コラム6:地下鉄で行く“駅前倭城”

 文禄・慶長の役は、韓国では壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼ばれている。同戦役の際に日本軍が築いた倭城は、一昔前と比べると随分とメジャーな存在となり、以前よりも訪れる日本人が増えた。WEBサイトを検索すると、城郭愛好家のブログに旅行記が紹介されていたりするし、また倭城を巡る旅行会社のツアー企画にもヒットする。

 本稿では、筆者がこれまでに倭城踏査において体験し学習したことを、今後倭城を目指す若き研究者の道標とすべく、ここに踏査方法を指南するものである。このような内容は、読み手によっては学術的でないと感じるかもしれない。しかしこれからの倭城踏査を考えるにあたり、自分にしか書けないものは何かと考えた時にこれしかないと判断し、ここに記すものである。

 まず倭城踏査には、当然のことながら旅券(有効期限3か月以上)が必要で、90日以内の滞在であれば、ビザ(査証)の申請の必要はない。次に何をおいても宿泊場所の確保さが、初心者には日本からインターネット予約可能なホテルを見つけて、事前に予約を入れておくのが無難だろう。筆者が実際に宿泊したホテルは国鉄「釜山」駅前のアリラン観光ホテル(註1)と、都市鉄道「西面(ソミョン)」駅近くの東横イン西面店である。

 東横インはホテルの客室の作りからサービスまで、何から何まで日本と全く同じで、フロント係も皆流ちょうな日本語を話すので初心者には安心である。もっとも韓国らしさを堪能したい人には、やや物足りないかもしれないが。ちなみに東横インには上記以外にも「釜山」駅前の釜山店、同1号線「中央(チュンアン)」駅近くの中央店がある。どのホテルを選択するかは、旅行のスタイルによっても変化して一長一短がある。倭城踏査に限定するのであれば、西面店がベターだろう。同店周辺には若者文化の繁華街(その名も“若者通り”という一角があるくらい)で飲食店もかなり多い。

写真1 現在の甑山駅

 釜山市内には2014年現在、地下鉄が1号線から4号線まで張り巡らされていて、近年呼称を「釜山都市鉄道」に変更した。これに釜山市内と金海(キメ)市内とを結ぶ釜山金海軽鉄道(ニュートラムのような無人鉄道)が加わり、移動も随分と便利になった。

 地下鉄は自動券売機で自動改札のうえに、駅名もハングル・漢字・ローマ字の三か国語表示なので、韓国語に不慣れな外国人旅行者にも利用したすい。ただし日本と若干異なる部分もある。まず切符の購入方法であるが、先に行先の「駅名ボタン」を押してから次にお金を投入する。次に改札であるが、ここでも少し注意が必要である。一部の駅を除き、上りと下りの改札が別々に分かれているのである。上りと下りを間違えて入ってしまうと面倒なことになるので、確実に行先表示を確かめてから入ることにしよう。自動改札へは切符を入れてから、自分でバーを押しながら入る。

 さて本題の地下鉄で訪城可能な倭城であるが、釜山市内には釜山倭城、釜山子城台倭城、亀浦倭城があり、梁山(ヤンサン)市の梁山倭城も最寄り駅が開業予定である(註2)。

写真2 釜山倭城

①釜山倭城(プサンウェソン)
 文禄・慶長の役で朝鮮半島側の本営となった倭城である。後述する釜山子城台倭城と区別して「釜山母城」とも呼ばれる。また韓国側では小西行長の城と誤伝されて「小西城」と呼ばれることもある。

 都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅下車後、地上に出て西方(山手側)にある住宅街の細い急な階段を登って頂上を目指す。登り口付近には家具屋が集中している区域が最初の目印である。山頂部の城跡は現在「甑山公園」や「東区図書館」になっているので、道に迷ったら行きかう人に「チョギヨー(すみません).チュンサンコンウォン カジ カゴシップンデヨ(甑山公園まで行きたいのですが).」とか、「トソグァンカジ カゴシップンデヨ(図書館へ行きたいのですが).」と尋ねよう。韓国人は儒教の精神から、親切で情の深い人が多いので丁寧に教えてくれるはずである。もちろんその時は「カムサハムニダ(ありがとう).」の一言を忘れずに。

写真3 釜山子城台倭城

②釜山子城台倭城(プサンチャソンデウェソン)
 当城は釜山倭城の一城別郭の支城である。都市鉄道1号線「凡一(ポミル)」駅下車後、地上に出て今度は母城と反対側の東方へ歩き、国鉄京釜(キョンブ)線の線路をまたぐ陸橋を渡って、庶民的な市場を抜ける。城跡は現在「子城台公園」になっているので(註3)、迷ったら「チャソンデコンウォン カジ カゴシップンデヨ(子城台公園まで行きたいのですが).」と尋ねよう。

