№22:釜山倭城(大韓民国釜山広域市)

イメージ 3
釜山倭城縄張図
 
  釜山倭城は、大韓民国釜山広域市東区佐川洞に所在する。同城は港町釜山の市街地に位置し、都市鉄道1号線「佐川(チャチョン)」駅から徒歩で訪城可能な“駅前倭城”である。
 
 釜山倭城を最初に訪城したのは、1996年12月23日である。この時は朝鮮考古学通のKさんと、筆者の大学時代の後輩でもある城友のY君との、3名での訪城であった。当日は午前中に釜山倭城を見学し、午後から一城別郭の釜山子城台倭城を踏査する予定であった。しかし筆者は以前に子城台を踏査しているので、午後からは単独行動となった。
 
 Y君とは、当日内に帰国の途に就くためにここで分かれて、Kさんと夕刻に釜山駅前で落ち合おうことにし、丸1日かけて同城の縄張り図作成を行った。帰路は単独で徒歩と地下鉄の乗り継いで集合場所へ。地下鉄の切符の買い方や乗り方はKさんから既に教わっており、乗り換えの必要もないので迷うことはないはずなのだが、当時はハングル文字が全く読めず、片言のトラベル会話すらできなかったので、実に冷や汗ものであったが、何とか無事に落ち合うことができた。
 
 しかし毎度記していることだが、筆者は人よりも縄張り図を描くのが遅く、丸1日かけて漸く半分のできといったところ。そこで1997年10月27日に再度訪城して、縄張り図をほぼ描きあげた。それからは石垣調査や、筆者が幹事を務めた倭城踏査会などを含めて、合計7回は訪城した計算になる。
 
イメージ 1
写真1:釜山倭城遠望(子城台倭城から)
 
 さて釜山倭城は、1592(文禄元)年に毛利輝元・秀元によって築かれた。韓国側では小西行長の城として誤伝され、そのため別名を「小西城」とも呼ばれている。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では、朝鮮半島側の日本軍の本営として司令塔的な役割を果たした。
 
 なお前述のとおり、当城より当方900mの独立丘陵に、一城別郭となる釜山子城台倭城を築いており、これと区別する意味で韓国側では「釜山母城」とも呼ばれている。
 
 当城は、標高315mの水晶山から派生した標高125m(比高ほぼ同じ)の小ピーク上に占地し、尾根上から東斜面にかけて遺構が存在する(写真1)。城跡は数奇な運命を辿り、朝鮮戦争時は高射砲陣地が置かれ、戦後は動物園となり(司馬遼太郎2008『街道をゆく~韓のくに紀行』2、朝日新聞出版)、現在は市民公園「甑山(チュンサン)公園」として整備された。
 
 現在、城跡内の一部には、幼稚園のほか古アパートが建ち並ぶ。石垣遺構は概ね良く残されているが、公園化に伴う改変などで城跡感には乏しいものとなっている。また石垣の直間近まで民家が押し寄せている。当城は史跡には指定されていないが、近年、城跡を示す説明版が立てられた。
 
イメージ 4
写真2:主郭の枡形虎口跡(右手が現存石垣)
 
 Ⅰ郭が主郭である。Aは天守台跡で、現在は公園化に伴い曲輪面と同じ高さに削平されているが、倭城址研究会が1976年に撮影した写真によると、その当時まで天守台が一段高く築かれていたことが分かる(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)。
 
 天守台は、城外側(山側)に向くように築かれている。もし天守が城下側への眺望を意識したのであれば、ここには築かないはずである。これに示唆的なのが、近年、Ⅰ郭の東南隅に展望台が建設された。もし天守が城下側へ“見せる”ことを意識したのであれば、当然ここに築くべきであるが、実際はそうなっていない点に倭城における天守の機能がが見て取れる。
 
