ー市営岸部中住宅建替工事に伴う発掘調査報告書ー』吹田市都市整備部・吹田市教育委員会

堀口・西本安秀・田中充徳2005『垂水遺跡発掘調査報告書Ⅰー垂水遺跡第24次発掘調査ー』吹田市教育委員会

拙稿2009『蔵人遺跡発掘調査報告書Ⅱー蔵人遺跡第17次発掘調査ー』吹田市教育委員会

田中充徳・堀口2000「高畑遺跡の発掘調査」『平成11年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報』吹田市教育委員会

 

■2010年代

拙稿2010「都呂須遺跡第8次調査」『吹田市埋蔵文化財発掘調査報告集』1、吹田市教育委員会

拙稿2014『北泉遺跡発掘調査報告書ー北泉遺跡第1次発掘調査ー』吹田市教育委員会

拙稿2015『垂水南遺跡発掘調査報告書Ⅱー垂水南遺跡第57次発掘調査ー』吹田市教育委員会

拙稿2015「吹田須恵器窯№2の発掘調査」『平成26(2014)年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報』吹田市教育委員会

拙稿2017「吹田須恵器窯№2、吉志部2号墳・3号墳の発掘調査」『平成28(2016)年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報』吹田市教育委員会

拙稿2018『垂水南遺跡発掘調査報告書Ⅲー垂水南遺跡第58次発掘調査ー』吹田市教育委員会

拙稿2018「吉志部瓦窯跡の発掘調査」『平成29(2017)年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報』吹田市教育委員会

拙稿2018「蔵人遺跡の発掘調査」「吉志部瓦窯跡の発掘調査」『博物館だより』№76、吹田市立博物館

拙稿2019「吉志部瓦窯跡の発掘調査」『平成30(2018)年度埋蔵文化財緊急発掘調査概報』吹田市教育委員会

拙稿2019「吹田操車場遺跡の発掘調査」「北泉遺跡の発掘調査」『博物館だより』№80、吹田市立博物館

 

2020年代

拙稿2020『垂水南遺跡発掘調査報告書Ⅳー垂水南遺跡第59次・第60次発掘調査ー』吹田市教育委員会

拙稿2020「吹田操車場遺跡の発掘調査」『博物館だより』№84、吹田市立博物館

№43:石倉山城(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)

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  石倉山城縄張図

 昨年(2019)年1月12日から13日にかけて、筆者が所属するもう一つのお城の研究会で、南紀勝浦方面の踏査旅行を行った。参加者はいつもの顔ぶれに加えて、今も郷土史研究をされている筆者の高校時代の事実上の師匠も特別参加するサプライズがあった。

 JR和歌山駅前で待ち合わせて南紀方面へと車を走らせたが、国道42号線を南下するにしたがい小雨がぱらつき始める生憎の天気となった。そこで皆と相談の上、1日目の日程を新宮城界隈に急遽変更した。

 まず向かったのが新宮城下町遺跡の発掘現場。突然のアポなし訪問であったが、メンバーの一人と発掘担当者が顔見知りということもあり、傘を差しながら特別に発掘現場を見学させてもらった。その足で新宮城を訪城し、筆者が急遽石垣の積み方や矢穴の説明をしながら石垣を中心に見学した。

 当夜は海沿いにある一軒家の民泊に宿泊し、鍋料理を突きながら明日の踏査目的などについて語り合いながら、夜は更けていったのであった。

 

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  写真1 石倉山城遠景

 さて2日目は、いよいよ本来の目的地である石倉山城である。当日は早くも春の到来を思わせるようなポカポカ陽気で、また麓の神社では地元のお祭りが行われており、これを横目に見ながら一同城跡を目指した。

 石倉山城は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に所在し、勝浦温泉のある那智湾から2kmほどさかのぼった、那智川とその支流の長谷川との合流地点に位置する。この那智川をさらにさかのぼると、世界遺産の構成要素の一つである熊野那智大社へと至る。

 城跡は、東西に細長い半島状丘陵の痩せ尾根上に占地する。標高40m(比高30m)とそれほど高い山ではないが、山中の所々では岩盤がむき出しとなり、特に北側斜面は直登が不可能なほどの急崖となっている(写真1)。

 城の歴史については不明な点が多いが、江戸時代後期に編纂された地誌『紀伊風土記』によると、城主は那智の社僧の清水門善坊で、堀内氏善が那智川対岸に蚤ヶ城を築いて石倉山城を攻めたとある。言うまでもなくこれは一次史料ではないが、当時の人々にはそのように認識されていたのであろうか。

 縄張りは小ピーク上に主郭を置いて曲輪を段々に連ね、背後と尾根前方を堀切で遮断して城域としている。また要所には、山中で産出する石材を用いた、高さ1m前後の石積みを築いている。

 

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  写真2 Ⅲ郭の岩盤堀切

 Ⅰ郭が最高所で主郭である。数段の削平地から成るが、段差はいずれも1m前後で特に遮断施設もないことから、この区域全体が主郭の認識と思われる。Aが城外へ少し張り出した恰好になるが、これは北側への眺望を意識したためであろうか。曲輪の北側から尾根背後にかけては土塁を巡らしている。また要所には石積みをを築いている。曲輪の片隅には石桝状の遺構Bが残る。

 主郭背後の尾根筋は2条の堀切による遮断している。ここから傾斜の緩い痩せ尾根伝い進むと堀切状の微地形が存在するが、現在も山道として利用されていることから、切通と判断して良いであろう。

 Ⅱ郭も石積みを多用した曲輪で、石段で連結して堀底に至る。

 Ⅲ郭以東は岩盤が露出した痩せ尾根が続き、その先端には堀切を設けて城域を区画していいるが、この堀切は岩盤を掘削したいわゆる“岩盤堀切”となっている(写真2)。さらにその東方の尾根先端部は小ピークとなるが、自然地形と思われる平坦面が存在するだけで、曲輪に造成された痕跡は認められない。

  南斜面には数段の削平地からなるⅣ郭があり、現状は果樹園や津波の避難所に利用されている。ここは門善坊屋敷の伝承が残るが(白石博則2020「山麓から温泉がわく那智勝浦井関石倉山城を訪ねて」『紀州古城館情報』341、和歌山城郭調査研究会)、ここに残る石積みは前述の物と比べると石材は一回り小ぶりで、城郭遺構かどうかは疑わしい。

 石倉山城は那智勝浦一帯を支配すると同時に、那智街道を抑える目的もあったのであろう。

 なお余談になるが、那智川を挟んだ山側に堀内氏が築いたとされる付城「蚤ヶ城」を求めて山中を探索したが、城郭遺構を確認することはできなかった。場所が違っていたのか、それとも遺構を残さない簡易な陣だったのか、はたまた単なる伝承に過ぎないのかは、今後の研究課題として残った。

  (文・図・写真:堀口健弐)