 同城のすぐ麓に近年「朝鮮通信使歴史館」が開館したので、日韓の交流史を考えるうえでも是非とも併せて見ておきたい。

写真4 亀浦倭城

③亀浦倭城(クポウェソン)
 都市鉄道2号線「徳川(トクチョン)」駅下車後、地上に出て車通りを川沿いの北方に向かって10分ほど歩き、高速道路の高架を潜ると巨大な観音像が聳える小高い丘が見えてくるが、ここが亀浦倭城である。丘の中腹に亀龍寺(クリョンサ)というお寺があり、麓が路線バスの露天駐車場になっているいのが目印である。小高い丘に築かれ、城内には遊歩道も設けられている。ここからは釜山国際空港(地元呼称:金海国際空港)が近く、旅行最終日に訪れる人も多い。

写真5 梁山倭城

④梁山倭城(ヤンサンウェソン)
 都市鉄道2号線「甑山(チュンサン)」駅下車。この駅は2014年3月現在、駅舎は既に完成しているものの周辺整備が遅れているのか未開通で、電車はこの駅だけ停車せずに通過してしまう(註4)。駅の正面に見えるヒョウタン形の小高い独立山が梁山倭城で、目測で山麓まで15分くらいだろうか。山頂へのルートは3通りくらいあるが、初心者に確実なのは、駅から見て山の反対側(北側)にある東亜(トンア)中学校グランド脇の山頂が確実で(註5)、勾配も多少緩やかである。

註1 現在アリラン観光ホテルは既に廃業している。
註2 既に甑山駅は開業している。
註3 近年名称が「釜山鎮城公園」に変更されたが、今でも子城台公園で通じる。
註4 現在は停車する。
註5 現在は山の南麓、亀頭公園(クドゥコンウォン)と大日寺(デイルサ)のある登山道が便利である。

※本稿は『城郭研究の軌跡と展望』Ⅲ(2014、城郭談話会)に掲載した寄稿文を再掲したものである。当時と実情が合わなくなった箇所については、補註で補筆した。

(写真・文:堀口健弐)

№47:倭城オフ会2025(後編)

5月3日 曇のち雨

 目覚めると霧雨のような弱い雨がパラついていた。ホテルを出て集合場所に向かう頃には、雨は一旦上がっていたが、また今にも振り出しそうな雲行である。本降りの雨なら山城には登らずに、平地の朝鮮邑城や博物館巡りと決めていたが、雨もやんでいることだし、一か八かの掛けで本日の目的である巨済(コジェ)島を目指すことに。昨日同様に都市鉄道1号線と巨済行きの市外バス(急行バス)を乗り継いで、「グァンポ」バス停で下車。その後徒歩で30分以上歩いて、本日の目的地である長門浦(チャンムンポ)倭城を目指す。

写真1 長門浦倭城天守台(仮称:山腹曲輪群)

 同城は長木(チャンモク)湾の湾口に位置する、標高106mの岬に築かれている。1593(文禄2)年に、蜂須賀家政と生駒清正が築いた。昨日踏査した安骨浦倭城も変わっていたが、こちらはもっと変わっていて、完全に独立した縄張りが二つあってそれぞれに本丸があり天守台を設け、それらを竪土塁で囲郭する、まるで二世帯住宅のような城郭である。こんな縄張りの城も国内では絶対にお目にかかれない。同城は慶尚南道の史跡に指定され、標高の低い方の曲輪(仮称:山腹曲輪曲輪群)は、数年前に訪れた時よりも奇麗に除草作業が行き届き、説明板も新しくなっていた(写真1)。

写真2 長門浦倭城(仮称:山頂曲輪群)

 一通り見終わったところでいよいよ雨が降り出し、木陰で傘を差して暫く待機とする。このまま引き上げようかとも思ったが、雨足が少し弱まったので傘を差したまま山頂の曲輪(仮称:山頂曲輪群)を目指す。こちらは全く整備の手が及んでいないが、ブッシュと言うほどでもないので、雑木の隙間を縫うように傘を差したままで踏査を決行する。こちらの遺構は地元の人には認知されていないのか、それともこの箇所は史跡指定の範囲外なのだろうか。それでも遺構はしっかりと残っていて見応えがある(写真2)。

写真3 テジクッパ ※ウサギの人形は付いていません

 下山して麓の食堂で遅いお昼ご飯をいただく。雨に打たれて身体が冷えたので、何か温かい食べ物をと思ってテジクッパのお店へ。クッパとは雑炊のような食べ物で、元々はB級グルメだったが、現在では専門店もあるほどだ。韓国国内でも地域によりスープや具材が異なる。釜山を含む慶尚道では、薄味の豚骨スープに豚のバラ肉が具に入る。ここにご飯を投入するのだが、普通は白ご飯のところをこのお店は赤飯で、ちょっとお得感があった(写真3)。マシッソヨ~(美味しい)。

 

5月4日 晴れ

 昨日とは打って変わって“日本晴れ”の日より。倭城オフ会最終日は、都市鉄道2号線「徳川(トクチョン)」駅から徒歩にて亀浦(クポ)倭城へ。同城は標高100m(比高90m)の小高い丘に占地し、1593(文禄2)年に小早川隆景、立花宗茂らが築城と守備を担当した。

