№33:南海倭城(大韓民国慶尚南道南海郡)

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南海倭城縄張り図

 南海(ナメ)倭城は、大韓民国慶尚(キョンサン)南道南海(ナメ)郡南海邑船所里(ソンソリ)に所在し、釜山から見ると、順天(スンチョン)倭城に次いで2番目に遠い所に位置する倭城である。しかし釜山市内の西部バスターミナル(別名:沙上バスターミナル)から「南海」行きの長距離バスに乗車して終点で下車し、そこから徒歩約20分で到着すので
で、倭城の中では遠方にありながらも比較的訪城しやすいと言える。
 
 同倭城は、これまで計11回の訪城経験がある。1999年11月5・6日には、筆者が所属するお城の研究会で、今はもう無くなったが当時は終点のバスターミナルビルの上階にモーテルがあり、ここを拠点にして2日がかりで同城を徹底調査した。その成果は書籍で既刊である(城郭談話会2000『倭城の研究』4)。
 
 2013年11月15日には、“倭城ナビゲーター”の植本夕里氏を同城に案内した。南海に向かう途中のバス車内で、隣の席に座っていたアジュンマ(おばちゃん)が「飴ちゃんあげる」とばかりに飴玉を周りの人に配り始めて、私も一つ頂いてご賞味に預かった。釜山の風景はどことなく大阪を彷彿させるものがあるが、人々の気質も似ているということだろうか。
 
 そして今年5月11日、韓国の大学に留学中の学生君と合流して同城を踏査した。訪韓直前の口コミやインターネット情報によると、近時、天守台上の樹木と雑草が切り払われて、非常に見学しやすくなっているとのことであった。この天守台は、以前はド藪を通り越してまるでジャングルのような有様で、藪漕ぎに慣れた者ですら分け入ることができないほどの酷い状態であった。整備の主目的は三角点の設置のようであったが、地元の人々も当地が倭城跡であることを再認識したようだ。

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写真1 天守

 さて南海倭城は、南海島の東岸に位置し、眼前は昌善(チャンソン)島とに挟まれたカンジン湾に望む。入り組んだ入り江はいつも波穏やかで、確かに天然の良港である。城跡は標高40m(比高同じ)と標高20m(比高同じ)の、二つの低位丘陵に跨って占地する。丘の南側は、干拓事業中により現在は湿地状だが、往時は入り江が入り込んでカンジン湾に突き出た岬状の地形であった。
 
 同城は1597(慶長2)年、宗義智が築城を担当し、水軍諸将が守備を担当した。
 
 道路を挟んで北側の高い丘が母城で、南側の低い丘が子城である。総石垣造りだが、天守台を除くと石垣の高さは3~4m程度とそれほど高くない。Ⅰ郭が最高所で主郭である。現在は畑に利用されおり、地表面には白磁椀などの朝鮮陶磁器片の散布が多く見られる。

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写真2 軒平瓦(滴水瓦)と軒丸瓦

 西隅に付け櫓台を持つ複合式天守台Aを設ける。天守台周辺には以前から瓦片の散布が認められたが、樹木の伐採により多くの瓦片が存在することが改めて確認できた。おそらく天守などの中心的な建物に、瓦屋根が葺かれていたのであろう。これまでに同城で朝鮮半島様式の軒平瓦(滴水瓦)が発見されていたが(羅2000「南海倭城の滴水瓦」『倭城の研究』4、城郭談話会)、今回新たに軒平瓦と蓮弁紋の軒丸瓦も見られた。
 
 明国の従軍画家が慶長の役を描いた『征倭紀功図巻』によると、2層大入母屋屋根の上に高欄を巡らした小さな望楼を載せ、壁は下見板張りで、“犬山城”似の3層望楼型天守を描いている。日本文化を知らない明の画家が描いたのにもかかわらず、当時の天守の様子を具体的に写実的に描いており、史料として信憑性が高いと思われる。
 
 虎口BはⅠ郭へ至る枡形虎口となるが、主郭への導線が分かりにくい。なお北斜面には6条の“畝状竪堀群”状の微地形が見られ、これを竪堀群とする見方もある。ただし筆者の印象では、竪堀群にしては幅が広すぎる気もするので自然の谷地形のような気もするが、この辺は意見の分かれるところかもしれない。

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写真3 Ⅱ郭の石垣

 一方道路を挟んで南側にも出曲輪群が存在する。Ⅱ郭は丘の先端部に位置し、東・南・西の三方に石垣を積み、そのつち南・西は崩れて低くなっているが石塁状になる。この曲輪にも瓦片の散布が見られる。
 
 Ⅲ周辺は最高所であるが、一部に低い石垣の残欠が認められるものの、現状は畑に利用されており、中には自然地形に近い箇所もあり、どこまでが城の遺構か判断に苦しむ。
 
 丘麓の北西には、かつての外郭線の土塁の残欠C・Dが2か所に残る。幸か不幸か道路に削られたたmに土層断面が観察できるが、下1/3までが地山とほぼ同じ灰白色砂層で、その上2/3は拳大の礫を混ぜた褐色土層で、これが人工的な土盛りであることが分かる。おそらく往時は丘麓を囲郭していたのであろう。
 
 南海倭城は史跡には指定されていないが、近時、登り口に日本人研修者作図の縄張り図入り説明板が設置され、今まで存在を知らなかった地元住民にも認知されるようになった。これを機に、少しでも良好な状態で保存されていくことを切に願うものせである。
(文・図・写真:堀口健弐)