№18:機張倭城(大韓民国釜山広域市機張郡)

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機張倭城縄張図
 
 機張(キジャン)倭城は、釜山市の郊外に位置して日本海を望む、釜山広域市機張郡機張邑竹城里(チュクソンニ)に所在する。機張と言えば、近時では日本の観光ガイドブックでも「キジャンの水産市場」として紹介されていて、カニ料理がたいそう名物なのだそうだ。この機張倭城は、現地では竹城里倭城と呼ばれ、釜山広域市記念物第48号に指定されている。
 
 同城の初訪城は1990年5月、筆者が所属する城郭談話会での最初の倭城ツアーのことである。筆者は倭城どころか海外旅行自体が初経験であったが、その時の感想は初めて来た異国の地なのに、何故か懐かしさを感じさせる風景であった。
 
 筆者は南紀で生まれ育ったが、実家かからは直接海を望めないものの、通っていた小学校も中学校も浜辺に面して建っていたので、ほとんど毎日のように海を見て育った。竹城里の集落は背後に山が迫って眼前に大海が開け、そこに初等学校(日本の小学校に相当)の校舎が建つさまが、郷里の風景とどことなく似通っていて、南紀に帰ってきたような錯覚を覚えたのであった。
 
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写真1:機張倭城遠景
 
 さて機張倭城は1592(文禄2)年に、NHK大河ドラマの主人公にもなった“軍師”黒田官兵衛(長政)が普請と在番を担当して、慶長の役では加藤清正が在番を担当した。
 
 城跡は標高65m(比高ほぼ同じ)と、その北隣の標高40m(比高ほぼ同じ)の低位丘陵にまたがって占地する(写真1)。北側を流れる清江(チョンガン)川が竹城湾に注ぎ、これが天然の外堀の役目を担っている。縄張りの概要は,主郭のある丘の西麓からAの西麓とⅢとを結ぶラインにより、陸側と完全に遮断する意図が見て取れる。
 
 Ⅰ郭が主郭である。南西隅に付櫓を持つ複合式天守台を設け、東南隅と北西隅にも櫓台を設ける。

 この北西隅の櫓台下で、朝鮮半島様式の滴水瓦(軒平瓦)が見つかっている(拙稿2010「倭城の縄張りについて(その4)」『愛城研報告』14、愛知中世城郭研究会)。おそらく隅櫓などの重要な建物に葺かれていたのであろう(写真2)。
 
 この滴水瓦と文様構成がよく似た軒瓦が、ここから北へ15㎞ほど離れた長安(チャンアン)寺(釜山広域市機張郡)でも出土している(釜山博物館2015『釜山葺瓦』)。同寺は開戦当初の1592年に戦火で消失したが(現在の伽藍は17世紀の再建)、この寺から瓦が転用された可能性がある。

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写真2:軒平瓦(滴水瓦)
 
 主郭西面には、石垣を積み足した痕跡が認められる(写真3)。これを多門櫓を増設したためとする見解もあるが(中西義昌1999「倭城の石垣遺構から何を読むか」『倭城―城郭遺跡が語る朝鮮出兵の実像―』倭城研究シンポジウム実行委員会)、増設石垣の天端が曲輪上面に達していないところを見ると、おそらく石垣の孕みを防止するための抑えとして積まれたのではないだろうか。同様の石垣は、日本国内の黒井城(兵庫県氷上市)や高取城(奈良県高市郡高取町)でも見ることができる。
 
 また北と東南に虎口を開口するが、このうち北の虎口は整った内枡形虎口となる。主郭より下位にも石垣造りの曲輪を段々に配し、その周囲にも素掘りの横堀を巡らしているが、日本国内ではほとんど見られない構造で、これも倭城ならではの手法と言える。
 
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写真3:主郭の増設石垣
 
 北隣の丘には一城別郭の曲輪群を置く。石垣が「W」形になったAは、天守に準ずる櫓台である。道路で分断されたⅢと併せて、清江川で区画された空間を、一般兵士の駐屯地や物資の集積場に充てたのであろう。
 
 Aから東西に延びる石塁ラインを見ると、南側の石塁に並走して横堀が掘られている。つまり北側が内で南側が外の関係となり、主郭のある丘と対峙する位置関係にあることは注目すべきである。現在、Aから東に続く石塁ラインの一部が、近年、韓国で著名な陶芸家ソン・ジュンハン氏の工房が開設により破壊されたが、そのうちの東半分とⅡ郭にかけては、豆毛浦(トゥモポ)鎮城の遺構と重複している(写真4)。
 
 「鎮城」とは、戦闘員のみが駐留した朝鮮水軍の城郭である。豆毛浦鎮城は高麗時代にまず土城として築かれ、1510(中宗5)年に石築に改修されたとされる(羅東旭・李ユジン2008『機張豆毛浦鎮城・竹城里倭城―シオン~竹城間道路工事区間内発掘調査報告―』福泉博物館)。この一角の石垣については、早くから日本式の石垣とは異なることが指摘されていた(池田光雄1979「機張城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。
 
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写真4:豆毛浦鎮城の石垣
 
 これは朝鮮王朝の鎮城を、倭城の外郭線に取り込んだ結果である。石垣はあご止め石を水平に置き、そこから少し後退させた位置から石材をほぼ垂直に積み上げる、朝鮮半島特有の石垣である(北垣聰一郎1997「平面プランからみた機張倭城とその石積技術」『倭城の研究』1、城郭談話会)。これは倭城築城に当って、敵対する朝鮮水軍に港を使わせない予防攻撃の意図があったのであろう(拙稿2007「海城としての倭城」『海城について』第24回全国城郭研究者セミナー実行委員会)。
 
 Ⅲ郭は現在、法人経営の農場となっていて立ち入りが出来ないが、自然の細長い丘陵を土塁状に加工し、清江川の畔まで続いていて外郭線を形成している。このうち西側は帯曲輪となり、部分的に横堀状となる。北端の一部には高石垣も築かれるが、ブッシュに覆われて観察が困難となっている。
 
 機張倭城は、見応えのある縄張りに加えて遺構の保存状態も大変良い。近年、釜山市当局も説明版や遊歩道の設置など、程よい史跡整備を行っている。市街地からは少々離れるが、是非とも一度は訪れる価値のある城跡である。
(文・図・写真:堀口健弐)