写真4 亀浦倭城

 亀浦倭城は釜山国際空港から近く、電車で簡単に移動できることから、韓国旅行の最終日に訪れることが多い。同城は釜山市の史跡で市民公園となっているが、近年一部の農家が不法占拠して城内を耕作地化している。管轄の釜山市も退去するよう警告しており、現地のテレビニュースによると、近い将来本格的な史跡公園化する構想があるようである(写真4)。

 下山後、近くの亀浦市場を散策した後、“最後の晩餐”にミルミョン(釜山冷麺)を食べようということになり、市場のアジュンマ(おばちゃん)にミルミョンの美味しいお店を尋ねたところ、わざわざお店の前まで案内していただいた。カムサハムニダ~(ありがとうございました)。

写真5 ミルミョン(釜山冷麺) ※ウサギの人形は付いていません

 ちょうどお昼時だったが、我々が入店するとさすがに人気店らしく、次々とお客さんが押し寄せて見る見るうちに満席となった。伝統的な朝鮮冷麺はそば粉やイモで作るが、ミルミョンは小麦粉で作るのが特徴。これは朝鮮戦争直後に冷麺の原材料が不足した際、在韓米軍から放出された小麦粉で代用したのが始まりとされている。麺が小麦粉なので、見た目は素麺やラーメンの細麺に近いイメージだ(写真5)。

 お腹も膨れたところで、空路での帰国組を空港まで見送って、大きなトラブルも無く倭城オフ会は無事に終了することができた。今年のオフ会は、晴と曇のち雨の日とが交互に繰り返して、目まぐるしくい天候が変わる生憎の天候だったが、それでも丸一日雨の日が無かったのはせめてもの救いだった。 

 個人的には、これまで何度も(たぶん10回以上)通い慣れた倭城であっても、見る人の目が変わると訪れるたびに新たな発見があり、大変収穫が多かったのと同時に、グループでの踏査の有用性を改めて実感した踏査旅行でもあった。でも来年はもう無いかな?それともまた有るのかな?

(写真・文責:堀口健弐)

№46:倭城オフ会2025(前編)

 2025年5月1~4日に3泊4日の日程で、今年で2回目となる倭城オフ会を行った。倭城オフ会とは、オンライン会「城飲み、諸説あり」の韓国に残る倭城を巡るスピンオフ企画である。旅行代理店は通さずに、参加者は各人で航空券(または乗船券)とホテルを予約していただき、現地での交通費や食事代はその都度各人払い、交通手段は電車やバスなどの公共交通機関を基本とする。今年は筆者を含めて4名の参加があり、僭越ながら筆者が水先案内役を務めさせていただいた。近時旅行会社が企画している倭城を巡るパックツアーよりも、だいぶんお安く抑えられると思う。
 以下に前後編の2回に分けて、当日の概要を報告するものである。

5月1日 曇りのち雨
 一足先にフェリーで釜山に上陸を果たしていた筆者は、釜山国際空港へ空路にて到着する後発組を待って合流を果たす。再開の挨拶もそこそこに、本日の目的地である梁山(ヤンサン)倭城(慶尚南道梁山市)を目指す。梁山倭城は1592(慶長2)年、毛利秀元・小早川秀秋らによって築かれたとされる。

写真1 梁山倭城の矢穴

 ニュートラムのような自動操縦の釜山金海軽鉄道と都市鉄道(地下鉄)2号線を乗り継いで、最寄り駅の「甑山(チュンサン)」駅で下車。午前中はまだ薄日が刺していたが、駅を降り立った頃には、今にも振り出しそうな雲行。そして登山口に着いた頃にはポツリポツリと小雨が降りだした。折り畳み傘を差して一同山頂を目指す。山頂の本丸に着いた頃には、雨も既に本降りとなっていたが、傘を差しながらの見学となった。
 踏査中、参加者の一人が、石垣に新たな矢穴を発見した。これまで同城では、矢穴の残る石垣が1か所と、矢穴が穿たれた転石が1個確認されていたが、新たに1個を追加することとなった。矢穴は台形で、1石に2個が並んで穿たれていた(写真1)。

写真2 釜飯の定食

 雨足も強くなってきたので下山するが、下山して駅に向かう頃には益々風雨が強くなり、傘を差していても下半身がびしょ濡れになる有り様だった。冷え切った体を温めるべく、晩御飯は釜山駅前で温かい釜飯の定食をいただいた(写真2)。

 

5月2日 晴れ

 都市鉄道1号線と市外バス(急行バス)を乗り継いで、最初の訪城地の熊川(ウンチョン)倭城(慶尚南道昌原市)を目指す。熊川バス停を降り立つとすぐに朝鮮王朝側の熊川邑城が目に飛び込んでくるが、それを横眼に一路熊川倭城を目指す。同城は1593(文禄2)年に小早川隆景・上杉景勝らが築城し、小西行長が城主を務めた。縄張りの巧妙さと登り石垣の圧巻さでは、倭城の中でも西生浦(ソセンポ)倭城と並んで2トップと言えるほどである。

