№32:周山西城(京都市)

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周山西城縄張図
 
 2020年のNHK大河ドラマは、明智光秀が主人公の『麒麟がくる』に決定した。筆者は大河ドラマの類はほとんど見ないのだが、それでも密かに期待していることがある。丹波地域には、明智光秀が築いたり改修の可能性が指摘されている城跡が多いが、これまで研究者や愛好家を除くと、あまり注目されてこなかった。しかしこれを契機に歴史本などで紹介されて、一挙に注目が集まりそうな予感がしている。
 
 過去のブログ「№13:周山城」でも記したが、筆者は1980年代終わりから1990年代前半にかけて、周山城の調査をライフワークにしていた時期があった。周山城は、1580(天正8)年に明智光秀が築城した総石垣で瓦葺きの城郭で、丹波国でも屈指の規模と構造を誇っている。その当時は周山城と言えば、城山一帯の石垣曲輪群のみと考えられてきた。
 
 ある日、周山城の西尾根付近を測量中に、自分でもよく分からないが何かに呼び寄せられるように、測量機材を置いたまま西尾根を西へ西へと歩き始めた。途中の二重堀切(写真1)を超えると植林されて比較的歩きやすく、さらにどんどん進むとピーク上の平坦地に出た。そこから平坦面が段状に続き、所々に土塁らしき低い高まりもあ見られた。ここには城はないはずなのにと想いつつ、その時はとりあえずカメラのレンズに収めておいた。
 
 後日、お城の研究会が終わった二次会の席で、城友たちにその写真を見せてみたところ、「城跡で良いのでは」旨のご意見であった。
 
 そこで日を改めて、周山城の測量手段と同じコンパストランシットを導入し、のべ4日がかりで測量図を作成した。当時この曲輪群に正式名称はなく、拙稿では「周山城(西峰曲輪群)」と仮称したが(拙稿2014「周山城(西峰曲輪群)」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)、近時、管轄の京都市教育委員会では石垣の城を「東城」、土の城を「西城」と呼び分けており、今後はこの呼称にならいたい。
 
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写真1:東城と西城を隔てる大堀切
 
 さて周山西城は、黒尾山に近い標高480m(比高200m)の小ピーク上一帯に存在する。縄張りは比高のほぼ同じ3か所の小ピークと、それを結ぶ痩せ尾根上に跨って削平地を連ねている。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭と考えられ、上下2段になるが、特に下段の内部は削平がやや甘い。北西に外枡形虎口Aを開口する。この虎口は1990年代に入って開通した林道とニアミス状態で、豪雨にでも見舞われると崩落してしまいそうな危ない状態である。同じく南に、食い違いからカニばさみ状に変化する外枡形虎口Bを開口するが、この土塁は跨いで通れるくらいの低さである。いずれも織豊系城郭の虎口で、千田編年のⅣ期(1576~82年)に相当する(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。
 
 Ⅰ郭の西斜面下に帯曲輪が巡るが、縁辺部に一部低い土塁状の高まりが見られることから、もしかすると埋没した横堀の可能性もある。
 
 Ⅱ郭はⅠ郭に次ぐ独立性の高い曲輪である。削平が十分に行き届き、土塁を挟んでⅠ郭と対峙する格好となる。最高所の曲輪内部を一文字土塁で仕切るが、比高差のない曲輪を仕切る土塁は、丹波地方の中世城郭でしばしば見られる構造である。城域の西側斜面は全体的になだらかで、それをカバーすべく西の各支尾根に小規模な堀切や腰曲輪を設けている。
 
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写真2:信楽焼擂鉢片
 
 Ⅲ郭には約2m間隔で平な石が点在しており、建物礎石の可能性もある。曲輪内からは、別個体と思われる信楽焼擂鉢の破片が2点見つかっている(写真2)。これは木戸編年のB5類(16世紀前半~中頃)に相当する(木戸雅寿1995「信楽」『概説 中世の土器・陶磁器』真陽社)。
 
 このように石垣の城郭とその背後の土造りの城郭がセットで存在する事例には、但馬八木城(兵庫県養父市)があるが類例は少なく(谷本進2014「八木城」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)、織豊期の築城様式を考えるうえで貴重な遺構と言える。
(文・図・写真:堀口健弐)