№26:丹波岩尾城(兵庫県丹波市)

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丹波岩尾城縄張図(※一部、多田暢久氏原図を基に作図)
 
 丹波岩尾城(兵庫県丹波市)の埋蔵文化財としての正式名称は「岩尾城跡」であるが、他地域の岩尾城と区別して「丹波岩尾城」または「蛇山岩尾城」と呼ばれることが多い。「蛇山」という山名から察して、さどかし蛇が多く生息しているのかと身構えてしまうが、これは一説に「じょうやま(城山)」が「じゃやま(蛇山)」に変化したためと言われている。
 
 筆者が初めて岩尾城を訪れたのは、1993年10月23日である。その時は専ら写真撮影のみに終始した。自宅から岩尾城のある最寄駅のJR谷川駅までは、一旦JR山陰線を北上してから福知山駅福知山線に乗り換えて谷川駅まで下り、神姫バスに乗り換えて和田小学校前で降りることになる。初訪城の際には、電車から降り立つと直ぐに走り去っていくバスが目に映り、嫌な予感がして時刻表を見ると、案の定岩尾城方面行のバスが出た直後であった。バスの便数は1・2時間間隔なので、とても次のバスを待っていられない。普段は滅多にタクシーを利用しない筆者だが、この時ばかりは流石に駅前に停まっているタクシーに飛び乗った。
 
 次の訪城は、翌年の1994年1月6日~2月6日にかけて計5回、「JR青春18きっぷ」を利用した短期集中決戦で、岩尾城の石垣曲輪群の実測調査を行った。この時に用いた機材は、当ブログ「№13:周山城」で用いたのと同じ、コンパストランシットと巻尺を利用して原図1/500の縮尺で作図した。
 
 さらにその翌年、山南町(現在は合併して丹波市)教育委員会から「岩尾城の地表面観察の調査を行いたいので協力して欲しい」旨の打診があり、二つ返事で快諾した。光栄にも4名の調査員のうちの一人に任命して頂き、1995年1月6・7日にかけて、麓にある和式旅館に宿を取っての調査となった。この時の調査は、縄張り・石垣・瓦・地籍図・文献史料等の項目からなる総合調査で、その成果は『史跡岩尾城跡』(兵庫県山南町1998)として刊行された。ただ非売品であったため、手に取って読まれた方は少ないかもしれない。
 
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写真1:天守
 
 岩尾城は1516(永正13)年、在地土豪の和田斉頼によって築かれたのが始まりである。明智光秀による丹波平定後の1586(天正14)年には、豊臣家家臣の佐野栄有が入城し、1595(文禄4)年まで在城した。城は1596(慶長元)年には廃城になったようである(中井均1987「岩尾城」『図説中世城郭事典』3、新人物往来社)。
 
 城跡は播磨国との境に近い丹波国の西端に位置し、標高358(比高260)mの蛇山に占地する。当城の縄張りの特徴は、城域を南北に分断するように築かれた大土塁を境にして、土塁以南の石垣曲輪群と以北の土の曲輪群とに二分される点である。この大土塁は城内の最高所で、測ってみると天守台上面よりも1.5mほど高い。
 
 Ⅰ郭が主郭であるが、前述のとおりここが最高所ではない。曲輪群の中央部に天守台Aを設けるが、3間✕4間半の天守に2間✕3間の付け櫓台からなる複合天守で、日本国内でも最少級の天守である(写真1)。天守台を最高所ではなく、あえて一段下がった位置に設けたのは、おそらく城下側からの見栄えを意識してのことであろう。
 
 Ⅱ郭には、Ⅰ郭と天守付け櫓へそれぞれ通じる、平面「T」字形の枡形虎口Bを開口する。このⅠ郭とⅡ郭を含めた区域は、山自体が峻嶮にも関わらずほぼ80尺四方の方形に近い形状を呈する。原地形に左右されない矩形の平面形を指向しており、机上プランをそのまま現地に当てはめた縄張りでと言える。
 
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写真2:大手道の石垣
 
 石垣は、城下に面した方を高く積んでいる。石材は、加工しない花崗岩の粗割り石を使用し半切して、割れ口を表面に見せて積む「割り肌仕上げ」で、間隙に間詰石を充填している。隅角部は算木積の意識は多少感じられるものの、角石の長短の引きが揃わない箇所もあり、不完全に終わっている。稜線は直線的で反りは視られない。
 
 登城ルートは南尾根を遮断する堀切と兼用の堀底道を通って、石垣で固めたジグザグの大手道を進んで城内に入り、Ⅳ郭→Ⅲ郭→Ⅱ郭の順に進んで、先に見た虎口Bを通って主郭へと至る(写真2)。狭い曲輪の中にも、巧妙に導線を設定しているのが分かる。
 
 Cは一見すると、天井部が崩落した炭焼窯のようにも思えるが、炭焼窯にしては規模が多き過ぎる気もする。これも好意的に解釈すれば、城道を登て攻め上がってくる敵兵に奇襲をかけるための、武者隠しの可能性がある。
 
 城外には、高所にもかかわらず井戸Dがあり、現在は転落防止用の網が被せてある。一般的な地下水を汲み上げる方式の井戸ではなく、岩盤をくり抜いて一部には石積みを施し、岩の隙間から滴り落ちてくる湧水を蓄える構造である。築城から400年余りを経た現在でも、今なお水を湛えているのには驚かされる。現在は井戸底に落ち葉が分厚く堆積して浅くなっているが、試しに枯れ枝を指し込んでみたところ、少なく見積もっても1.5m以上の深さはありそうであった。
 
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写真3:軒平瓦と軒丸瓦
 
 城内には、主にⅠ・Ⅱ郭周辺で瓦片の散布が多数見られ、瓦屋根を備えた本格的な建物が建っていたことを物語る(写真3)。瓦は丸瓦・平瓦・軒丸瓦・軒平瓦、それに軒の棟に取り付ける輪違い瓦などの道具瓦がある。瓦は総じて焼成は良好で胎土も精良で、丁寧なナデ調整をお施すものが多い。平瓦には、円弧状の水がえしの付く物が見られる。軒瓦の瓦当文様は、軒平瓦は三葉三転唐草紋と五葉?(欠損のため不確実)四転唐草紋の2種類がある。軒丸瓦は、右巻き巴紋・珠紋帯、左巻き巴紋・珠紋帯、珠紋のない左巻き巴紋の3種類が見られる(拙稿1993「蛇山岩尾城」『織豊期城郭の瓦』織豊期城郭研究会、同瓦は丹波市教育委員会に寄贈済み)。
 
 さて、一方の大土塁以北は、土造りの曲輪Ⅴ郭を中心として尾根筋に堀切を設けて遮断する構造であるが、石垣や瓦の使用は一切認められず、縄張り的にも石垣曲輪群とは完全に隔絶している。おそらくこの区域は、戦国期の和田段階の遺構と思われる。佐野期段階の岩尾城は、土造りの曲輪群は機能せずに放棄されていたと考えられる。
 
 岩尾城は非常に小規模でありながら、高石垣で築かれ天守と枡形虎口を設け、建物の屋根には瓦を使用するなど、織豊系城郭の諸要素を兼ね備えた城郭である。規模はミニサイズでも、当地にとって軍事的あるいは政治的に特別な意味を持った城郭であったと推測される。
(文・図・写真:堀口健弐)