写真3 熊川倭城の三角矢穴

 踏査中にまたも参加者の一人が矢穴を2か所で発見した。同城ではこれまで矢穴の存在が知られていなかっただけに、それだけでも大成果だった。そのうちの一つは“コンビニおにぎり”のような隅丸三角形の矢穴が、1石に2個穿たれていた(写真3)。三角形の矢穴は朝鮮半島の統一新羅時代に多い技法で、日本には無い技術である(廣瀬覚・高田祐一2021「日韓古代国家成立期における石工技術の比較研究」『日韓文化財論集』4、奈良文化財研究所学報)。これをどう解釈するかも今後の新たな研究課題として浮上した。

 下山後、再び熊川邑城に戻って、城壁の上で事前に朝買っておいたキムパプ(韓国式海苔巻き)などで遅いお昼ご飯を食べる。その後城壁を半周しながらの見学となった。同城は朝鮮王朝によって15世紀に倭寇の侵入に備えて築かれた。文禄の役では日本軍に攻め落とされ、日本軍も一時期駐屯していた。同城は近年、発掘調査を基に修築・復元された箇所も多いが、今でも当時のままに遺構を残す部分もある(写真4)。

写真4 熊川倭城の現存石垣

 現在はだいぶん崩れて高さは2mぐらいになっているが、往時はこの倍ぐらいの高さがあったのであろう。

 ここからローカルな路線バスに乗り換えて、本日最後の目的地である安骨浦(アンゴルポ)倭城(同市)を目指し、「安骨浦初校」バス停で下車してその後は徒歩の行程。同城は同じく1593(文禄2)年に、水軍の将の脇坂安治・九鬼嘉隆・加藤嘉明の3将が交代で守備した。

写真5 安骨浦倭城

 この3将は同じ水軍でありながら仲が悪かったとも言われているが、それを物語るかのように一つの縄張りの中に本丸に相当する曲輪が3か所あり、それぞれに天守相当の櫓台を上げるという、まるでルームシェアのような城郭である。日本国内ではまずお目にかかれない、変わり種の縄張りであると言えよう(写真5)。

(文責・写真:堀口健弐)

コラム5:松真浦倭城の残石と矢穴

写真1 松真浦倭城遠景

 今春(2024年)の大型連休を利用して、コロナ禍で中断していた倭城踏査を実に5年ぶりに再開した。旅の前半は個人の調査旅行に当て、後半は日本のお城好きたちを案内する恰好で、5月2日~5日にかけて倭城オフ会を開催した。このうち5月4日に松真浦(ソンジンポ)倭城(韓国慶尚南道巨済市)を踏査した。同城は当初の予定にはなかったが、参加者で話し合って急遽変更したが、これが結果的に大当たりだった。

 松真浦倭城が所在する巨済(コジェ)島は釜山市の西隣に位置し、韓国で2番目に大きな島である。古く古墳時代(韓国では三国時代)には倭系古墳が築かれ、近代には日本海軍の艦隊泊地が設けられて、現在も軍港浦(クナンポ)の地名が残るなど、時代を超えて日韓との結び付きの強い地域であった。

 この松真浦倭城には、海岸線に石垣石材を調達した際の残石と矢穴が残る事が、筆者らが1996年に行った調査により判明していた(拙稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会)。今回の踏査ではさらなる残石を確認しただけに留まらず、以前の調査で知られていなかった異なる種類の矢穴を確認することができた。以下にその概要を速報で紹介する。いずれ近いうちに紙の本でも発表する予定である。

松真浦倭城縄張図

 松真浦倭城は1593(文禄2)年に、福島正則、戸田勝隆、長曾我部元親らが築城して、守備も担当したとされる。城は長木(チャンモク)湾の湾口に面した、標高100mと80m(比高ほぼ同じ)のヒョウタン形の山に占地する。Ⅰ郭が主郭でⅢ郭が山麓居館であり、その間を2条の登り石垣で連結する。虎口Ⅾは間口幅が4間で石段が今も残り、倭城の中では最も間口の広い虎口である。この虎口を出た先は海であり、この城は海に大手を開いた縄張りであった。

写真2 矢穴2個のタイプ

 さて今回報告するのは、海岸線に残された残石と矢穴である。写真2は、1石に矢穴が2個穿たれた残石である。残石の中では最もオーソドックスなタイプで、長さ約2~3mの自然石の真ん中付近に矢穴を穿つことで、石を真っ二つに割って使用しようとしたものと推測される。矢穴の一つは長さ約7㎝✕幅約4㎝を測る。

写真3 矢穴3個のタイプ

 写真3は、1石に矢穴が3個穿たれたタイプである。破断面が見られることから、実際に城郭石垣として使用されたと推測される。矢穴の一つは幅約5.5㎝✕深さ約6.5㎝を測り、断面形は縦長の台形である。

写真4 矢穴が連続するタイプ

 写真4は、矢穴が端から端まで連続するタイプで、調査範囲内では雄一確認できた。ただし良く見ると、画面右手に3個の矢穴を穿ち、若干の間隔をおいて画面左手に5個の矢穴を穿つ。矢穴の一つは長さ約6.5㎝✕幅約3㎝を測る。

