№31:2018倭城踏査速報(後編)

(前編より続く)
 
5月13日㈰ 小雨のち晴
 
 昨日の午後から降り出した雨は、夜半過ぎには本降りとなっていたが、目覚めた頃にはほぼ上がりかけていた。
 
 本日の踏査地は、西洛東江(ナクトンガン)の左岸に位置する徳島(トクト)倭城と、右岸に位置する金海竹島(キメジュクト)倭城を予定していた。徳島倭城は城友からの口コミで、遺構は一切存在しないとの情報を得ていたが、それでも所在地と本当に遺構が存在しないことを自身の目で確認したかったことと、その対岸にある金海竹島倭城を学生君に案内し、自身も写真撮影を行いたかった。
 
 ところが沙上(ササン)バスターミナルに着き、時刻表を見て愕然とした。かつては15分間隔くらいで頻繁に出ていた金海行のバスが、午前10時台の次は午後4時台まで休止時間となってしまっている。その理由はすぐに察しがついた。数年前に釜山・沙上と金海市内とを結ぶ釜山金海軽鉄道(ニュートラムのような自動運転の電車)が開通して、バスの利用者が激減したためと思われる。しかし金海竹島倭城はバスでないと行きにくい所にあり、タクシー利用なら行きは良いが帰りのタクシーが拾いにくい。
 
 しかしショックに打ちひしがれていても時間だけが無駄に経ってしまうので、急遽踏査地を巨済(コジェ)島の古県(コヒョン)邑城に変更する。同島は釜山市の南西に浮かぶ、韓国で2番目に大きな島である。かつては市外バス利用だと片道3時間もかかり、所用時間で言えば釜山から最も遠い順天(スンチョン)倭城に次いで2番目に時間を要した。しかし本土から加徳(カドク)島を経て巨済島とを結ぶ巨加(コガ)大橋が開通してからは、バスで片道1時間ほどで往来できるようになった。
 
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古県邑城「鶏龍門」
 
 その目指す古県邑城は、古県バスターミナルで降りて徒歩約20分の所である。古県邑城は巨済島の中心的な邑城で、1432(世宗14)年に倭寇対策で築かれ、文禄の役では日本軍の攻撃の前に落城した。その後復興したが1663(顕宗4)年に廃城となった(羅東旭2005「韓国慶尚南道地域の城郭遺跡の発掘調査成果―最近調査された邑城と鎮城を中心として―」『韓国の倭城と大坂城』倭城・大坂城国際シンポジウム実行委員会)。
 
 同城は山麓から平地にまたがる恰好で築かれているが、現在では山麓側のみに遺構を残す。1991年に東亜大学校博物館により発掘調査が行われ、現在ではその成果に基づいて石垣の修築や、西門の門楼「鶏龍楼」の復元が行われた。城内は今も巨済市庁(日本の市役所に相当)となるが、城内に現代の役所が建つ様は日本も韓国も同じようである。ここでは学生君と一緒に、夕刻まで縄張り図の作成に時間を当てた。
 
 元来たルートで釜山・沙上まで戻り、ここで夕里さんと合流して、今回の旅で唯一3人が一緒に揃い、夕食は「プルコギが食べたい」と言う筆者にリクエストにより、チーズテジプルコギ(溶けたチーズを絡めながら食べる豚の焼肉)を食した。
 
5月14日㈪ 晴
 
 学生君は本日で帰宅の途に就くため、単独で密陽(ミリャン)市の密陽邑城を踏査する。沙上バスターミナルから市外バスで密陽バスターミナルへ向かい、さらに国鉄密陽駅方面行の市内バスに乗り換えて、「嶺南楼(ヨンナムヌ)」で下車するとすぐ目の前が城跡である。バスターミナルから徒歩でも2・30分程度の距離である。
 
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密陽邑城東門
 
 同城は1450(文宗元)年に改修が開始され、1479(成宗10)年に完成した(前掲羅文献)。文禄の役では小西行長との戦闘で荒廃したが、その後再建され朝鮮時代末期まで存続した。同城は一昨年秋に初訪城を果たしていたが、今回は縄張り図の作成を行った。前回の訪城時よりも城壁の復元工事が北進中で、既に東門と門楼の復元が完了していたが、残念ながらまだ上に登ることは叶わなかった。
 
 縄張り図の作成が当初の見込みよりも早く完了したので、直ぐに釜山・沙上に戻る。この日も夕里さんと合流予定だが、集合時間までまだ随分と時間があるため、近くにある亀浦(クポ)倭城を踏査する。同城は2000年代に都市鉄道2号線が開通して、最寄り駅の「徳川(トクチョン)」駅から徒歩約15分の“駅前倭城”の仲間入りを果たした。既に縄張り図は作成済みのため、この日は写真撮影に専念する。
 
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亀浦倭城
 
 当城は縄張り図作成のために、1990年代後半から2000年代にかけて頻繁に通っていたが、当時は主郭背後の曲輪がジャングルのような有様で、藪漕ぎするにも勇気がいるような状態であった。しかし数年前に樹木が綺麗に伐採されて、今までブッシュに覆い隠されていた見事な高石垣を拝めるようになった。
 
