番外編:昭和14年発行『釜山城址』について

 先日インターネットで調べものをしていたら、期せずして思わぬ掘り出し物に出くわした。筆者はネット検索で城郭研究の情報収集をすることは少ないのだが、こと倭城と朝鮮考古学に関しては紙媒体の情報自体が少ないので、小まめに何か新しい情報が出ていないか頻繁にチェックしている。たとえ個人の旅行記的なブログであっても、そこから得られる情報が少なくなく、上手くいくと韓国で刊行された発掘調査報告書(もちろん韓国語だが)をダウンロードできることもある。

 そんななかで思わず目に留まったのが、今回紹介する『釜山城址(釜山観光叢書第二集)』なる小冊子である。これはWEBサイト『Aucfree』に掲載された画像3点と、簡単な解説文による。同書は1939(昭和14)年発行で、縦15㎝✕横11㎝、本文14頁+写真3頁+図面2頁の計19頁からなる小冊子である。そこから芋蔓式に辿っていくと、Yahoo!と提携する台湾のオークションサイト『楽淘』には、同書と見られる目次と奥付の画像2点が掲載されていた。それによれば発行は釜山観光協会で、著者個人の記名はない。

 同書はインターネットオークション「ヤフオク」に2019年4月2日に出品され、同年4月8日に1万7050円で落札されており、既に個人ユーザーの手に渡っている。

 釜山城址=釜山倭城とは、文禄・慶長の役で1592(文禄元)年に築かれた、日本軍の朝鮮半島側における司令塔的な倭城である。普請は毛利輝元・秀元が担当し、諸将が交代で在番を担当した。城は標高125m(比高ほぼ同じ)の小高い山頂部に築かれ、さらに海岸線の独立丘には一城別郭の独立性の強い出曲輪群を設けた。韓国側では山城を「母城」、出曲輪群を「子城台」と呼び分けている。両城とも遺構は比較的良く残るが、母城の方はあくまでも公園として整備されているため、城跡感に乏しいものとなっている。

 さてこの小冊子掲載の倭城図は、管見ではこれまで戦前の倭城研究史で紹介されたことがなく、その意味でも大変貴重な史料だと言える。

 釜山倭城を描いた測量図(縄張図)は、近代から現代にかけて複数存在する。特に戦前の植民地時代に作成されたのもにスポットを当てると、1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や、1927~32(昭和2~7)年頃に原田二郎陸軍大佐(最終階級は少将)が作成したとみられるいわゆる『九大倭城図』(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、1936(昭和11)年に内務省釜山土木出張所が作成した『釜山市街地計画図』(釜山近代歴史館蔵)などがあるが、同書掲載の図はこれまで知られていたものとは異なっている。

 まず表紙には、釜山倭城と思われる石垣のスケッチ画が描かれている。その右横には「鎮海湾要塞司令部検閲済」と記されている。鎮海湾要塞とは旧日本海軍が1904(明治37)年から鎮海湾沿岸に建設を開始した砲台群の総称で、1942(昭和17)年に釜山要塞と改名した。

 戦前には「要塞地帯法」という法律があり、要塞や軍港周辺はたとえ自分の土地であっても、写真撮影、スケッチ、測量などが厳しく禁止されていた。それらを行いたい時は最終的に陸軍大臣の許可が必要で、許可なく行うと懲役刑が科せられた(学習研究社2003『日本の要塞-忘れられた帝国の城塞』)。おそらく本書は詳細な地形などの軍事情報がないと判断されて、検閲を通過したのあろう。

 写真2は釜山倭城の鳥瞰図で、本書では「釜山日本城」と記されている。図中では方位の表記がないが、図面上側が北になる。等高線や山容が描かれていないのは、軍事機密に規制されてのことであろう。釜山倭城の鳥瞰図は倭城址研究会の図があるが(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、それ以外では初見である。

 これを見ると現状は概ね本来の姿を保っているが、詳細に観察するといくつかの差異が確認できる。まず主郭の天守台が曲輪面より一段高く描かれているが、現在はグランドに利用されているため曲輪面と同レベルに削平されている。主郭の図面右手には内枡形虎口を開口するが、ここは落とし積みの新しい石垣で閉塞されている。もっとも倭城址研究会の縄張図や写真にもこれと同様の状態が確認できることから(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、現在見る姿に改変されたのは1980年代以降であろう。

 主郭を取り巻く下位の曲輪には、図面左上方に内枡形虎口を開口するが、ここも同様に新しい石垣で閉塞されている。同じく下位の図面下側の曲輪は左上端が破線で描かれており、この当時から既に石垣の上端のが崩落した状態であったと思われる。下位の曲輪の図面上方には独立した櫓台が描かれているが、現状では曲輪面と同レベルに削平されており、その痕跡すら確認できない。

 写真3は釜山子城台倭城の縄張図で、本書では「釜山鎮子城臺」と記されている。先の図と同様に図中には方位の表記がないが、図面左手が北になる。また等高線は描かれていないが、小丘のためなんとなく山容が分かる。同倭城は小規模ながら保存状態がよく、現状も掲載図と大差ない。

 ただし1点だけ異なるのが、主郭の図面左下に一段高く天守台を描く点である。ここも現状では曲輪面と同レベルに削平されている。1931年以前に撮影されたとされる古写真でも主郭より一段高い天守台が写っているので(釜山都市鉄道1号線「佐川駅」構内で行われたミニ写真展『佐川歴史物語』より)、これはある程度は想像できたことではあるが。よく見ると、天守台の主郭に面した図面右手のみに石垣が描かれ、図面上方には描かれていないことから、もしかするとこの頃から破壊が進行していたのかもしれない。

