コラム:海を渡った城郭瓦~東莱倭城と蔚山兵営城~

 中国・元の時代に考案された軒瓦に「滴水瓦」がある。屋根に残った雨水が凍てついて瓦が割れてしまうのを防ぐため、水切りをよくするために軒瓦の先端を尖らせた独特な形状をしている。そのうち軒平瓦は、正面から見ると立面形が木の葉状を呈している。韓国もまた冬の厳しい国なので、滴水瓦は高麗時代末期から朝鮮時代初頭頃に朝鮮半島へと伝わった。

 日本へは文禄・慶長の役(豊臣秀吉朝鮮出兵)から帰国した大名らが軒瓦を直接持ち帰ったり、また朝鮮人の瓦工人を日本に連れてきて同じ形の物を焼かせたことに始まる。同戦役では西国から出兵した大名が多かったことから、滴水瓦も西日本の近世城郭で多く採用されている。それらは姫路城(兵庫県姫路市)や熊本城(熊本市)など日本を代表する城郭建築に葺かれ、発掘調査で出土した物は枚挙にいといまがない。

f:id:horiguchikenji0726:20210219234915j:plain

写真1 前期東莱邑城

 文禄の役(第一次朝鮮出兵)は、日本軍の釜山上陸とともに闘いの火蓋が切って落とされた。1591(文禄元)年の東莱(トンネ)の戦いでは、小西行長が東莱邑城(15世紀に築かれた前期東莱邑城:大韓民国釜山広域市)を攻略した。現在同城は地表面に一切遺構を残さないが、2000年代に入って行われた地下鉄4号線建設に伴う事前の発掘調査で、石垣・堀や日韓双方の武器類・刀傷の残る人骨などが多量に出土した。現在それらは地下鉄寿安(スナン)駅構内の東莱邑城壬辰倭乱歴史館にて、出土時の模様が再現されている(写真1)。

f:id:horiguchikenji0726:20210219235025j:plain

第1図 東莱倭城縄張図

 東莱邑城攻略後の1592(文禄2)年、すぐ隣の標高105m(比高75m)の望月山に吉川広家が東莱倭城(釜山広域市)を築いた(第1図)。図中を東西に横断する城壁は、18世紀に入って城域を拡大して再建された後期東莱邑城の遺構である。現在Ⅰ郭(主郭)には、邑城時代の物見櫓「東将台」が復元されている。詳しい出土状況は情報不足のために分からないが、建設時に軒平瓦(滴水瓦)が出土し(写真2)、現在は釜山博物館で保管されている(羅東旭2015「朝鮮時代釜山地域城郭出土葺瓦」『釜山葺瓦』釜山博物館)。

f:id:horiguchikenji0726:20210219235236j:plain

写真2 東莱倭城出土の軒平瓦(釜山博物館サイトより引用)

 高正龍・立命館大学教授(考古学)の研究によると、この軒平瓦は小西の居城である麦島城(熊本県八代市)で出土した軒平瓦と同范瓦(同じ范木で作られた軒平瓦)であることが確認された(高正龍2007「豊臣秀吉朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播」『渡来遺物からみた古代日韓交流の考古学的研究』科研報告)。

f:id:horiguchikenji0726:20210219235446j:plain

第2図 蔚山兵営城縄張図

 次に紹介するのは蔚山(ウルサン)兵営城(蔚山広域市)である(第2図)。「兵営城」とはいわば朝鮮王朝の陸軍基地のことで、1417(太宗17)年に築かれた(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査ー最近調査された邑城と鎮城を中心にー」『韓国の倭城と大坂城』倭・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。同城は文禄元年に加藤清正によって攻められて落城した。城壁の南半部は市街地化により消滅したが、北半部については近年発掘調査に基づき石垣の積み直しなどの史跡整備が進行中である。

 城内に所在する、その名も兵営初等学校建設に先立つ事前の発掘調査で軒丸瓦が出土したが(写真3)、この瓦は同じく高教授の研究によると、清正の支城である佐敷城(熊本県芦北町)で出土した軒丸瓦と同范瓦であった(高正龍2015「蔚山慶尚左兵営城と熊本佐敷城の同范瓦ー豊臣秀吉朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播(2)ー」『東アジア瓦研究』4、東アジア瓦研究)。

 また同范瓦ではないが、よく似た文様構成の軒平瓦が清正の本城である熊本城でも使用されている(大脇潔2012「周防・長門甍紀行ー吉川広家・大内義弘と山本勉弥ー」『民俗文化』24、近畿大学民俗学研究所)。

f:id:horiguchikenji0726:20210219235529j:plain

写真3 蔚山兵営城出土の軒丸瓦(植本夕里氏撮影)

 日本軍は朝鮮半島からの帰国時に、船で瓦を運搬したことが知られているが(黒田慶一2013「秀吉軍の日本搬入の朝鮮瓦についてー東莱倭城との関係からー」『城館史料学』8、城館史料学会)、当時の日本人が見慣れない木の葉状の軒瓦が珍しくて、戦利品として持ち帰り自らの居城に葺いたのであろう。海を越えた日韓の城郭瓦の、点と点を結ぶ貴重な歴史資料と言えるだろう。

 ※本稿は2021年1月23日に行われたオンライン会『城飲み諸説あり!』において、「海を渡った城郭瓦」と題したプレゼンテーションを文章化したものである。なお掲載写真の一部は、植本夕里氏が撮影されたものを使用させていただいた。記して感謝申し上げる。

(文・図・写真:堀口健弐)