 夕食は夕里さんお奨めの定食屋のような小さなお店へ向かい、テンジャンチゲとキムチチゲを注文する。テーブルが席が4つくらいの小さなお店だが、ファーストフード店よりも1000ウォン高い程度で、チゲは美味しくパンチャン(おかず)の小皿も10皿くらい出てきて、非常にお値打ちでお味の方も大満足であった。
 
5月15日㈫ 晴
 
 事実上の最終日は、夕里さんと市外バスで慶州(キョンジュ)市の城郭を踏査する。世界遺産の慶州は“新羅千年の古都”で、古墳・寺院・博物館と言った名所旧跡や展示施設などの見所が多いが、城郭は他の文化財に比べてこれまで地味な存在であった。もっともこれは、日本の奈良や京都でも同じような状況かもしれない。しかし近年になって漸く城郭にも光が当てられるようになり、現在では遺構の修築や復元に着手している。
 
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復元工事中の慶州邑城「向日門」
 
 まずは第一の目的地である慶州邑城へ向かう。この邑城も文禄の役では加藤清正に攻められて荒廃したが、その後再建されて朝鮮時代末期まで存続した。現在は城壁の北辺と東辺の一部が残存し、石垣の修築と東門「向日門」の復元工事が進行中であった。また鶏林(ケリム)初頭学校の敷地と道路とを区画する箇所には、崩れかけた現存石垣を確認することもできた。
 
 ここでは暫く自由行動とし、筆者は縄張り図の作成に専念すると同時に、初訪城のためフィルムとデジタルの両方で写真撮影を行う。
 
 次に夕里さんの案内で、郊外に位置する明活(ミョンファル)城へと市内バスで向かう。現在は今秋まで石垣の修築工事中のために柵外からの見学となったが、それでも発掘調査で出土した石垣や、修築を終えた石垣を眺めることができた。この城の麓には、同城にあやかった「山城(サンソン)カルビ」と言う名の焼肉屋もあって、今度は是非とも来店したいところである。
 
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修築工事中の明活城
 
 再び市内へ戻り、「大陵苑(テヌンウォン)」と呼ばれる新羅王族が眠る古墳公園を探索しつつバスターミナルへと向かう。2000年代に訪れた時にはまだなかった、チョクセム遺跡発掘館と言う古墳の発掘現場に覆屋を掛けた展示館が建設されていて、石室や断ち割った墳丘などを発掘当時のまま見学することができた。
 
 釜山・沙上へ戻り、最後の晩餐はタッカルビ(鶏の焼肉)を食し、さらに席をビアホールに移して、旅の思い出を振り返りながら夜は更けていったのであった。
 
5月16日㈬ 小雨のち曇り
 
 昨夜から降り出した雨は、モーテルを出立するころにはほぼ止みかけていた。例年は帰国便が昼前の便なので、朝食もそこそこに慌ただしく空港へ向かうだけの日程だったが、今回は初めて午後4:30発の便なので、いつもよりもかなり時間の余裕がある。ただし飛行機は新幹線などと違って乗り過ごしたら大変なので、お城へは行かずに金海空港の近くにある金海市の博物館や古墳公園を見学する。
 
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国立金海博物館
 
 国立金海博物館はこれまでも何度か訪れ、リニューアルオープン後も2度目となる。ここでも先日の釜山博物館と同様に、日本の古代史と関わり合いの深い遺物が数多く並び、九州の弥生土器なども展示されていた。
 
 お土産売り場では、思いがけなく『密陽』と言うこれまた“電話帳”くらい分厚い図録を購入する。先日訪城した密陽邑城についても詳しく紹介されており、38000ウォン(日本円で約4000円)と少々お高かったが、日本ではなかなか入手困難な情報源でなので買わないわけにはいかなかった。
 
 その後キャリーバッグを引っ張りながら、お隣の大成洞(テソンドン)古墳群(通称“王家の丘”)と付属の大成洞古墳群博物館へ移動する。ここは金海博物館の別館で、発掘された古墳の石室の実物やレプリカを見ることができる。中には日本で作られた金銅製の装飾品なども副葬されていたが、古墳自体は典型的な伽耶の構造であることから、倭人が眠る墓というよりも、倭国と交流の深かった金海王族の墓と考えられているようだ。
 
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大成洞古墳群“王家の丘”
 
 ここでも多くの出土品が展示されていたが、最後の方は帰国便の時間が気になりだして、少々駆け足での見学となってしまった。その後金海国際空港へと向かい、無事に帰国の途へと就いたのであった。
 今回の踏査旅行では、作図途中の図面も含めて文禄・慶長の役の舞台となった、朝鮮王朝側の縄張り図を4城ほど完成させることができた。
 
 また合間を見て、古墳公園や博物館なども積極的に見学することができた。釜山市をはじめお隣の慶州市や金海市には、お城だけではなく日本の古墳文化とも関わり合いの深い遺跡や展示施設が多く、お城ファンのみならず考古学・古代史ファンも必見の地であることを改めて再確認する踏査旅行となった。
(文・写真:堀口健弐)