写真5 下書き線を残す矢穴

 写真5は、矢穴の下書き線を残すタイプである。画面右手に矢穴1個を穿ち、その左手横に3個分の下書き線だけを残し、矢穴を穿つのを中止している。矢穴は長さ約4㎝✕幅約3㎝を測る。また下書き線の一つは長さ約5㎝を測る。矢穴の下書き線は日本国内の城郭石垣や石切丁場でも時折見られるが、松真浦倭城では初めて確認された。

写真6 2面に矢穴を穿つタイプ

 写真6は、母岩の2面に矢穴を穿つタイプである。これまで見てきたものは、総て母岩の短辺を最短距離で矢穴を穿って割ろうとしたものであるが、これは2面に矢穴を穿っており、少なくとも2個の石材が取り出されたものと思われる。

写真7 松真浦倭城の矢穴

 写真7は、松真浦倭城の登り石垣部分に残る矢穴である。これまで海岸線で矢穴を確認していたものの、肝心の城郭での矢穴は未確認であった。そのため件の矢穴も、倭城段階以外の可能性を示唆する慎重意見も一部にあった。写真では少々分かりにくいが、築石の下部に3個の矢穴が並ぶ。矢穴の一つは幅約6㎝以上✕深さ約6㎝を測り、断面形は台形である。

写真8 残石と矢穴が残る海岸線

 今回の観察結果をまとめると、矢穴は長さ約2~3m程度の自然石に穿たれていた。矢穴は断面形が台形で、長さ、深さともに6~7㎝大の物が多かった。なお朝鮮半島特有の断面が三角形の矢穴は確認できなかった。これだけをもって即断はできないが、やはり日本人の石工が矢穴を穿った可能性が考えられる。露岩に穿たれた矢穴も存在しないか探してみたが、観察の範囲内では確認できなかった。

 今回の残石探しは2時間余りの短い時間であったが、もっと時間をかければさらに多くの矢穴が見るかる可能性を残していると言えよう。最後になったが、今回の矢穴探しと写真撮影補助は、倭城オフ会の参加者の協力をいただいた。文末ながら記して感謝申しあげる。

(文・図・写真:堀口健弐)

コラム4:釜山倭城をめぐる新出の古写真3題

 文禄の役(第一次朝鮮出兵)で築かれた釜山倭城(韓国釜山広域市)は、韓国第二の都市釜山の繁華街近くに位置することから、植民地時代に多くの測量図や地形図が作成された。今回紹介するのは、植民地時代と独立直後に釜山倭城を写した貴重な写真3枚である。釜山倭城を写した古写真はこれまであまり知られておらず、非常に貴重な資料と言える。

写真1 1900年代の釜山倭城(学習院大学東洋文化研究所より引用)

 まず紹介するのは、学習院大学東洋文化研究所が所蔵する1900年代に写された古写真である。この古写真の存在は植本夕里氏(城郭談話会・古代山城研究会)からの情報提供による。写真1は白黒写真で、「釜山鎮 清正の城址」と表題が付けられている。釜山倭城は朝鮮半島進出のための朝鮮側の橋頭保となった城で、毛利輝元・秀元が築城した。加藤清正は直接城造りには関わっていないが、当時は「加藤清正の虎退治」などの逸話が有名で、本来関係のなかった清正に関連付けられたのであろうか。

 さてこの古写真は1900年代に写されたとされる。この頃は日本が朝鮮半島を植民地化して間もない頃で、おそらく釜山倭城を写したものとしては最古である。手前に殿舎、後方に門楼を上げた城壁が見えるが、これは釜山鎮支城(釜山子城台倭城)であろう。釜山鎮支城は日本軍が撤退後に、釜山子城台倭城(釜山倭城の一城部別郭の出城)の縄張りを踏襲して朝鮮式城郭に改修して朝鮮時代末期まで使用された。釜山子城台倭城を写した古写真は何枚か伝わっているが、殿舎を含めてこれほど克明に写った写真も珍しい。

 そしてその背後の山に威風堂々と釜山倭城の石垣が聳え立つ。当時は山にほとんど木々が生えていないので、石垣や曲輪の姿まで克明に分かる。さらに特筆すべきは、山頂の石垣群から両翼を広げたように、尾根の稜線上に登り石垣と見られる物体が写し出されているのである。

 倭城と言えば長大な登り石垣が有名だが、現在の釜山倭城に登り石垣は見らない。では釜山倭城に登り石垣は存在しなかったのかと言うと、朝鮮時代末期の古地図『東莱釜山図屏風』(東亜大学校博物館蔵)には釜山倭城と釜山子城台倭城とを繋ぐ空堀状の物体が描かれている。また植民地時代に日本人が作図した何枚かの測量図や地形図にも登り石垣が描かれており(高田徹・堀口健弐2000「釜山倭城の縄張りについて」『倭城の研究』4、城郭談話会)、釜山倭城にも登り石垣が存在していた可能性が以前から指摘されてきた(佐伯正広1979「釜山城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。今回の古写真の知見は、写真に登り石垣と思われる物体が写っていることで、当城にも登り石垣がかつて存在していたことが決定的となった。

写真2 1950年代の釜山倭城(『HUFFPOST』2016.09.11より引用)