 さて本書掲載の釜山倭城図は、著者本人が調査して作図したものなのか、それとも既存の図面の引用、あるいは先行図から描き写したものなのかについては、本文が読めないために判然としない。仮に本文が読めたとしても、文中にその旨が記されていない可能性もあるのだが。しかし戦前に作成されたいくつかの釜山倭城図と比較すると、いずれの図とも微妙に細部の描写が異なっている。このことから同図は、著者本人による作図の可能性もあると考えられる。

※掲載写真は総てWEBサイト『Aucfree』から引用した。記して感謝申し上げる。

(文:堀口健弐)

                                              

№42:2019倭城踏査速報(後編)

4月7日㈰ 曇のち雨
 
 旅の後半戦となる本日からは単独行動となる。天気予報では「曇のち雨」の予報が出ており、時間予報でも昼前からの降り出しとのこと。この予報を信用して山城へは行かずに、国立晋州(チンジュ)博物館(慶尚南道晋州市)で情報収集することにしたが、これが予想以上の成果を得ることができた。
 
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晋州城発掘現場(道路から撮影)
 
 いつもの沙上(ササン)バスターミナルから、市外バスにて一路晋州市へと向かう。
 
 まずは晋州城を訪れるが、以前は古ぼけた大きな建物が建っていた所が、再開発なのかそれとも史跡整備なのか、大々的に発掘調査中であった。当日は日曜日ということもあって関係者は誰もおらず、発掘現場にはブルーシートが被せられていたが、それでもシートの隙間から遺構を眺めることができた。解説の横断幕によると、朝鮮時代(後期か)の石垣、高麗時代の土塁、それに統一新羅時代の水路などの遺構が出土しているとのことであった。
 
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国立晋州博物館
 
 次に向かったのが晋州城内に建つ国立晋州博物館。博物館としての歴史は古いが、同城は文禄・慶長の役の激戦地であることにちなみ、何年か前に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)専門博物館にリニューアルされたが、早くも昨秋に再リニューアルオープンしたばかりであった。韓国の博物館はリニューアルが早いと思っていたら、実はその逆で、日本の博物館の方が世界的に見てリニューアルが遅いのだそうだ。
 
 新装なった展示の中で筆者の目を引いたのは、倭城の古写真のパネル展示であった。お馴染みの古写真に加えて、筆者がこれまで目にしたことがなかった蔚山倭城、釜山倭城、林浪浦倭城、竹島倭城、倭城洞倭城などの古写真も展示されていた。
 
 面白いのは、九州大学に戦前から伝わる倭城図面(通称『九大倭城図』)に描かれた倭城は古写真も残るが、同図に描かれていない倭城は古写真も残っていない。例えば巨済(コジェ)島に残る倭城のうち、倭城洞(ウェソンドン)倭城(慶尚南道巨済市)は写真も図面も残っているのに対し、その他の倭城は写真も図面も残っていない。
 
 これは戦前に存在した「要塞地帯法」の影響であろう。この法律は要塞や軍港から一定距離以内では、たとえ自分の土地であっても写真撮影、スケッチ、測量などの行為が固く禁じられており、許可なく行うとスパイ容疑で逮捕され懲役刑が科せられた。おそらく「要塞地帯法」の影響で、倭城の写真撮影も縄張図作成もできなかったのであろう(拙稿2006『倭城の縄張りについて」『愛城研報告』10、愛知中世城郭研究会)。
 
 博物館ではいずれも電話帳くらいもある図録『固城』(2014年、国立晋州博物館)と、リニューアルなった常設展示図録『丁酉再乱1597』(2018、国立晋州博物館)を購入し、明日の固城邑城踏査にも大いに役立った。
 
 博物館を出る頃には予報どおりに雨が降り出していて、晋州城の見学もそこそこに市外バスに飛び乗って、釜山への帰路に就いた。
 
4月8日㈪ 晴
 
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固城邑城(右手に甕城の一部が残る)
 
 昨日からの雨も上がり、一昨日に引き続き終日固城(コソン)邑城(慶尚南道固城郡固城邑)の踏査を行った。昨日購入した図録『固城』に固城邑城の概念図と現存遺構の写真などが掲載されていて、これが大変役立った。ただし同書では、固城倭城の石垣を固城邑城の遺構と誤認している所が3か所あり、しかもマッピングする位置も間違っていた。
 
 遺構は下町の路地裏の所々に残る状態である。これまで何度も訪城経験のある固城倭城のすぐ傍らにも、固城邑城の南門跡の甕城(オンソン:丸馬出に似た朝鮮式城郭の虎口)が残ることを初めて知り、自分自身の見識の低さを恥じた。城壁は畑と民家の境界となり、敷地の塀越しでないと目視しづらい状況で、人の家を覗き込む外国人など土地の人に見つかると怪しいことこの上ない。
 
 他の場所でも石垣が民家の基礎になって残っていたりして、長居すると怪しい人と間違えられて警察に通報されかねないので、路地裏で遺構を確認すると素早くレーザー距離計で計測して、直ぐに通りに戻って作図するヒットアンドアウェー戦法の波状攻撃で、何とか遺構の確認と図化を行った。
 
 ただし『固城』にマッピングされた遺構との位置関係が異なる箇所もあり、同書が間違っている可能性もあるが、筆者自身も単なる古ぼけた石垣を固城邑城の城壁と誤認している可能性もあることを付言しておきたい。
 
4月9日㈫ 晴のち雨
 
 この日は事実上の最終日である。天気予報では「曇のち雨」の予報だが、時間予報によると雨の降り出しは夕方からで、これに賭けて踏査を決行した。結局この賭けが当たり、昼過ぎまでは青空が残り、小雨が降り始めたのは踏査を終えて帰路に就いた日暮れ前になってからであった。
 
