№39:蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)

蔚山倭城縄張図
 
 蔚山(ウルサン)倭城は、倭城踏査のみならず人生の中でも忘れえない思い出の多いお城である。1999年には初の一人旅で倭城を巡り、その前年の98年には「蔚山の置いてけぼり事件」が起こった。韓国語もろくに喋れない異国の地で本隊に置いてぼりにされ、自力で高速バスに乗って釜山まで移動し、飛び込みでその日の宿を探すという、人生で何度もない貴重な経験をした。これは大変な思い出でもあるが、長くなりそうなので下記の文献を見つけられたら、是非とも一読されたいと思う(拙稿2004「楽しい?倭城踏査」『城郭研究の軌跡と展望』Ⅱ、城郭談話会)。
 
 蔚山倭城は、大韓民国蔚山広域市中区鶴城(ハクソン)洞に所在し、倭城群の中では最北端に位置する。同市は釜山広域市の北隣に位置し、1980年代以降に現代(ヒョンデ)財閥の企業城下町として急速に発展した。倭城址研究会が1970年代末頃に撮影した写真によると、城跡周囲に田園風景が広がっており今日とは隔世の感がある(倭城址研究会1989「蔚山倭城」『作戦研究 戦国の籠城戦』新人物往来社)。
 
 同城は、蔚山広域市文化財資料第7号に指定されている。太和江(テファガン)の河口に近い左岸で、支流の東川(トンチョン)とがY字形に合流する辺りの、標高50m(比高ほぼ同じ)の「鶴城山」を中心に占地する。戦前から日本人の手により顕彰されてきて、現在は鶴城公園となり市民の憩いの場となっている。近時、新たな解説板(日本語あり)が設置された。
 
 慶長の役の1597(慶長2)年に、毛利輝元が普請を担当して浅野幸長が在番を担当し、翌98(慶長3)年にかけて勃発した「蔚山の籠城戦」では、加藤清正も加勢して守備した。この戦闘では、明・朝鮮連合軍6万人に対し守備軍2300人で応戦し撃退したが(兵力数については諸説あり)、守備兵も冬の寒さと兵糧不足から多くの戦死者を出すに至った(峰岸純夫・片桐昭彦2005『戦国武将合戦事典』吉川弘文館)。
 
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写真1:Ⅰ郭の修築石垣
 
 慶長の役では蔚山の籠城戦をはじめ、泗川(サチョン)の戦い、順天(スンチョン)の戦いで実際に倭城を巡る攻防戦が行われた。これらの戦闘を総称して別名「三路の戦い」とも呼ぶが、いずれも兵力数で上回る攻城軍の猛攻を耐え抜いており、落城した倭城は一つもなかった。
 
 蔚山倭城の築城には、当城から北へ約2km地点に位置し、朝鮮王朝側の蔚山兵営城(同市)の石垣を転用したと伝えられる。Ⅰ郭(本丸)が最高所で主郭である。北と東に枡型虎口AとBを開口するが、特に虎口Aの片脇には横矢枡形Cがあり、攻め手にたいして強烈な横矢が掛かる。石垣の一部は元々残存状態が良くなかったが、近時、石垣の修築工事が行われた(写真1)。なお「天守台」が存在すると紹介する書籍もあるが(加藤理文2014「蔚山城」『倭城を歩く』サンライズ出版)、これは誤認であろう。
 
 同城を描いた絵画史料に『朝鮮軍陣図屏風』(尊経閣文庫蔵)がある。同図は現状の縄張りと比較すると、曲輪配置を模式的に描いている点など絵画史料としての信憑性が低い可能性もあるが、そこには隅櫓は描かれていても天守は描かれていない。もし天守のような象徴的な建物が存在したのであれば、間違いなくそこに描かれるはずであり、やはり同城に天守は存在しなかったと見るのが妥当であろう。
 
 Dは相当石垣が崩れて分かりにくいが、よく見ると根石部分が残り横矢枡形となるが、城郭本体部との繋がりが分かりにくい。Ⅲ郭(三の丸)は東に虎口を開口し、片脇に横矢枡形Eが張り出す。北辺には土塁の残欠が低い高まりとなって残る。
 
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写真2:登り石垣
 
 Ⅳ郭は枡形虎口Fを開口し、隅部から張り出しGを設ける。このⅣ郭は、Ⅰ郭とを2条の登り石垣で連結している。この登り石垣は、筆者が最初に踏査した1990年当時は綺麗に見ることができたが、その後、次第にブッシュ化して埋もれてしまっていた。これを蔚山広域市公認解説ボランティアの金青子(キム・チョンジャ)氏と、釜山博物館学芸士の羅東旭(ナ・ドンウク)氏らが中心となって除草作業を行い、今日再び綺麗な姿が見られるようになった(写真2)。
 
 なおかつては、Ⅳ郭から東方へ延びる外郭線が存在していた。倭城址研究会が踏査した当時は外郭線の一部がまだ残存していたようだが、今では都市化のの波に飲み込まれて完全に消え去ってしまった(倭城址研究会1989)。撮影年代は不明ながら、植民地時代に撮影されたとみられる古写真によると、これに相当する外郭線の土塁が写っている(植本夕里氏のご教示)。ただしその時点でも、既に土塁の半分は耕作地化により低く削られてしまっているのが見て取れる。
 
 蔚山倭城は近年史跡整備が進んでいるが、調査担当者も「日本の城郭石垣を勉強したいが情報が少なくて困っている」旨を人伝に聞いたことがある。こういう時こそ、日韓の研究者が情報交換し合って共同研究することが、今まさに必要とされていると言えよう。
(文・図・写真:堀口健弐)