 次に紹介するのは、1950年代にオーストラリア系韓国人のメ・ヘラン(2009年没)、メ・ヘヨン(2005年没)姉妹が写したカラー写真である。この写真の存在も植本氏のご教示による。

 メ姉妹の両親はともにオーストラリア人で、父は宣教師、母は看護師で、1910年代に朝鮮に移住し、ハンセン病患者の病院「相愛円(サンエウォン)」を経営して朝鮮の医療活動に尽力した。両親は2女をもうけ、姉妹たちも両親の意思を継いで朝鮮戦争の傷が癒えない1950年代、釜山の佐川洞(チャチョンドン)に「日進(イルシン)基督病院」を経営して、戦後の復興に尽力した。姉妹は余生を故国オーストラリアで過ごし、2人とも既に天に召されている。

 この姉妹には写真の趣味があり、当時まだ珍しかったカラーフィルムを使用して、釜山の史跡、自然、繁華街の雑踏、それに自身が経営する病院など、実に様々な風景を写真に残している。その原版の数は9000枚にものぼり、現在は韓国の京畿(キョンギ)大学校博物館が所蔵する(「豪州の宣教師家族が記録した韓国」『KОREA.net』2016年9月13日配信)。このうちの極一部の写真がインターネットニュースサイト『HUFFPОST』で紹介された(『HUFFPОST日本版』2016年9月11日配信)。

 写真2はリバーサルフィルムで撮影されており、非常にコントラストの強い写真(写真用語で言うところの硬調の仕上がり)になっている。サイトでは「1956年、メ姉妹が設立した病院の初期の様子」と紹介されている。中央手前の3階建てに見える建物がその病院であろうか。そしてその背後に、釜山倭城の全容がはっきりと写し出されているのである。釜山倭城は現在では体育公園となり、遺構はそれなりに現存するものの、史跡整備に伴う公園化ではないので城跡感には乏しいものとなっている。現状は山の木々が成長したことに加え、周囲にマンションなどが建ち並び、今ではこの構図で釜山倭城を望むことができなくなった。姉妹たちは自身が経営する病院の裏山に累々と横たわる石垣が、400年前に築かれた日本人の遺跡であることを知っていたのであろうか。

 なおこれ以外にも、解像度が不鮮明で分かりにくいものの釜山倭城と思われる写真が1点あり、他にも復元前の金井山(クムジョンサン)城の城門の写真なども含まれるが、ここでは割愛する。いずれも今となっては貴重な写真である。

写真3 1950年代の釜山倭城か(写真展『佐川歴史物語』の展示品を筆者撮影)

 最後に紹介する写真3は、筆者が韓国旅行中に偶然に目にした写真である。2018年5月9日に釜山倭城を踏査すべく、最寄りの都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川」駅に降り立った。ちょうどその時、地下鉄の連絡通路を利用して写真展「佐川歴史物語」が開催されていた。

 韓国では地下街などを利用して、ミニ写真展、ミニ絵画展、ミニポエム展などの芸術作品の展示が頻繁に行われているが、そのうちの写真の1枚が筆者の目に飛び込んできた。その写真には何の解説もなかったが、筆者には直ぐに釜山倭城だと分かった。木造家屋や行き交う市民の姿が中心に写っており、手前の道路にはレールが見えるので路面電車の軌道であろうか。そしてその背後の山には釜山倭城がしっかりと写っているのである(※天井の照明が画面に写り込んでいる)。

 解説には「1950年代撮影」とだけあり、いつ誰が撮影したかなどの解説はなかったが、色調のコントラストが強い仕上がりなので、リバーサルフィルムで撮影された可能性が高い。また山に木々や高層建物がない点や、人々の服装、人家などの風俗が、メ姉妹が写した釜山の街並みと類似しているので、おそらく同時期に撮影されたのであろう。確証はないが、この写真もメ姉妹の撮影によるものではないだろうか。

 以上、1900年代と1950年代に撮影された、従来あまり知られていなかった釜山倭城の写真を3点紹介した。現在では失われた遺構や、景観が大きく変貌したものもあり、どれも釜山倭城の近代を知るうえで貴重な古写真と言える。

(文:堀口健弐)

コラム:馬出みたいなもの

 「馬出」と呼ばれる虎口は近畿地方には少ない。近畿地方で馬出を持つ中世・織豊期の城郭と言えば賤ヶ岳の合戦に関わる陣城群が思い浮かぶが、精々近江国止まりであり他地域ではほとんど聞かない。おそらく中国・四国・九州地方でも同様ではないだろうか。やはり馬出は、東海地方以東で用いられて発展した虎口形態なのだろう。では馬出に近い形をしたものは、近畿地方にも存在するのだろうか。本稿ではそんな事例の一端を紹介したい。

 まず紹介するのは、安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城と大野城である。ともに紀伊半島の南端に近い和歌山県西牟婁郡白浜町に所在する。室町時代に日置(ひき)川下流域を支配した安宅氏関連の城跡である。