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徳島倭城遠景
 
 まず午前中に、これまで懸案となっていた徳島(トクト)倭城(釜山広域市)を踏査する。同城へは数年前まで沙上バスターミナルから金海(キメ)行のバスが頻繁に出ていたが、近年、ニュートラムのような釜山金海軽鉄道が開通したあおりを受け、バス便は朝夕のみの数本に減便されてしまい、踏査のタイミングが難しかったた。
 
 城跡は小高い丘に占地し現状では要害地形には見えないが、朝鮮時代末期(19世紀)の古地図『東莱釜山古地図』(東亜大学校所蔵)によれば、西洛東江の中に漢字で「徳」とか「竹」とか書かれた小島が描かれている。これが徳島倭城と竹島(チュクト)倭城で、往時は両城とも大河に浮かぶ水城であった。
 
 当城は、城郭研究者仲間の情報網で目ぼしい遺構は存在しないと聞かされていたが、確かに丘頂に平坦面があるだけで現状は墓地や耕作地となり、石垣や堀といった防御遺構は一切確認できなかった。ただし開墾された畑には青磁や陶器の破片の散布が見られたので、朝鮮時代にこの地で何らかの人々の営みがあったことだけは確かのようである。
 
 なお事前情報では、矢穴の残る露岩があると聞いていたのだが、範囲が広大過ぎて探し出すことができなかった。
 
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竹島倭城
 
 午後からは、徒歩にて川向にある竹島倭城へと向かう。同城も過去に10回超の訪城経験があるが、改めてデジタルカメラで写真撮影を行った。
 
 同城は遺構が良く残るものの、主郭石垣はツタや雑草が繁茂してなかなか石垣を良い条件で観察することができなかった。ところが数年前に釜山市によって大々的な除草作業が行われて、初めて石垣の全容を目の当たりにすることができた。その結果、今まで気付かなかった築石に不自然な稜線の存在を確認した。おそらく石垣の改修か、施工単位を表しているのだろう。
 
 同城の帯曲輪には矢穴の残る露岩が数か所あり、筆者は実測図を発表しているが(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)、どうやら成長した草木に埋もれてしまったようで、所在を再確認することすらできなかった。現地には重機が入った形勢はなく、一個人が鍬やスコップで撤去できる代物ではないので、探せばどこかに眠っているはすなのだが。
 
 帰路はバス便が夕刻までないはずなので、最寄りの軽鉄道「金海市庁前駅」まで1時間ほどかけて歩く覚悟を決めていたのだが、麓の停留所から軽鉄道「大渚(テジョ)駅」行きのマウルバス(マイクロバスタイプのコミュニティバス)が出ているのを発見。運行時間は1~2時間に1本間隔だが、運良くあまり待ち時間なし乗車することができた。反対方向に乗っても「金海市庁前駅」まで行けるようだ。 
※ 
 中6日間の踏査旅行は短かった。決して楽しい時間は早く過ぎ去ると言うのではない。滞在中は雨天で山城に行けない日もあれば、1城の踏査が数日がかりになる日もある。当然それも見越して計画を立ているつもりであるが、それでも予定どおりには進まないのが世の常である。具体的に言うと、今回予定に含めていた機張(キジャン)邑城(釜山広域市機張郡)は、残念ながら全く踏査することができず今後の踏査に持ち越しとなってしまった。
(文・写真:堀口健弐)

№41:2019倭城踏査速報(前編)

 4月3日㈬から同月10日㈬にかけて、約1年ぶりとなる倭城踏査旅行を行った。本来ならば年度末までに、有給休暇を消化する意味でも、遺構の写真映りを考えても3月中に訪韓したかったところだが、3月前半は発掘調査報告書の作成で忙しく、仕事が楽になると期待していた同月後半には急な遺跡発掘調査の仕事が入ったため、今年度も有給休暇を半分ほど流してしまった。そのため次の発掘現場が始まりそうな日まで時間がある4月上旬になって、漸く踏査旅行を決行することができたのであった。
 
 韓国釜山界隈では関西よりも一足先に桜が満開で、帰国時には早くも葉桜に変わりつつあった。日差しはめっきりと春めいてきてはいたが、吹く風はまだ少し冷たく感じる日も多かった。
 
 今次踏査の成果は今夏刊行の専門誌に投稿の予定であるが、8日間のうち初日と最終日はほぼ移動日なので、実質中6日の行程を前編・後編の2回に分け、速報として以下に報告する。
 
4月4日㈭ 晴
 
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安骨浦倭城
 
 事実上の初日は安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)へ。釜山駅から都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り下端(ハダン)駅で下車し、龍院(ヨンウオン)行の市外バス(急行バス)に乗り換え、下車後徒歩にて現地へ向かう。
 
 同城は10回+αの訪城経験があるが、どうしてもデジタルカメラで再撮影がしたく改めての訪城となった。事前の情報で草木が刈られて観察しやすくなっているとのことであったが、現地に着いてみると確かにそのとおりで、今や倭城の中では最も見学しやすいと言える。山菜獲りのアジュンマ(おばちゃん)たちの横を失礼しながら、終日写真撮影に興じた。
 
 夕刻、沙上(ササン)バスターミナルで“倭城ナビゲーター”の植本夕里女史と再会し繁華街へ。夕食はテジカルビ(豚の味付け焼肉)と韓国冷麺を食しながら、明日以降の日程や踏査地などに花を咲かせた。
 
4月5日㈮ 晴
 
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固城邑城と踏査中の筆者(植本夕里氏撮影)
 
 沙上バスターミナルから固城(コソン)行の市外バスに乗り込み、固城邑へと向かう。この日の目的は、固城倭城の外郭線にも転用された固城邑城(慶尚南道固城郡固城邑)の遺構探索である。
 
