コラム4:釜山倭城をめぐる新出の古写真3題

 文禄の役(第一次朝鮮出兵)で築かれた釜山倭城(韓国釜山広域市)は、韓国第二の都市釜山の繁華街近くに位置することから、植民地時代に多くの測量図や地形図が作成された。今回紹介するのは、植民地時代と独立直後に釜山倭城を写した貴重な写真3枚である。釜山倭城を写した古写真はこれまであまり知られておらず、非常に貴重な資料と言える。

写真1 1900年代の釜山倭城(学習院大学東洋文化研究所より引用)

 まず紹介するのは、学習院大学東洋文化研究所が所蔵する1900年代に写された古写真である。この古写真の存在は植本夕里氏(城郭談話会・古代山城研究会)からの情報提供による。写真1は白黒写真で、「釜山鎮 清正の城址」と表題が付けられている。釜山倭城は朝鮮半島進出のための朝鮮側の橋頭保となった城で、毛利輝元・秀元が築城した。加藤清正は直接城造りには関わっていないが、当時は「加藤清正の虎退治」などの逸話が有名で、本来関係のなかった清正に関連付けられたのであろうか。

 さてこの古写真は1900年代に写されたとされる。この頃は日本が朝鮮半島を植民地化して間もない頃で、おそらく釜山倭城を写したものとしては最古である。手前に殿舎、後方に門楼を上げた城壁が見えるが、これは釜山鎮支城(釜山子城台倭城)であろう。釜山鎮支城は日本軍が撤退後に、釜山子城台倭城(釜山倭城の一城部別郭の出城)の縄張りを踏襲して朝鮮式城郭に改修して朝鮮時代末期まで使用された。釜山子城台倭城を写した古写真は何枚か伝わっているが、殿舎を含めてこれほど克明に写った写真も珍しい。

 そしてその背後の山に威風堂々と釜山倭城の石垣が聳え立つ。当時は山にほとんど木々が生えていないので、石垣や曲輪の姿まで克明に分かる。さらに特筆すべきは、山頂の石垣群から両翼を広げたように、尾根の稜線上に登り石垣と見られる物体が写し出されているのである。

 倭城と言えば長大な登り石垣が有名だが、現在の釜山倭城に登り石垣は見らない。では釜山倭城に登り石垣は存在しなかったのかと言うと、朝鮮時代末期の古地図『東莱釜山図屏風』(東亜大学校博物館蔵)には釜山倭城と釜山子城台倭城とを繋ぐ空堀状の物体が描かれている。また植民地時代に日本人が作図した何枚かの測量図や地形図にも登り石垣が描かれており(高田徹・堀口健弐2000「釜山倭城の縄張りについて」『倭城の研究』4、城郭談話会)、釜山倭城にも登り石垣が存在していた可能性が以前から指摘されてきた(佐伯正広1979「釜山城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)。今回の古写真の知見は、写真に登り石垣と思われる物体が写っていることで、当城にも登り石垣がかつて存在していたことが決定的となった。

写真2 1950年代の釜山倭城(『HUFFPOST』2016.09.11より引用)

 次に紹介するのは、1950年代にオーストラリア系韓国人のメ・ヘラン(2009年没)、メ・ヘヨン(2005年没)姉妹が写したカラー写真である。この写真の存在も植本氏のご教示による。

 メ姉妹の両親はともにオーストラリア人で、父は宣教師、母は看護師で、1910年代に朝鮮に移住し、ハンセン病患者の病院「相愛円(サンエウォン)」を経営して朝鮮の医療活動に尽力した。両親は2女をもうけ、姉妹たちも両親の意思を継いで朝鮮戦争の傷が癒えない1950年代、釜山の佐川洞(チャチョンドン)に「日進(イルシン)基督病院」を経営して、戦後の復興に尽力した。姉妹は余生を故国オーストラリアで過ごし、2人とも既に鬼籍に入られている。

 この姉妹には写真の趣味があり、当時まだ珍しかったカラーフィルムを使用して、釜山の史跡、自然、繁華街の雑踏、それに自身が経営する病院など、実に様々な風景を写真に残している。その原版の数は9000枚にものぼり、現在は韓国の京畿(キョンギ)大学校博物館が所蔵する(「豪州の宣教師家族が記録した韓国」『KОREA.net』2016年9月13日配信)。このうちの極一部の写真がインターネットニュースサイト『HUFFPОST』で紹介された(『HUFFPОST日本版』2016年9月11日配信)。

 写真2はリバーサルフィルムで撮影されており、非常にコントラストの強い写真(写真用語で言うところの硬調の仕上がり)になっている。サイトでは「1956年、メ姉妹が設立した病院の初期の様子」と紹介されている。中央手前の3階建てに見える建物がその病院であろうか。そしてその背後に、釜山倭城の全容がはっきりと写し出されているのである。釜山倭城は現在では体育公園となり、遺構はそれなりに現存するものの、史跡整備に伴う公園化ではないので城跡感には乏しいものとなっている。現状は山の木々が成長したことに加え、周囲にマンションなどが建ち並び、今ではこの構図で釜山倭城を望むことができなくなった。姉妹たちは自身が経営する病院の裏山に累々と横たわる石垣が、400年前に築かれた日本人の遺跡であることを知っていたのであろうか。

 なおこれ以外にも、解像度が不鮮明で分かりにくいものの釜山倭城と思われる写真が1点あり、他にも復元前の金井山(クムジョンサン)城の城門の写真なども含まれるが、ここでは割愛する。いずれも今となっては貴重な写真である。

写真3 1950年代の釜山倭城か(写真展『佐川歴史物語』の展示品を筆者撮影)

 最後に紹介する写真3は、筆者が韓国旅行中に偶然に目にした写真である。2018年5月9日に釜山倭城を踏査すべく、最寄りの都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川」駅に降り立った。ちょうどその時、地下鉄の連絡通路を利用して写真展「佐川歴史物語」が開催されていた。

 韓国では地下街などを利用して、ミニ写真展、ミニ絵画展、ミニポエム展などの芸術作品の展示が頻繁に行われているが、そのうちの写真の1枚が筆者の目に飛び込んできた。その写真には何の解説もなかったが、筆者には直ぐに釜山倭城だと分かった。木造家屋や行き交う市民の姿が中心に写っており、手前の道路にはレールが見えるので路面電車の軌道であろうか。そしてその背後の山には釜山倭城がしっかりと写っているのである(※天井の照明が画面に写り込んでいる)。

 解説には「1950年代撮影」とだけあり、いつ誰が撮影したかなどの解説はなかったが、色調のコントラストが強い仕上がりなので、リバーサルフィルムで撮影された可能性が高い。また山に木々や高層建物がない点や、人々の服装、人家などの風俗が、メ姉妹が写した釜山の街並みと類似しているので、おそらく同時期に撮影されたのであろう。確証はないが、この写真もメ姉妹の撮影によるものではないだろうか。

 以上、1900年代と1950年代に撮影された、従来あまり知られていなかった釜山倭城の写真を3点紹介した。現在では失われた遺構や、景観が大きく変貌したものもあり、どれも釜山倭城の近代を知るうえで貴重な古写真と言える。

(文:堀口健弐)