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第1図 安宅八幡山城

 安宅八幡山城(第1図)は縄張り図で見るとさほど大きくなさそうな印象だが、実際に現地を訪れてみると切岸は高くて堀は深く、大変土木量の多い城郭である。Ⅰ郭とⅡ郭を挟み、堀を超えて土橋を渡った空間がⅢ郭になる。「コ」字形の土塁と堀に囲まれて一見すると馬出のようだが、良く見ると外部に出られる構造になっておらず、実際外周を巡る堀との落差も大きくて城外に出るのも困難である。

 Ⅰ・Ⅱ郭はともに削平が行き届き、このうちⅡ郭の北半部は2003年度に学術目的の発掘調査が行われた。建物跡は見つかっていないが、生活痕のある遺構や遺物が出土している。これに対してⅢ郭内部はほとんど削平がされておらず、自然地形のままに近くて本格的な建物も建てられないであろう。Ⅰ・Ⅱ郭が生活の場であるのに対し、Ⅲ郭は生活空間とは考えにくく、言い換えると戦闘に特化した空間ではなかったのか。この土塁には若干の折れがあって堀底に横矢が掛かるが、細かな横矢がどうのこうのよりも、この曲輪の存在自体が生活空間から一歩張り出すことによって、強力な射撃陣地として機能したのではないかと推測される。

 なおⅡ郭の発掘調査では焼土層が確認され、焼土層より上では遺物の出土がほとんど見られなかったことから、火災に遭った後は城は再興されなかったとみられる(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。焼土層にパックされた状態で出土した備前焼甕の年代観は、16世紀初頭である(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流ー備前焼を中心にしてー」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)。備前焼のような硬質の焼き物は割れにくく、生産されてから廃棄されるまでの時間差を差し引いたとしても、城の存続時期は16世紀前半までに収まりそうな気配である。

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第2図 大野城

 大野城(第2図)は、日置川を挟んで安宅八幡山城をとは目と鼻の先である。この城は本当に小規模だが、縄張り面で安宅八幡山城との共通項が見て取れる。Ⅰ郭が主郭で、堀を挟んで低い土橋と繋がり、その対岸にⅡ郭がある。この曲輪は「L」字形をした土塁と堀に囲まれて馬出のように見えるが、ここも外部へ出られる構造になっていない。西側に防御施設が見られないのは、元々自然地形の急斜面だからである。安宅八幡山城と同様に、主郭を守るために敵正面に突出した堡塁的な曲輪だったとも考えられる。

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第3図 但馬竹田城

 次に紹介するのは、打って変わって織豊系城郭2例である。まずは“天空の城”としてすっかり有名になった但馬竹田城(兵庫県朝来市)である(第3図)。現在の縄張りは文禄・慶長初期頃に、赤松広秀が豊臣政権のテコ入れで築かれた時の姿と考えられている(城郭談話会1991『但馬竹田城』)。

 谷本進氏は竹田城の縄張りのうち、Ⅱ郭(北千畳)、Ⅲ郭(南千畳)、Ⅳ郭(花屋敷)をそれぞれ「馬出形態の曲輪」と評価した。谷本氏は千田嘉博氏の織豊系虎口編年を肯定的に継承して、新たに山城における馬出形態の曲輪を「ⅤA3類型」として追加設定した。千田氏は、平城では馬出が巨大化して一般曲輪化する旨を説いたが(千田嘉博1987「織豊系城郭の構造ー虎口プランによる縄張り編年の試みー」『史林』70‐2、史学研究会)、谷本氏は山城でも同様の発展を遂げるとし、織豊系城郭における山城の発達の最終形態とした。具体的に言うとⅡ・Ⅲ・Ⅳ郭は、いずれも上位の曲輪に対して下位の曲輪が「コ」字形に石垣または石塁を築き、左右に虎口を開口して馬出と同様の形状を呈する点を指摘した(谷本進1991「竹田城の構造形式について」『但馬竹田城』城郭談話会)。

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第4図 西生浦倭城

 最後に紹介するのは近畿地方の事例ではないが、ほぼ同時期に築かれ韓国に今も残る西生浦倭城(大韓民国蔚山広域市蔚州郡)である(第3図)。この城は加藤清正が1592(文禄2)年に築城し、登り石垣が壮大なことで知られているが、今回注目してもらいたいのはⅠ郭(主郭)の背後(西側)にある曲輪である。主郭虎口の前面に石塁囲みの「コ」字形の曲輪を設け、やはり左右に虎口を開口する。戦後日本で初めて本格的な倭城調査を行った倭城址研究会によると、これを「馬出曲輪」と評価している(八巻孝夫1979「西生浦城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。

 近畿地方では典型的な馬出は少ない。しかし馬出に似た形のもの、あるいは馬出と同等の機能を発揮しそうなものがいくつかあることを紹介した。馬出の定義自体も研究者によって微妙に異なっているが、馬出の機能を再考するうえでの一助になれば幸いである。

 ※本稿は2021年2月20日に行われたオンライン会『城飲み諸説あり!』でプレゼンテーションを予定していながら、機械的トラブルにより叶わなかったため、当ブログにおいて文章化したものである。

(文・図:堀口健弐)