 同邑城の遺構は完全に消滅したと思い込んでいたが、偶然にもインターネット上で見つけた『固城邑城址地表調査報告書』(2001年、固城郡、慶南発展研究院歴史文化センター)によると、2001年段階でも何か所に邑城の城壁遺構が残片的に残っていることを知り、俄然興味が湧いてきた。遺構は下町の路地裏などに辛うじて一部が残る状態で、当日はあまり確認することができず、後日への持越しとなかった。
 
 遅い昼食の後、すぐ近くにある松鶴洞(ソンハクドン)古墳群と、併設する国立固城博物館を見学する。同古墳はかつて「韓国の前方後円墳か?」と日韓の考古学界で話題になった。東亜(トンア)大学校が行った発掘調査によると(団長:沈奉謹教授)、同古墳は円墳が重なって築かれたもので、前方後円墳説はひとまず否定された(これに関しては項を変えて私見を述べたい)。
 
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松鶴洞古墳出土の日本産須恵器(撮影可能資料)
 
 ところで博物館の展示品には、どう見ても日本の須恵器に見える蓋杯とハソウが何点か展示されていた。須恵器は朝鮮半島から渡来人が伝えた土器なので、故地と姿形が似ている物も多い。筆者は須恵器の専門家ではないものの、日頃から須恵器を目にし触れる機会が多く、件の須恵器は陶邑編年のMT15型式(6世紀前半)にしか見えなかった。が、この問題は明後日に思わず解決した。
 
 国立晋州(チンジュ)博物館で購入した図録『固城』(2014年、国立晋州博物館)によると、件の須恵器は「倭系遺物」と紹介されている。この日は展示替えで見られなかったが、以前の訪館時には須恵器提瓶も展示されていた。「提瓶」とは軍隊や登山家が使うような水筒形の器で、日本で生まれて朝鮮半島には存在しない器種である。このことからも松鶴洞古墳の被葬者は、大和政権と関係の深い豪族であったことが分かる。
 
 その後釜山の沙上に戻り、夕食は韓国焼肉の定番中の定番であるサムギョプサル(味付けしない豚の焼肉)を食した。
 
4月6日㈯ 晴
 
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西生浦倭城
 
 4月6日は語呂合わせで「城の日」なので、「西生浦(ソセンポ)倭城へ行きたい」と言う夕里さんのリクエストに答えて、この日は終日西生浦倭城(蔚山広域市蔚州郡)を踏査する。少し前までは釜山市内の海雲台(ヘウンデ)から市外バスが出ていたが、近時、残念ながら路線が廃止となり、西生浦倭城への直通便がなくなってしまった。
 
 この日はコレール(韓国国鉄)の釜田(プジョン)駅からムグンファ号(急行)に乗り、まず南倉(ナムチャン)駅へ向かうが、本数は2時間に1本間隔である。下車後、駅前から鎮下(チナ)方面へ向かう市内バス(路線バス)に乗り換える。本数は1時間に1本間隔だが、急行の到着時間に合わせているのか、ほとんど待ち時間なしに乗ることができ、その名も「西生浦倭城前(ソセンポウェソンアプ)」という名のバス停で下車した。
 
 当日は雲一つない“日本晴れ”で、西生浦倭城名物の登り石垣も青空をバックに撮影することができた。城内に植えられた桜も満開から散り始めで、団体客や家族連れの花見客、さらには新婚さんの記念撮影などで城跡も大層賑わっていた。
 
 帰路は再び南倉駅まで戻ったところで、運良く海雲台行きの市外バスが通りかかったので、急ぎこれに飛び乗り釜山市内まで戻る。
 
 夕食は西面(ソミョン)のその名も“テジクッパ通り”で、釜山名物のテジクッパを食す。テジクッパとは、白濁したあっさり味の豚骨スープにチャーシューのような豚ばら肉が入った、雑炊のような韓国のソウルフードである。例えるなら豚骨ラーメンの替え飯のような感覚で、日本人の口に向いている味かもしれない。夕里さんは明日以降に一時帰国されるので、一旦ここでのお別れとなった。
(文・写真:堀口健弐)

№40:安土城(滋賀県近江八幡市)

安土城縄張図:中心部(一部、滋賀県教育委員会原図を参照)
 
 安土城(滋賀県近江八幡市)は、言わずとしれた織田信長が天下統一を目指して築いた居城であり、1576(天正4)年から築城を開始して1579(天正7)年に完成を見た。1582(天正10)年の本能寺の変で一度焼失し、その後再興されるが、1585(天正13)年に廃城となった(秋田裕毅1980「安土城」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。高石垣、瓦建物、天主(天守)を備えた様は“近世城郭の嚆矢”と評されている。
 
 筆者は学生時代だった1980年代から90年代にかけて、何度か同城の訪城経験があった。が、当時としては、その後に立ち入り禁止区域が設定される日がやって来るなどとは、夢にも思っていなかった。やがて平成の史跡整備後に、地権者の摠見寺が入山料を徴収するようになってからは、何となく嫌気がさして永らく訪れなかった。
 
 昨年の2018年5月4日に、原稿のネタ作りも兼ねて実に約20年ぶりに安土城を訪れたが、噂に聞いていたとおり残念な結果であった。入山料を徴収するのはまだ良いとしても、大手の入山口から天主台までの順路以外の箇所が悉く立ち入り禁止区域で自由な踏査ができない状態になっており、これでは真の安土城の魅力も伝わらないと思わずにはいられなかった。しかし「立ち入り禁止」と言われると逆に創作意欲が湧いてくるもので、何とか中心部だけでも縄張り図を描いてやろうと奮い立たったのであった。
 
 そこで日を改めて同年11月18日と20日の両日にわたって、山頂の曲輪群を中心に縄張り図の作成を行った。城郭研究者の間では「有名な城ほど縄張り図がない」と言われるが、同城も例外に洩れず滋賀県教育委員会作成の実測図を除くと、村田修三大阪大学名誉教授の縄張り図しか未だ世に出た図がないのである(村田修三1987「安土城」『図説 中世城郭事典』2、新人物往来社)。
 
