№27:加徳倭城(大韓民国釜山広域市)

第1図:加徳倭城縄張図
 
 加徳(カドク)倭城は大韓民国釜山広域市江西(ガンソ)区訥次(ヌルチャ)洞、本土と加徳島に挟まれた小島「訥次島」に所在する。
 
 加徳倭城の初訪城は、筆者が所属するお城の研究会の面々らと踏査した、1998年4月28日である。この時は、筆者は石垣の実測図作成に専念した。翌29日には単独で再訪城し、丸1日かけて縄張り図作成に専念した。その後は何度か城友を案内して再度訪城し、2014年11月8日には改めて縄張り図の修正を行った。
 
 当時訥次島へ渡るには、釜山市との市境に近い昌原(チャンウォン)市龍院(ヨンウォン)から出ている、漁船を改造したような小さな渡船が唯一の交通手段であった(写真1)。この海域は、干潮時は一面干潟となる遠浅の海である。1998年の単独踏査の際には、帰路の渡船が干潟の澪(干潟上にできた川状の地形)を進んでいた時、途中で浅瀬に乗り上げてしまい身動きが取れなくなってしまった。船頭も心得たもので、予め用意していた竹竿で船を押し出そうとするが、船は微動だにせず。結局諦めて港に救援を要請し、別の船にロープで牽引してもらって漸く脱出することに成功したのであった。
 
 
写真1:加徳倭城遠望(1998年撮影)
 
 ところがこの海域は、2000年代に入ってから風景が一変した。まず釜山新港建設に伴う大規模な埋め立て工事により、本土と加徳島とが地続きになった。これにより現在では、登山口に近い加徳島の船倉(ソンチャン)が路線バスの終点となっている。
 
 また本土から加徳島を経て巨済(コジェ)島とを繋ぐ、巨加(コガ)大橋が建設された。当初の予定では、訥次島がこの巨加大橋の橋桁になる予定で、加徳倭城も破壊される運命の危機に瀕した。当城は史跡には指定されていないが、釜山市の文化財担当部局が城跡の重要性を訴えた結果、大橋のルートが設計変更されて城跡は守られたのであった。
 
 巨加大橋は現在、城跡の眼前を海中に張り出すような、変則的なルートを取っているが、これは設計変更された姿なのである。当然設計変更をすれば、時間も費用も余計にかかるところであるが、そうまでして倭城を守って頂きた釜山市の文化財部局には頭が下がる思いである。
 
 
写真2:主郭石垣
 
 さて加徳倭城は、訥次島南端に位置する標高70.5m(比高ほぼ同じ)の山頂部と、そこから連なる二つの小ピークに跨って占地する(第1図)。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。周囲を石垣で固め、曲輪の内側は低い土塁となる(写真2)。北西隅Aが僅かに張り出して側面に横矢が掛かり、また海側に対しての眺望も良い。天守台ではないと思われるが、主郭の防御を担う重要な場所である。虎口Bは内枡形となる。現在は虎口空間内に島民が祀る祠があり、後世に積まれた石積で閉塞されている(写真3)。
 
 
写真3:主郭枡形虎口
 
 Ⅰ郭の周囲には、曲輪とも後世の段々畑とも判断しかねる雛壇状地形が延々と続き、どこまでが城の遺構なのか判断に迷う。ただC周辺には、途切れながらも日本式の石垣が見られることから、少なくともこの辺りまでは城域であったことが窺える。
 
 Ⅱ郭は痩せ尾根上に築かれ、低いながらも石垣を築いて数段の曲輪を配置する。ここからは狭い海峡を挟んで、対岸の加徳支城を眼前に望むことができる。
 
 Ⅲ郭は尾根鞍部を挟んで、やや独立性が高い位置にある。一見すると土の切岸のようだが、詳細に観察すると所々に石垣が確認できる。周囲を帯曲輪で囲郭するが、曲輪面と帯曲輪との高低差があり、どのようなルートで昇降していたのかは不明である。
 
 
第2図:加徳支城縄張図(参考資料)
 
 ところで当城は、狭い海峡を挟んで加徳島の加徳支城と向かい合っている。地元では加徳島の城跡を「加徳倭城」と呼び、一方の訥次島の城跡を「加徳支城」と呼んでいる。しかし加徳島の城跡は典型的な朝鮮式山城で、日本式城郭に改修された痕跡は見当たらない(第2図)。この件に関しては先学も既に指摘しており(山崎敏昭1998「加徳城と安骨浦城の縄張り」『倭城の研究』2、城郭談話会)、筆者も同感であった。
 
 
写真4:『1872年地方地図』(ソウル大学校博物館蔵:J.S.Kim氏提供)
 
 その後、この見解を補強する絵画史料の存在を知った(J.S.Kim氏のご教示)。朝鮮時代末期に描かれた『1872年地方地図 慶尚南道熊川県地図』(ソウル大学校博物館蔵)によると、訥次島の城跡のある山に石塁状の描写があり、漢字で「倭古堞」と記されている(写真3:画像下方)。「堞」とは「城壁」や「垣根」の意味なので「倭古堞」が「倭の古い城」すなわち倭城を意味していることは間違いない(※)。
 
 一方の加徳島の城跡には、特段何の表記もない。このことから19世紀末頃まで、訥次島の城跡を加徳倭城と認識していたもののが、近代以降の比較的新しい時期になって「加徳倭城」と「加徳支城」の位置認識が入れ変わり、後世に誤伝されたものと考えられる。
 
※画面上方にも同様の描写があり「倭古堞」とあるのは、安骨浦倭城である。
(文・図・写真:堀口健弐)