コラム2:海を渡った城郭瓦~東莱倭城と蔚山兵営城~

 中国・元の時代に考案された軒瓦に「滴水瓦」がある。屋根に残った雨水が凍てついて瓦が割れてしまうのを防ぐため、水切りをよくするために軒瓦の先端を尖らせた独特な形状をしている。そのうち軒平瓦は、正面から見ると立面形が木の葉状を呈している。韓国もまた冬の厳しい国なので、滴水瓦は高麗時代末期から朝鮮時代初頭頃に朝鮮半島へと伝わった。

 日本へは文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)から帰国した大名らが軒瓦を直接持ち帰ったり、また朝鮮人の瓦工人を日本に連れてきて同じ形の物を焼かせたことに始まる。同戦役では西国から出兵した大名が多かったことから、滴水瓦も西日本の近世城郭で多く採用されている。それらは姫路城(兵庫県姫路市)や熊本城(熊本市)など日本を代表する城郭建築に葺かれ、発掘調査で出土した物は枚挙にいとまがない。

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写真1 前期東莱邑城

 文禄の役(第一次朝鮮出兵)は、日本軍の釜山上陸とともに闘いの火蓋が切って落とされた。1591(文禄元)年の東莱(トンネ)の戦いでは、小西行長が東莱邑城(15世紀に築かれた前期東莱邑城:大韓民国釜山広域市)を攻略した。現在同城は地表面に一切遺構を残さないが、2000年代に入って行われた地下鉄4号線建設に伴う事前の発掘調査で、石垣・堀や日韓双方の武器類・刀傷の残る人骨などが多量に出土した。現在それらは地下鉄寿安(スナン)駅構内の東莱邑城壬辰倭乱歴史館にて、出土時の模様が再現されている(写真1)。

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第1図 東莱倭城縄張図

 東莱邑城攻略後の1592(文禄2)年、すぐ隣の標高105m(比高75m)の望月山に吉川広家が東莱倭城(釜山広域市)を築いた(第1図)。図中を東西に横断する城壁は、18世紀に入って城域を拡大して再建された後期東莱邑城の遺構である。現在Ⅰ郭(主郭)には、邑城時代の物見櫓「東将台」が復元されている。詳しい出土状況は情報不足のために分からないが、建設時に軒平瓦(滴水瓦)が出土し(写真2)、現在は釜山博物館で保管されている(羅東旭2015「朝鮮時代釜山地域城郭出土葺瓦」『釜山葺瓦』釜山博物館)。

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写真2 東莱倭城出土の軒平瓦(釜山博物館サイトより引用)

 高正龍・立命館大学教授(考古学)の研究によると、この軒平瓦は小西の居城である麦島城(熊本県八代市)で出土した軒平瓦と同范瓦(同じ范木で作られた軒平瓦)であることが確認された(高正龍2007「豊臣秀吉の朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播」『渡来遺物からみた古代日韓交流の考古学的研究』科研報告)。

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第2図 蔚山兵営城縄張図

 次に紹介するのは蔚山(ウルサン)兵営城(蔚山広域市)である(第2図)。「兵営城」とはいわば朝鮮王朝の陸軍基地のことで、1417(太宗17)年に築かれた(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査ー最近調査された邑城と鎮城を中心にー」『韓国の倭城と大坂城』倭・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。同城は文禄元年に加藤清正によって攻められて落城した。城壁の南半部は市街地化により消滅したが、北半部については近年発掘調査に基づき石垣の積み直しなどの史跡整備が進行中である。

 城内に所在する、その名も兵営初等学校建設に先立つ事前の発掘調査で軒丸瓦が出土したが(写真3)、この瓦は同じく高教授の研究によると、清正の支城である佐敷城(熊本県芦北町)で出土した軒丸瓦と同范瓦であった(高正龍2015「蔚山慶尚左兵営城と熊本佐敷城の同范瓦ー豊臣秀吉の朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播(2)ー」『東アジア瓦研究』4、東アジア瓦研究)。

 また同范瓦ではないが、よく似た文様構成の軒平瓦が清正の本城である熊本城でも使用されている(大脇潔2012「周防・長門甍紀行ー吉川広家・大内義弘と山本勉弥ー」『民俗文化』24、近畿大学民俗学研究所)。

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写真3 蔚山兵営城出土の軒丸瓦(植本夕里氏撮影)

 日本軍は朝鮮半島からの帰国時に、船で瓦を運搬したことが知られているが(黒田慶一2013「秀吉軍の日本搬入の朝鮮瓦についてー東莱倭城との関係からー」『城館史料学』8、城館史料学会)、当時の日本人が見慣れない木の葉状の軒瓦が珍しくて、戦利品として持ち帰り自らの居城に葺いたのであろう。海を越えた日韓の城郭瓦の、点と点を結ぶ貴重な歴史資料と言えるだろう。

 ※本稿は2021年1月23日に行われたオンライン会『城飲み諸説あり!』において、「海を渡った城郭瓦」と題したプレゼンテーションを文章化したものである。なお掲載写真の一部は、植本夕里氏が撮影されたものを使用させていただいた。記して感謝申し上げる。

(文・図・写真:堀口健弐)