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写真1:天主台穴蔵
 
 なお作図に際して、立ち入り禁止区域については目視可能な範囲はレーザー距離計を用いて測距し、目視不可能な箇所については過去に踏査した際の写真や記憶に基づいた。ただしⅣ郭(八角平)については踏査経験はあるものの、滋賀県教育委員会の実測図をそのまま参照した。
 
 さて安土城は、琵琶湖の東岸標高199m(比高110m)の安土山に占地する。周囲は昭和時代の干拓事業により陸地化が進んだが、往時は三方を琵琶湖に突き出して湖水に囲まれた岬状の地形であった。安土山は大別して黒金門より内側の狭義の山城部分、大手道の左右に展開する家臣団屋敷群、摠見寺の3区画で構成される。安土山に上級家臣団や寺院を集住させることで、山全体が一種の城下町を形成している。
 
 縄張りは全山が総石垣造りによる。いわゆる「穴太積み」と呼ばれる積み方で、全く加工しない自然石や、自然石を真っ二つに割っただけの粗割り石を使用し、石材の間隙には間詰石を入れる。隅角部は算木積を意識しつつも、角石の左右の引きが揃わない箇所や、角石の控えに極端な長短が見られる。
 
 ただし山頂部を中心に石垣の多くは、1960(昭和35)年から1975(同50)年にかけて、穴太積み石工で人間国宝の故・粟田万喜三氏によって修築工事が行われた。しかし当時は石垣自体が文化財だという認識に乏しく、修築前の状態を写真や図面などの記録を残していないため、どこまでが現存で修築なのかの区別が分かりづらくなり、研究にも支障をきたしている。
 
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写真2:信長廟
 
 Ⅰ郭は最高所で現在は「二の丸」と呼ばれているが、ここが本来の主郭であろう。現在は天主台からの崩落土で通行不可能だが、往時はⅠ´郭(天主取付台)と帯曲輪で連絡していたと思われる。中央部には、穴蔵を有する平面形が不等辺八角形の天主台Aを設ける(写真1)。この上に『信長公記』などの史料によると、地上6階地下1階の天主が建てられていたことが分かるが、上屋構造については決定的な史料がなく未だ不明のままである。
 
 そのⅠ郭には、1583(天正11)年に豊臣秀吉が信長の一周忌に建立したと伝えられる「信長公本廟」が祀られている(写真2)。ただし今見る信長廟は、切石を用いた「亀甲積み」に近い積み方であり、「豆矢」と呼ばれる小型の矢穴を穿っている。石垣の稜線には反りが見られ、天端石は幕末台場に見られるようなオーバーハングして張り出す「はね出し」状となっている。いずれの要素も現存する他の石垣とは様相が大きく異なっており、間違いなく江戸時代中期かそれ以降に信長顕彰のために整備されたものであろう。
 
 Ⅱ郭は現在「本丸」と呼ばれている。ここは1941(昭和16)年と1999(平成11)年の2度にわたって発掘調査が行われ、本丸御殿の礎石の一部が今も露出した状態となっている。発掘調査の結果、異説もあるが平面構造が御所の清涼殿に似ることから、信長が天皇を迎えるための行幸施設であったと見られている。
 
 Ⅲ郭は「三の丸」と呼ばれており、Ⅰ郭同様にⅡ郭よりも高い位置にある。立ち入り禁止になる以前の踏査時には、この曲輪に多数の瓦片が散布していたのを記憶している。
 
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写真3:黒金門
 
 Ⅳ郭は「八角平」と呼ばれており、文字通り平面形が多角形をした独立性の強い曲輪である。織豊系の山城には、主郭背後に大堀切や尾根鞍部を挟んで独立性の高い1郭を設ける事例があるが、その機能についてはこれからの検討課題であろう。史跡整備が始まった平成時代初め頃まではここまで散策できて、東屋やベンチなどの休憩施設が置かれていたように記憶しているが、現在ではここも立ち入り禁止となっている。
 
 城外に対してB・C・D・Eの各虎口を開口する。このうち虎口B(黒金門)とⅣ郭へ向かう途中にある虎口C(現在は立ち入り禁止)は、初期の織豊系城郭に特徴的な嘴状虎口となる(写真3)。両虎口ともに昭和の修築の手が入っているが、1687(貞享4)年の『近江国蒲生郡安土古城図』(摠見寺蔵)によると、虎口Bは形状自体に大きな差異は見られない。一方、虎口Cは同図には描かれていないところを見ると、『古城図』は天主台までの道程は正確に描くものの、それより奥はやや不正確な傾向が見て取れる。
 
 安土城では残念ながら、昭和と平成の修築がおよんでいないオリジナルの穴太積み石垣や、縄張りの見所でもある虎口Cは立ち入り禁止となっている。これでは穴太積み石垣の魅力も縄張りの魅力も存分に伝えることができず、大変残念な結果と言わざるをえない。“蛇の道は蛇”で、安土城を管轄する滋賀県教育委員会と管理する摠見寺との間で、様々な軋轢のあることが漏れ聞こえてくるが、この素晴らしい城跡を存分に活用しきれてい状況を憂いずにはいられない。
(文・図・写真:堀口健弐)

№39:蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)

蔚山倭城縄張図
 
 蔚山(ウルサン)倭城は、倭城踏査のみならず人生の中でも忘れえない思い出の多いお城である。1999年には初の一人旅で倭城を巡り、その前年の98年には「蔚山の置いてけぼり事件」が起こった。韓国語もろくに喋れない異国の地で本隊に置いてぼりにされ、自力で高速バスに乗って釜山まで移動し、飛び込みでその日の宿を探すという、人生で何度もない貴重な経験をした。これは大変な思い出でもあるが、長くなりそうなので下記の文献を見つけられたら、是非とも一読されたいと思う(拙稿2004「楽しい?倭城踏査」『城郭研究の軌跡と展望』Ⅱ、城郭談話会)。
 