 Bも公園化によって改変を受けているが、ここも同様に1976年当時まで内枡形虎口になっていた(前掲倭城址研究会1979)。現在でも開口部を現在の石積で閉塞した痕跡を確認できる(写真2)。
 
 Ⅰ郭の西面石垣には、矢穴が5個穿たれた築石(つきいし)が残る。倭城は順天倭城(全羅南道順天市)を除くと、矢穴の使用例が極めて少ないが、同城では部分的ながら矢穴の使用が認められる(拙稿2005「倭城の石垣―採石遺構とその技術を中心に―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
イメージ 5
写真3:Ⅱ郭の虎口跡と櫓台(右手が現存石垣)
 
 Ⅱ郭のCもまた公園化に伴い閉塞されているが、落とし積みの石積で閉塞さた虎口跡が認められ、その片側、進入方向向かって左手に櫓台が突出して横矢が掛かる(写真3)。
 
 Ⅲ郭は、初訪城時は駐車場に利用され、曲輪の先端部の石垣を確認できたが、現在は東区図書館が建設され、少々見学しづらくなった。
 
 Ⅴ郭は城内で最も広い曲輪で、おそらく生活空間の場と思われ、東端に外枡形虎口Dを開口する。
 
 さて釜山倭城には、現在では他の倭城に見られるような登り石垣は認められない。しかし当城は釜山の市街地に位置していたこともあり、植民地時代から独立後にかけて何枚かの測量図が残されている。それらによれば現在は一切確認できないが、倭城特有の登り石垣がⅢ郭東端とⅣ郭南端から山麓に向けて伸びていたようである。
 
 植民知時代に作成された測量図には、1909(明治42)年に陸軍築城部が作成の『韓国釜山鎮旧城趾之図』(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、1927~32(昭和2~7)年に原田二郎陸軍大佐(後に少将)が作成したとみられる『九大倭城図』(前掲佐賀県教委1985)、1936(昭和11)年に内務局釜山土木出張所が作成の『釜山市街地計画図』(釜山近代歴史館蔵)などがある。いずれも母城の東端と南端から山麓に向かって、登り石垣が描かれている。
 
 独立後は、1961年に釜山大学校が作成した測量図があるが、それによるとこの段階でなおⅣ南端から数十mにわたって「城壁痕跡」が存在していたようである(釜山大学校韓日文化研究所1961『慶南の倭城址』)。
 
イメージ 2
写真4:『東莱釜山図屏風』(※撮影可能資料)
 
 また朝鮮時代末期(19世紀末~20世紀初頭)に描かれた古地図『東莱釜山図屏風』(釜山博物館蔵)にも、釜山子城台倭城と水晶山の麓とを繋ぐように、河川とは明らかに異なる表記で、空堀状の物体が描かれている(写真4:中央下付近)。
 
 釜山倭城の登り石垣(惣構え)については、倭城址研究会が復元案を提示している(佐伯正広1979「釜山城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。これに対して長正統氏から「関係史料に則して考えるかぎり、その推定はいささか薄弱であるように思える」との反論が出ている(長正統、他1985『文禄・慶長の役城跡図集』佐賀県教育委員会)。
 
 しかし古地図や近代の測量図などを総合的に判断すると、釜山倭城にも登り石垣が存在していた可能性が極めて高いと思われる。むしろ朝鮮半島側の本営であったことを考慮すると、他の倭城以上に広域を囲郭する縄張りであった可能性が高いのではないだろうか(高田徹・堀口健弐2000「釜山倭城の縄張りについて」『倭城の研究』4、城郭談話会)。
 
※付記(2018年5月10日更新)
 その後の調べで、1900年代初めに撮影された古写真『釜山鎮 清正の城址』(学習院大学東洋文化研究所蔵)によると、Ⅲ郭とⅣ郭から延びる登り石垣が写っていることが確認された(植本夕里氏のご教示)。これにより、当城にも登り石垣が存在していたことが確定した。
 
(文・図・写真:堀口健弐)