№28:若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)

 
 若桜鬼ヶ(わかさおにが)城の初踏査は、正確なメモを残していないが、確か1990年3月の、春分の日の連休を利用した頃だっと記憶している。その時は筆者の所属するお城の研究会で、1泊2日の日程で鳥取市周辺の鬼ヶ城や富浦台場、御屋敷遺跡、鳥取城などの城跡を訪ね歩いた。鬼ヶ城ではちょうど、曲輪の一部を発掘調査中であった。さらに地元で精力的に研究をされていた城郭研究家の吉田浅雄氏(故人)の自宅を訪問し、鳥取城攻めの陣城群についてお話しを伺うなど、大変有意義な踏査旅行であった。
 
 その後同会で、若桜鬼ヶ城に関わる総合調査の書籍刊行の話が持ち上がり、1999年3月20~22日の2泊3日の日程で、麓の旅館に宿をとって出版活動に伴う事前の調査旅行を行った。筆者は少しでも現地調査を先に進めたい想いから、個人的に前日の同月19日から一足早く現地入りして、3泊4日の日程で挑んだのであった。
 
 ところが信じられないことに、3泊4日の日程のうち、3日間は全く止み間のない本降りの雨天。さらに最終日は季節外れの、まさかの一面雪景色。筆者は石垣遺構を担当していたが、4日間の滞在期間のうち、現地調査が何一つ行えない最悪の結果となった。そのため行程も、城下の古い町並みの散策や、若桜町歴史民俗資料館の特別の計らいで、鬼ヶ城の出土遺物を拝見させて頂いたりと、大幅に予定を変更せざるをえなかった。
 
 そこで原稿の提出期限に間に合わせるべく、真夏の最も暑い盛りの7月31日~8月1日と、8月20~22日の2度に分けて、今度は鳥取市内のビジネスホテルに宿をとり、毎日、第三セクター若桜鉄道」を乗り継いで鬼ヶ城に通い詰め、石垣の実測調査に精を出した。その調査成果は、翌年に『因幡若桜鬼ヶ城』(2000年、城郭談話会)として刊行された。
 
 それから12年の歳月が流れ、石垣の実測図を作成し終えると、今度は自身で鬼ヶ城の縄張り図を作成したい想いにかられ始め、2011年4月1~3日の2泊3日の日程で、再々度鬼ヶ城を徹底踏査した。山陰地方の春は遅く、当日は桜も開花前で、まだ山のあちらこちらには残雪が見られるなど、少々肌寒く感じた踏査であった。
 
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写真1:天守
 
 さて若桜鬼ヶ城鳥取県八頭郡若桜町に所在する。同町は鳥取県でも東端に位置し、山を一つ越えると兵庫県但馬地域で、地理的・文化的にも近畿との繋がりが強い地域である。
 
 城跡は標高445m(比高230m)の山頂を中心に占地し、かつて城下町も存在した若桜の街並みを見下ろすことができる。山頂部は総石垣造りで、城内には瓦片の散布も認められた(写真2)。現在残る鬼ヶ城の遺構は、1580(天正8)年の木下重堅から1601(慶長6)年の山崎家盛の頃に築かれ、1617(元和3)年に山崎氏が備中成羽に転封となり廃城となった(西尾孝昌2000「若桜鬼ヶ城の縄張り調査」『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会)。
 
 Ⅰ(本丸)が最高所で主郭である。西端に天守台Aを設けるが、東南隅に付け櫓台状の張り出しのある複合式天守である(写真1)。下位の曲輪へ通ずる虎口Bは、外枡形と内枡形の中間的な虎口となる。この主郭を起点に前方にⅡ郭(二ノ丸)、Ⅲ郭(若桜丸)、北側にⅣ郭(三ノ丸)、背後にⅤ郭(ホウズキ段)を階段状に連ねる。
 
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写真2:瓦片の散布状況
 
 Ⅱ郭北側には横矢枡形Dが凸状に突出して横矢による側面防御の要としているが、この種の構造物は文禄・慶長の役に築かれた倭城で多く見られるパーツである。Ⅲ郭の大手に相当する虎口Cは内枡形となる。Ⅳ郭から少し下った地点に擂鉢状の大きな窪みEがあり、井戸跡と見られる。
 
 Ⅴ郭には、現在は埋め戻されて実見できないが、発掘調査でⅠ郭とを繋ぐ虎口が出土した。この虎口はⅠ郭へ直接登れないことから、概報では「行き止まりの虎口」として話題を呼んだが(若桜教育委員会1990『鬼ヶ城遺跡』)、おそらく往時は木製の階段状施設を用いて昇降していたのであろう。
 
 Ⅰ~Ⅴ郭の石垣は、粗割り石を使用して割れ口を小口面とする割肌仕上げで、隙間には間詰石を用いる。特に隅角部の角石は、不揃いながらも直方体に近い形状となり、控えの長さも1:2の比率に近く、左右の引きも意識されており、算木積に近づいている。
 
 Ⅵ郭(六角石垣)は尾根端に位置する曲輪である。平面形が多角形のシノギ角積みに築かれ、石垣の積み方も自然石を使用し、山頂部の曲輪群に比べて古式な印象を与える(写真3)。また城下側から見える面だけを石垣とし、見えない背後は土塁となっている。筆者は当石垣を、木下段階の遺構ではにかと推測している(拙稿2000「若桜鬼ヶ城の石垣―編年上の位置付けと歴史的評価について―」『因幡若桜鬼ヶ城』城郭談話会)。
 
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写真3:六角石垣
 
 主郭群から観て背後の西尾根上には、Ⅶ郭(馬場)が存在する。この曲輪群は石垣を一切使用しない土造りで、一部に削平の甘い箇所も見られる。
 
 このように鬼ヶ城は、小規模ながら総石垣造りで、瓦葺き建物が建ち天守も上がっており、典型的な織豊系城郭であると言える。しかも1617(元和3)年には廃城となっており、織豊期の築城様式を今に残す貴重な遺構と言える。
 
 若桜鬼ヶ城は2008年、国史跡に指定された。鬼ヶ城は訪城のたびに草木が刈られて見学しやすくなったのは良いのだが、立木が少なくなったことが災いして、雨水が直接地面を叩き、表土の流出が激しくなった。事実、石垣下のロープを張った杭列が傾いたり、一部は根こそぎずれ落ちている物も見受けられた。
 
 どうも近年は、どこの自治体も“天空の城”竹田城に憧れてか、樹木を伐採して石垣を見せたがる傾向にある。しかし前述の如く、樹木の伐採のし過ぎは山の崩落を誘発し、ひいては遺構の破壊にも繋がる行為である。是非とも文化財保護と自然保全のバランス感覚をもって、保存に努めて頂きたいと切に願うものである。
(文・図・写真:堀口健弐)