 蔚山倭城は、大韓民国蔚山広域市中区鶴城(ハクソン)洞に所在し、倭城群の中では最北端に位置する。同市は釜山広域市の北隣に位置し、1980年代以降に現代(ヒョンデ)財閥の企業城下町として急速に発展した。倭城址研究会が1970年代末頃に撮影した写真によると、城跡周囲に田園風景が広がっており今日とは隔世の感がある(倭城址研究会1989「蔚山倭城」『作戦研究 戦国の籠城戦』新人物往来社)。
 
 同城は、蔚山広域市文化財資料第7号に指定されている。太和江(テファガン)の河口に近い左岸で、支流の東川(トンチョン)とがY字形に合流する辺りの、標高50m(比高ほぼ同じ)の「鶴城山」を中心に占地する。戦前から日本人の手により顕彰されてきて、現在は鶴城公園となり市民の憩いの場となっている。近時、新たな解説板(日本語あり)が設置された。
 
 慶長の役の1597(慶長2)年に、毛利輝元が普請を担当して浅野幸長が在番を担当し、翌98(慶長3)年にかけて勃発した「蔚山の籠城戦」では、加藤清正も加勢して守備した。この戦闘では、明・朝鮮連合軍6万人に対し守備軍2300人で応戦し撃退したが(兵力数については諸説あり)、守備兵も冬の寒さと兵糧不足から多くの戦死者を出すに至った(峰岸純夫・片桐昭彦2005『戦国武将合戦事典』吉川弘文館)。
 
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写真1:Ⅰ郭の修築石垣
 
 慶長の役では蔚山の籠城戦をはじめ、泗川(サチョン)の戦い、順天(スンチョン)の戦いで実際に倭城を巡る攻防戦が行われた。これらの戦闘を総称して別名「三路の戦い」とも呼ぶが、いずれも兵力数で上回る攻城軍の猛攻を耐え抜いており、落城した倭城は一つもなかった。
 
 蔚山倭城の築城には、当城から北へ約2km地点に位置する、朝鮮王朝側の蔚山兵営城(同市)の石垣を転用したと伝えられる。Ⅰ郭(本丸)が最高所で主郭である。北と東に枡型虎口AとBを開口するが、特に虎口Aの片脇には横矢枡形Cがあり、攻め手にたいして強烈な横矢が掛かる。石垣の一部は元々残存状態が良くなかったが、近時、石垣の修築工事が行われた(写真1)。なお「天守台」が存在すると紹介する書籍もあるが(加藤理文2014「蔚山城」『倭城を歩く』サンライズ出版)、これは誤認であろう。
 
 同城を描いた絵画史料に『朝鮮軍陣図屏風』(尊経閣文庫蔵)がある。同図は現状の縄張りと比較すると、曲輪配置を模式的に描いている点など絵画史料としての信憑性が低い可能性もあるが、そこには隅櫓は描かれていても天守は描かれていない。もし天守のような象徴的な建物が存在したのであれば、間違いなくそこに描かれるはずであり、やはり同城に天守は存在しなかったと見るのが妥当であろう。
 
 Dは相当石垣が崩れて分かりにくいが、よく見ると根石部分が残り横矢枡形となるが、城郭本体部との繋がりが分かりにくい。Ⅲ郭(三の丸)は東に虎口を開口し、片脇に横矢枡形Eが張り出す。北辺には土塁の残欠が低い高まりとなって残る。
 
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写真2:登り石垣
 
 Ⅳ郭は枡形虎口Fを開口し、隅部から張り出しGを設ける。このⅣ郭は、Ⅰ郭とを2条の登り石垣で連結している。この登り石垣は、筆者が最初に踏査した1990年当時は綺麗に見ることができたが、その後、次第にブッシュ化して埋もれてしまっていた。これを蔚山広域市公認解説ボランティアの金青子(キム・チョンジャ)氏と、釜山博物館学芸士の羅東旭(ナ・ドンウク)氏らが中心となって除草作業を行い、今日再び綺麗な姿が見られるようになった(写真2)。
 
 なおかつては、Ⅳ郭から東方へ延びる外郭線が存在していた。倭城址研究会が踏査した当時は外郭線の一部がまだ残存していたようだが、今では都市化のの波に飲み込まれて完全に消え去ってしまった(倭城址研究会1989)。撮影年代は不明ながら、植民地時代に撮影されたとみられる古写真によると、これに相当する外郭線の土塁が写っている(植本夕里氏のご教示)。ただしその時点でも、既に土塁の半分は耕作地化により低く削られてしまっているのが見て取れる。
 
 蔚山倭城は近年史跡整備が進んでいるが、調査担当者も「日本の城郭石垣を勉強したいが情報が少なくて困っている」旨を人伝に聞いたことがある。こういう時こそ、日韓の研究者が情報交換し合って共同研究することが、今まさに必要とされていると言えよう。
(文・図・写真:堀口健弐)

№38:二条城(京都市)

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二条城縄張図
 
 二条城は国宝であり世界遺産でもある。同城は昔から京都を代表する観光名所であったが、近年は海外からのお客さんも増えて大層な賑わいである。筆者は京都に住んで長いので、二条城はもはや地元のお城の感覚である。入城料を払って入ったのは10回を超えないと思うが、お堀端を歩いたり自転車で通過したのを含めると数えられないほどである。さらに今の職に就いてからは、電車の車窓からほぼ毎日のように二条城の隅櫓を眺めながら通勤している。
 
 ところで詳しくは後述するが、二条城は将軍徳川家光によって今我々が目にする姿に再築した。しかし城郭研究者はともかく、一般書やマスコミも含めていまだに家康が築いた城として紹介されることが多い。それを改めて実感させる出来事が今年起こった。
 
