№25:倭城洞倭城(大韓民国慶尚南道巨済市)

 
倭城洞倭城縄張図
 
 かつて筆者は『倭城の研究』創刊号にて、巨済島(コジェド)に残る倭城石垣の報告文を発表したことがある(拙稿1997「巨済島4倭城の石垣」『倭城の研究』1、城郭談話会)。実はこの時点で倭城洞(ウェソンドン)倭城だけは、未だ自身での訪城を果たしていなかった。
 
 1996年4月28日~5月2日にかけて、筆者が所属するお城の研究会で巨済市を訪れ、古県(コヒョン)の観光ホテルを基地にして、島内に残る4つの倭城を徹底踏査した。元々激辛料理好きの筆者は、ついつい韓国料理を暴食しすぎたのが祟ったのか、前夜から体調を崩してしまい、当日は踏査に参加できずにホテルで1日休養する破目に。そこで筆者のカメラを使って、同行者のY君に写真撮影をお願いしてもらったのであった。
 
 そのような事情もあって、倭城洞倭城の初訪城は2004年5月3日のことである。この時は関東の城友と巨済島を訪れ、同じく古県のモーテルに宿を取って、同島内の倭城を踏査した。当日は朝からあいにく雨のため、倭城洞倭城なら傘を差しながら見学できるだろうと訪城した。ところが城跡のすぐ前のバス停を降りた頃から、傘が役に立たないほどの強い風雨となり、下半身もびしょ濡れになって踏査もままならず、逃げ帰るように次のバスでモーテルへ引き返したのであった。
 
 そこで一足先に帰国する城友を見送った後、同月6・7日にかけて今度は単独で訪れ、実質1日半をかけて縄張り図を作成した。
 
 
写真1:倭城洞倭城遠望
 
 倭城洞倭城は大韓民国慶尚南(キョンサンナム)道巨済市沙等(サドゥン)面広里(クヮンニ)、巨済島の西端に所在する。別名を見乃梁(キョンネリャン)倭城と言い、また地元では広里倭城の名で呼ばれている。1597(慶長2)年の築城で、対馬宗義智の家臣が在番を担当したようである(早川圭2014「見乃梁城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。
 
 西北を本土との間の見乃梁海峡に望む、比高10mの海岸段丘上に占地するが、見た目は平城に近い印象である(写真1)。南を広里川と云う小川が流れ、これが天然の堀の役割を果たしている。おそらく当城は、見乃梁海峡に睨みを効かせる狙いがあったのであろう。
 
 当城は一部に石垣を用いるものの、全体的に土塁と堀で段丘を区画する、倭城の中ではやや異形の縄張りである。城跡の大半は耕作地となり、一部の土塁上面が削られて低くなってはいるが、遺構は概ね良好に残存する。
 
 
写真2:Ⅱ郭の堀と土塁
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。西隅に外枡形虎口Aを開口する。現状では防御施設に乏しいが、これは耕作行為で遺構が破壊されたためであろうか?
 
 Ⅱ郭は土塁と空堀に囲郭され、三方に開口部B・C・Dを持つ。地元ではこれらを「北門・東門・西門と呼んでいる」のだと、踏査中に出会った耕作中の農夫が教えてくれた。但しDの直下は急斜面で外部に出る構造になっておらず、耕作などに伴う後世の破壊の可能性が高いと思われる。確実に虎口と認定できるのはB・Cである。いずれも平入り虎口で、土橋でⅢ郭と連絡する。堀の一部は滞水して一見水堀状を呈するが、これは地盤自体が保水力の高い赤土の粘土のため、雨水が貯まって水堀状になったように見える(写真2)。
 
 Ⅲ郭は城内で最も広い空間であるが、起伏があって自然地形をあまり加工していない。そして段丘の地続きを土塁と空堀で区画し、大手相当の外枡形虎口Eを開口する。
 
 海岸線には一部に折れを伴った石垣Fがあり、石材が1~2段程度残存する。城域の西斜面は荒波に洗われて大きくオーバーハングしており、状況から察してこの石垣は、防御よりも波消しの役割があったのではないかと思われる(写真3)。なお海岸にも瓦片の散布が認められることから、往時は瓦葺き建物が存在したことを窺わせる。
 
 
写真3:海岸線の石垣F
 
 ところで当地には「倭城洞」なる地名が存在しないので、「倭城洞倭城」は「実在しなかった」とする意見がある。倭城廃城後に、まず外郭線を意味する「外城(ウェソン)」の地名が生まれ、これに集落を意味する「洞」が付いて「実在しない『倭城洞』の地名が生まれた」とするのである(石橋道秀2005「誤認された倭城2題:その1:実在しなかった『倭城洞』」『東アジアと日本:交流と変容』ニューズレター5、九州大学大学院比較社会文化学府)。
 
 しかし朝鮮時代後期(17~19世紀代)に描かれた古地図『巨済府図』(東亜大学校石堂博物館蔵)によると、倭城の堀跡を描いて、その中に漢字で「倭城村」と記されている(植本夕里氏のご教示)。「洞」とは、近代から1990年代まで使用された集落を表す行政単位であるが(※1)、「村」と「洞」は概ね同義語なので、時代とともに「倭城村」から「倭城洞」へと呼び方が変化したものと思われる。やはり倭城洞倭城は“実在”したのであった。
 
※1「洞」は、移行期間も含めて2000年代まで使用されたが、現在では「道(みち)」を意味する「ギル」に変更された。但し漢字表記ができないためか、日本向けには現在でも「○○洞」と紹介されている。
(文・図・写真:堀口健弐)