コラム5:松真浦倭城の残石と矢穴

写真1 松真浦倭城遠景

 今春(2024年)の大型連休を利用して、コロナ禍で中断していた倭城踏査を実に5年ぶりに再開した。旅の前半は個人の調査旅行に当て、後半は日本のお城好きたちを案内する恰好で、5月2日~5日にかけて倭城オフ会を開催した。このうち5月4日に松真浦(ソンジンポ)倭城(韓国慶尚南道巨済市)を踏査した。同城は当初の予定にはなかったが、参加者で話し合って急遽変更したが、これが結果的に大当たりだった。

 松真浦倭城が所在する巨済(コジェ)島は釜山市の西隣に位置し、韓国で2番目に大きな島である。古く古墳時代(韓国では三国時代)には倭系古墳が築かれ、近代には日本海軍の艦隊泊地が設けられて、現在も軍港浦(クナンポ)の地名が残るなど、時代を超えて日韓との結び付きの強い地域であった。

 この松真浦倭城には、海岸線に石垣石材を調達した際の残石と矢穴が残る事が、筆者らが1996年に行った調査により判明していた(拙稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会)。今回の踏査ではさらなる残石を確認しただけに留まらず、以前の調査で知られていなかった異なる種類の矢穴を確認することができた。以下にその概要を速報で紹介する。いずれ近いうちに紙の本でも発表する予定である。

松真浦倭城縄張図

 松真浦倭城は1593(文禄2)年に、福島正則、戸田勝隆、長曾我部元親らが築城して、守備も担当したとされる。城は長木(チャンモク)湾の湾口に面した、標高100mと80m(比高ほぼ同じ)のヒョウタン形の山に占地する。Ⅰ郭が主郭でⅢ郭が山麓居館であり、その間を2条の登り石垣で連結する。虎口Ⅾは間口幅が4間で石段が今も残り、倭城の中では最も間口の広い虎口である。この虎口を出た先は海であり、この城は海に大手を開いた縄張りであった。

写真2 矢穴2個のタイプ

 さて今回報告するのは、海岸線に残された残石と矢穴である。写真2は、1石に矢穴が2個穿たれた残石である。残石の中では最もオーソドックスなタイプで、長さ約2~3mの自然石の真ん中付近に矢穴を穿つことで、石を真っ二つに割って使用しようとしたものと推測される。矢穴の一つは長さ約7㎝✕幅約4㎝を測る。

写真3 矢穴3個のタイプ

 写真3は、1石に矢穴が3個穿たれたタイプである。破断面が見られることから、実際に城郭石垣として使用されたと推測される。矢穴の一つは幅約5.5㎝✕深さ約6.5㎝を測り、断面形は縦長の台形である。

写真4 矢穴が連続するタイプ

 写真4は、矢穴が端から端まで連続するタイプで、調査範囲内では雄一確認できた。ただし良く見ると、画面右手に3個の矢穴を穿ち、若干の間隔をおいて画面左手に5個の矢穴を穿つ。矢穴の一つは長さ約6.5㎝✕幅約3㎝を測る。

写真5 下書き線を残す矢穴

 写真5は、矢穴の下書き線を残すタイプである。画面右手に矢穴1個を穿ち、その左手横に3個分の下書き線だけを残し、矢穴を穿つのを中止している。矢穴は長さ約4㎝✕幅約3㎝を測る。また下書き線の一つは長さ約5㎝を測る。矢穴の下書き線は日本国内の城郭石垣や石切丁場でも時折見られるが、松真浦倭城では初めて確認された。

写真6 2面に矢穴を穿つタイプ

 写真6は、母岩の2面に矢穴を穿つタイプである。これまで見てきたものは、総て母岩の短辺を最短距離で矢穴を穿って割ろうとしたものであるが、これは2面に矢穴を穿っており、少なくとも2個の石材が取り出されたものと思われる。

写真7 松真浦倭城の矢穴

 写真7は、松真浦倭城の登り石垣部分に残る矢穴である。これまで海岸線で矢穴を確認していたものの、肝心の城郭での矢穴は未確認であった。そのため件の矢穴も、倭城段階以外の可能性を示唆する慎重意見も一部にあった。写真では少々分かりにくいが、築石の下部に3個の矢穴が並ぶ。矢穴の一つは幅約6㎝以上✕深さ約6㎝を測り、断面形は台形である。

写真8 残石と矢穴が残る海岸線

 今回の観察結果をまとめると、矢穴は長さ約2~3m程度の自然石に穿たれていた。矢穴は断面形が台形で、長さ、深さともに6~7㎝大の物が多かった。なお朝鮮半島特有の断面が三角形の矢穴は確認できなかった。これだけをもって即断はできないが、やはり日本人の石工が矢穴を穿った可能性が考えられる。露岩に穿たれた矢穴も存在しないか探してみたが、観察の範囲内では確認できなかった。

 今回の残石探しは2時間余りの短い時間であったが、もっと時間をかければさらに多くの矢穴が見るかる可能性を残していると言えよう。最後になったが、今回の矢穴探しと写真撮影補助は、倭城オフ会の参加者の協力をいただいた。文末ながら記して感謝申しあげる。

(文・図・写真:堀口健弐)