 2018年9月に近畿地方を襲った台風21号は“戦後最大の風台風”と呼ばれ、各地に甚大な被害をもたらした。貴重な文化財も例外ではなく、二条城も二の丸御殿の破風板が損傷した。その際に皇室を表す菊のご紋の覆い金具が外れて、その下から徳川家の葵のご紋の飾り跡が見つかった。その時の模様を伝える新聞記事の見出しでも「家康築城時の飾り跡か」とあり(『京都新聞』朝刊、2018年9月27日付け)、まるで家康が築いたかのように誤解させる記述である。
 
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写真1:外堀石垣
 
 二条城は京都盆地の中央部に占地し、水堀を「回」字形に巡らせた平城である。提示する縄張図は、ちょうど城内の桜が満開の頃の、2013年4月5日を中心に作成したもので、既存の案内板などをなぞったものではない。立ち入り禁止区域については、レーザー距離計を用いて測距した。
 
 当城の創築は、1602(慶長7)年に将軍徳川家康が京都上洛の御座所として築いたのが始まりで、その場所は現在の二の丸御殿付近に比定される。1626(寛永3)年、徳川家光後水尾天皇行幸のために、西に城域を拡大して現在見る姿に再築した(今谷明1980「二条城」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。
 
 縄張りは総石垣造により、内堀・外堀ともに切石だけで角石・角脇石・築石を積んだ「間地積」による(写真1)。これは寛永期に入ってから出現する石積技法であり、家康が同城を築いたとされる慶長期前半には未だ存在していなかった技法である(拙稿2002「城郭石垣の様式と編年―近畿地方寛永期までの事例を中心に―」『新視点・中世城郭研究論集』新人物往来社)。総ての石垣が同じ技法で積まれており、また石垣の繋ぎ目も見られないことから、同時期に積まれたことが分かる。
 
 Ⅰ郭が主郭(本丸)である。正方形を呈し内堀の外周も含めると約200m四方で、本丸だけでも約2丁四方の規模を誇る。西南隅に天守台Aを設けるが、この天守台には5層の層塔式天守が建てられていたが、1750(寛延3)年に落雷により焼失した(平井聖1980「二条城の天守」『日本城郭大系』11、新人物往来社)。本丸の四周に石塁を巡らすが、総ての面を雁木坂にすることにより、守備兵の昇降を容易にしている。この北西隅と東南隅には、隅櫓台状の張り出しを設けている。
 
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写真2:天守台から見た虎口B
 
 BとCにそれぞれ虎口を開口する。いずれも内枡形と外枡形を組み合わせた形状であるが(写真2)、同型式の虎口は名古屋城(愛知県名古屋市)や篠山城(兵庫県篠山市)など、慶長期以降の徳川系城郭に共通する手法である。虎口BからⅢ郭(二の丸)へは廊下橋で繋がっていた。「廊下橋」と言うと優雅な響きもあるが、橋を掩体化して守備兵を出撃させる防御的な構造である。
 
 外堀は仕切り石塁によって東西に二分される。石垣の向きから、西側(Ⅱ郭)が内で東側(Ⅲ郭)が外の関係になる(写真3)。この仕切り石塁で区画されたⅡ郭を、馬出曲輪とする見解もある(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。二の丸(Ⅱ郭・Ⅲ郭)は隅櫓台が載る箇所を除き土塁で囲郭され、城外側の下半部だけに石を積んだ腰巻石垣としている。4隅には隅櫓台を設け、うち2棟の隅櫓が現存する。
 
 この二の丸には、D(東大手門)、E(北大手門)、F(西大手門)の三方向に虎口を開口する。虎口Fのみが内枡形虎口で、残る虎口は平入り虎口となる。現在は入城ゲートのある東大手門が正門的扱いであるが、Ⅰ郭虎口BといいⅡ郭虎口Fといい、縄張りだけを見ていると西に防御正面を置いているようにも見える。
 
 
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写真3:二の丸仕切り門
 
 このように徳川系の平城には外堀の3方に虎口を開口するものが多いが、4方向はあまりない。4=「死」に通じるために嫌ったのであろうか。なお虎口Gは大正時代になって新たに造られた城門で、築城当時には存在していなかった。
 
 Ⅲ郭には有名な国宝の二の丸御殿が建つ。2009年度に実施された遺構確認のための発掘調査によると、地表下40~50㎝地点から矢穴の残る礎石列が出土しており、これが家康期の建物に相当すると見られる(京都市埋蔵文化財研究所2010『史跡二条離宮(二条城)』)。つまり家康期二条城に厚さ40~50㎝の土盛りをし、その上に現在の二の丸御殿が建てられていたことが考古学的にも判明した。
 
 二条城は、二の丸御殿に代表されるようにどうしても御殿的イメージが強いが、細部を詳細に見ると、しっかりと防御面も考慮された縄張りとなっている。また石垣の様式や発掘調査成果から、現在我々が目にする姿は家光期のものであり、家康期二条城は二の丸御殿の下に今も眠り続けているのである。
(文・図・写真:堀口健弐)

№37:亀浦倭城(大韓民国釜山広域市)

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亀浦倭城縄張図
 
 亀浦(クポ)倭城は、都市鉄道2号線「徳川(トクチョン)」駅から歩いて行ける“駅前倭城”である。ただし昔からそうだったわけではなく、筆者が本格的に倭城踏査を開始しした1990年代後半は、まだ釜山市内には南北に貫く地下鉄1号線1本しかなかった。韓国滞在中は釜山駅前の安宿を拠点とすることが多く、亀浦倭城へは釜山駅前から出ている市内バス(路線バス)を利用していた。便数も多く乗り換えなしで行けるので、城跡の麓まで小一時間ほど揺られるのんびりとした行程であった。
 
