コラム:馬出みたいなもの

 「馬出」と呼ばれる虎口は近畿地方には少ない。近畿地方で馬出を持つ中世・織豊期の城郭と言えば賤ヶ岳の合戦に関わる陣城群が思い浮かぶが、精々近江国止まりであり他地域ではほとんど聞かない。おそらく中国・四国・九州地方でも同様ではないだろうか。やはり馬出は、東海地方以東で用いられて発展した虎口形態なのだろう。では馬出に近い形をしたものは、近畿地方にも存在するのだろうか。本稿ではそんな事例の一端を紹介したい。

 まず紹介するのは、安宅八幡山(あたぎはちまんやま)城と大野城である。ともに紀伊半島の南端に近い和歌山県西牟婁郡白浜町に所在する。室町時代に日置(ひき)川下流域を支配した安宅氏関連の城跡である。

f:id:horiguchikenji0726:20210222010853j:plain

第1図 安宅八幡山城

 安宅八幡山城(第1図)は縄張り図で見るとさほど大きくなさそうな印象だが、実際に現地を訪れてみると切岸は高くて堀は深く、大変土木量の多い城郭である。Ⅰ郭とⅡ郭を挟み、堀を超えて土橋を渡った空間がⅢ郭になる。「コ」字形の土塁と堀に囲まれて一見すると馬出のようだが、良く見ると外部に出られる構造になっておらず、実際外周を巡る堀との落差も大きくて城外に出るのも困難である。

 Ⅰ・Ⅱ郭はともに削平が行き届き、このうちⅡ郭の北半部は2003年度に学術目的の発掘調査が行われた。建物跡は見つかっていないが、生活痕のある遺構や遺物が出土している。これに対してⅢ郭内部はほとんど削平がされておらず、自然地形のままに近くて本格的な建物も建てられないであろう。Ⅰ・Ⅱ郭が生活の場であるのに対し、Ⅲ郭は生活空間とは考えにくく、言い換えると戦闘に特化した空間ではなかったのか。この土塁には若干の折れがあって堀底に横矢が掛かるが、細かな横矢がどうのこうのよりも、この曲輪の存在自体が生活空間から一歩張り出すことによって、強力な射撃陣地として機能したのではないかと推測される。

 なおⅡ郭の発掘調査では焼土層が確認され、焼土層より上では遺物の出土がほとんど見られなかったことから、火災に遭った後は城は再興されなかったとみられる(日置川町教育委員会2004『八幡山城跡』)。焼土層にパックされた状態で出土した備前焼甕の年代観は、16世紀初頭である(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流ー備前焼を中心にしてー」『日本考古学協会2004年度大会研究資料』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)。備前焼のような硬質の焼き物は割れにくく、生産されてから廃棄されるまでの時間差を差し引いたとしても、城の存続時期は16世紀前半までに収まりそうな気配である。

f:id:horiguchikenji0726:20210222010949j:plain

第2図 大野城

 大野城(第2図)は、日置川を挟んで安宅八幡山城をとは目と鼻の先である。この城は本当に小規模だが、縄張り面で安宅八幡山城との共通項が見て取れる。Ⅰ郭が主郭で、堀を挟んで低い土橋と繋がり、その対岸にⅡ郭がある。この曲輪は「L」字形をした土塁と堀に囲まれて馬出のように見えるが、ここも外部へ出られる構造になっていない。西側に防御施設が見られないのは、元々自然地形の急斜面だからである。安宅八幡山城と同様に、主郭を守るために敵正面に突出した堡塁的な曲輪だったとも考えられる。

f:id:horiguchikenji0726:20210222011050j:plain

第3図 但馬竹田城

 次に紹介するのは、打って変わって織豊系城郭2例である。まずは“天空の城”としてすっかり有名になった但馬竹田城(兵庫県朝来市)である(第3図)。現在の縄張りは文禄・慶長初期頃に、赤松広秀が豊臣政権のテコ入れで築かれた時の姿と考えられている(城郭談話会1991『但馬竹田城』)。

 谷本進氏は竹田城の縄張りのうち、Ⅱ郭(北千畳)、Ⅲ郭(南千畳)、Ⅳ郭(花屋敷)をそれぞれ「馬出形態の曲輪」と評価した。谷本氏は千田嘉博氏の織豊系虎口編年を肯定的に継承して、新たに山城における馬出形態の曲輪を「ⅤA3類型」として追加設定した。千田氏は、平城では馬出が巨大化して一般曲輪化する旨を説いたが(千田嘉博1987「織豊系城郭の構造ー虎口プランによる縄張り編年の試みー」『史林』70‐2、史学研究会)、谷本氏は山城でも同様の発展を遂げるとし、織豊系城郭における山城の発達の最終形態とした。具体的に言うとⅡ・Ⅲ・Ⅳ郭は、いずれも上位の曲輪に対して下位の曲輪が「コ」字形に石垣または石塁を築き、左右に虎口を開口して馬出と同様の形状を呈する点を指摘した(谷本進1991「竹田城の構造形式について」『但馬竹田城』城郭談話会)。

f:id:horiguchikenji0726:20210222011137j:plain

第4図 西生浦倭城

 最後に紹介するのは近畿地方の事例ではないが、ほぼ同時期に築かれ韓国に今も残る西生浦倭城(大韓民国蔚山広域市蔚州郡)である(第3図)。この城は加藤清正が1592(文禄2)年に築城し、登り石垣が壮大なことで知られているが、今回注目してもらいたいのはⅠ郭(主郭)の背後(西側)にある曲輪である。主郭虎口の前面に石塁囲みの「コ」字形の曲輪を設け、やはり左右に虎口を開口する。戦後日本で初めて本格的な倭城調査を行った倭城址研究会によると、これを「馬出曲輪」と評価している(八巻孝夫1979「西生浦城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。

 近畿地方では典型的な馬出は少ない。しかし馬出に似た形のもの、あるいは馬出と同等の機能を発揮しそうなものがいくつかあることを紹介した。馬出の定義自体も研究者によって微妙に異なっているが、馬出の機能を再考するうえでの一助になれば幸いである。

 ※本稿は2021年2月20日に行われたオンライン会『城飲み諸説あり!』でプレゼンテーションを予定していながら、機械的トラブルにより叶わなかったため、当ブログにおいて文章化したものである。

(文・図:堀口健弐)