 ある日の踏査の帰路で、突然バスがバス停でない所で停まった。韓国ではよくあること…と思っていたが、運転手が乗客に向かって何やら告げると他の乗客が一斉にゾロゾロと降りはじめた。韓国語なので何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、皆に合わせて下車すると別のバスが既に待機していた。どうやらバスの不具合か何かで運行できなくなり、代わりのバスを呼んだらしい。そんなほのぼのとした日常の一コマも今となっては懐かしいものである。
 
 それが2000年代前半に入って都市鉄道(当時の呼称は地下鉄)2号線が開通すると、徳川駅から亀浦倭城へのアクセスが俄然便利になった。それどころかこれにより市内へのアクセスの利便性が高まり、「随分と便利になったものだ」と思っていたのも今や昔の話である。
 
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写真1:Ⅳ郭から望む主郭石垣
 
 亀浦倭城は、大韓民国釜山広域市北区徳川洞に所在する。城跡は洛東江(ナクトンガン)の左岸に位置し、標高100m(比高90m)の小山に占地する。現在は徳川市民公園となり、釜山広域市記念物第6号に指定されている。一時期近隣農民が城跡内に違法に農地を開墾していたが、近時は徐々に撤去されつつある。
 
 この付近は倭城の密集地帯で、城跡に立つと梁山(ヤンサン)倭城、狐浦(ホポ)倭城(消滅)、金海竹島(キメジュクト)倭城、農所(ノンソ)倭城を見渡すことができる。当城は文禄の役の1593(文禄2)年、小早川隆景が普請し在番も担当した。
 
 当城の縄張りは、東の尾根続きを大堀切で遮断して曲輪を並べる。Ⅰ郭が主郭である。天守台は存在せず、北端が僅かに高まり曲輪面は緩く傾斜する。東南方向にAが突出し枡形虎口を形成すると同時に、強力な横矢掛かりを可能にしてる。主郭へ上がる虎口が見られないが、Ⅱ郭から建物と直結した昇降施設で出入りしていたのであろうか。Ⅱ郭から続くⅢ郭は内枡形虎口Dを開口するほか、隅櫓台と登石垣側の櫓台が並び櫓門であった可能性がある。
 
 一方Ⅱ郭から虎口Bを通ってⅣ郭に至り、ここでも櫓門Cを開口する。ここは永らく立木に加えて雑草は繁茂し、人が立ち入れない状態であったが、近年伐採され見事な高石垣が観察できるようになった(写真1)。さらに中腹のⅤ郭とⅥ郭とが両翼を広げたような格好で登り石垣で連結し、縄張りの一体化を図っている。
 
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写真2:Ⅷ郭の石垣
 
 さて亀浦倭城には、城郭史上において重要な問題点が二つ内在する。
 
 一つ目は畝状竪堀群の問題である。Ⅶ郭から7条とⅧ郭から4条の計11条の、「畝状竪堀群」に見える微地形が存在する。日本国内の中世城郭でも、横堀や帯曲輪から畝状竪堀群を落とす事例は多いが、倭城となると話が少し複雑になる。なぜなら織豊系城郭は、基本的に畝状竪堀群を使用しないと言われているからである。他の倭城にも「畝状竪堀群」に見える微地形がいくつかあり、城郭研究者でも意見が分かれるところである。
 
 畝状竪堀群でないとするならば、雨水が作り出した自然の造形物や、山の崩壊を防ぐために雨水を流す施設(和歌山県の一部地域では「まかせ」と呼ぶ)などの城郭類似遺構の可能性も考えられる(拙稿2005「“畝状空堀群”を持つ倭城について『愛城研報告』9、愛知中世城郭研究会)。
 
 否定派の中には「織豊系城郭は畝状竪堀群を使用しない→だから倭城に畝状竪堀群が存在するはずがない」と言う二段論法で否定する方もおられるが、さすがにこの考え方は学問的ではなく良くない。筆者は畝状竪堀群説に固執するわけではないが、否定するのであれば「これこれこういう理由で城郭類似遺構である」と検証すべきであろう。
 
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写真3:Ⅷ郭の矢穴
 
 二つ目は矢穴の問題である。当城の石垣は自然石をそのまま用いるか、粗割りしただけのいわゆる「野面積み」あるいは「打ち込みハギ」と呼ばれる積み方で、基本的に矢穴(石を割るためのクサビを打ち込む穴)は見られない。しかしⅧ郭のみに矢穴が集中的に認められる箇所がある(写真2)。矢穴は1個の築石(つきいし)に対して1~2個の割合で穿たれ、矢穴のサイズは幅4~5㎝、深さは4~5㎝と3㎝以下の2種類で(写真3)、いずれも小型である(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
 矢穴は小さい物から大きな物へと変化し、慶長期後半には幅15㎝以上にまで大型化するが、江戸時代中頃になると一転して通称「豆矢」と呼ばれる小型が主流になる。当石垣は天端が崩れて、後世に積まれたり修築されたようには見えない。この評価が正しければ、廃城になった1598(慶長3)年以前には既に小型の矢穴が存在していたことになる。
 
 もっとも近年の肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の石切り場でも小型の矢穴が確認されており(市川浩文2014「肥前名護屋城石切場」『織豊系城郭の石切場』織豊期城郭研究会)、数は少ないながらも技術の雛形は存在していて、それが時間を置いてある時期から主流になったと考えるべきであろうか。
 
 亀浦倭城は交通アクセスの良さから、近年訪城する城郭研究者・愛好家も増えている。前述のごとく当城は城郭史の興味深い問題点を内包しており、「百聞は一見にしかず」で、是非ともご自分の目で確認して、賛成、反対意見を述べて頂きたいものである。
(文・図・写真:堀口健弐)