№23:釜山子城台倭城(大韓民国釜山広域市)

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釜山子城台倭城縄張図
 
 前回ブログ記事では釜山倭城(母城)を紹介したが、今回はその続編となる釜山子城台(プサンジャソンデ)倭城である。
 
 釜山子城台倭城は、大韓民国釜山広域市東区凡一洞(ポミルドン)に所在する。都市鉄道1号線「凡一(ポミル)」駅から徒歩で15分程度の立地で、当城も前回ブログで紹介の釜山倭城と同様に“駅前倭城”である。当城は釜山倭城の一城別郭であるが、韓国側では山城の「母城」に対して出曲輪群を「子城台」と呼び、別個の独立した城郭として扱われている。当城は、釜山広域市記念物第7号に指定されている。
 
 以前のブログ記事でも記したが、筆者が初めて倭城を訪城したのは1990年5月のことである。当時はまだ関西空港はなく、大阪国際空港(伊丹空港)から韓国へ向かう時代であった。日本を発つ時は初夏の良い天気だったが,現地に着くと小雨がぱらつく生憎の天気で、傘を差しての踏査となった。そして最初の訪城地が、この釜山子城台倭城だったので、一番最初に訪れた倭城と言うことになる。
 
 今でこそ城郭愛好家も個人旅行で訪れるようになった倭城であるが、当時は城郭研究者でも訪れた人は少なく、「もう一生来ることがないかもしれない」と言った想いであった。そのため参加者も見て回るのに必死で、今や教授を務められるNさんも、短い時間を利用してせっせと縄張り図を描いておられ、「流石だなぁ」と思ったのであった。
 
 釜山子城台倭城は小規模の割に遺構が良く残っおり、しかも交通の便も良いこともあって、旅の“時間調整”としても度々訪れており、数えてみると実に13回の訪城を果たしている。
 
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写真1:鎮城期の鎮南台
 
 釜山子城台倭城は、釜山倭城の東方900mに位置し、標高34m(比高ほぼ同じ)の独立丘に占地する。今では近代以降の埋立で海岸線が後退しているが、朝鮮時代後期の絵画史料や近代の古写真によると、往時は南面が釜山湾に面して、残る三方は丘麓を海水を引き込んだ水堀が巡っていた。
 
 当城は1970年代まで韓国陸軍の管轄となり、民間人の立ち入りが著しく制限されていたが(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、現在は子城台公園として整備され、1974年には朝鮮時代の楼閣や城門などが復元された(現地説明板による)。
 
 釜山子城台倭城は、1592(文禄元)年に毛利秀元が築城し、1598(慶長3)年には寺沢広高が守備を担当した。日本軍撤退後は朝鮮王朝側の鎮城(水軍基地)として再利用され、韓国側では釜山鎮支城とも呼ばれている。江戸時代(韓国では朝鮮時代後期)に行われた朝鮮通信使は、漢城(現在のソウル)を陸路で出発した通信使が、ここから船に乗り換える海路の出発点でもあった。2011年には、丘麓に朝鮮通信使歴史館が開館した。
 
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写真2:天守台石垣
 
 現在、遺構は丘頂に2箇所の曲輪が残る。今は都市開発で消滅したが、1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や1927~32(昭和2~7)年に原田二郎陸軍大佐(後に少将)が作図したと考えられる『九大倭城図』によると(佐賀県教育委委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、丘麓にも1郭を配し、さらにその周囲を惣構が巡る、小規模ながら独立した平山城の様相を呈していた。
 
 Ⅰ郭が主郭である。現在は鎮城時代の楼閣「鎮南台」が建つ。Aは天守台である。現在は公園化に伴い曲輪面と同一レベルに削平されているが、1931年以前に撮影された写真によると、曲輪面より一段高く築かれているのが分かる。北に虎口Bと南にCをそれぞれ開口するが、両方とも石垣は後世の積み直しである。
 
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写真3:滴水瓦
 
 なおⅠ郭東南隅のD地点で、滴水瓦(軒平瓦)の破片を見つけた。写真向かって右端部が残存する。但し瓦当文様が、復元された楼閣に葺かれている軒平瓦と同紋である。おそらくこの瓦は倭城段階ではなく、17~19世紀代の鎮城段階の瓦と思われる。
 
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写真4:閉塞された虎口E(左手が倭城の石垣)
 
 Ⅱ郭の虎口Eは、石積で虎口を閉塞した痕跡が認められる。本来の導線が見て取れる。この直ぐ西に丘麓へ向けて伸びる“登り石垣”状の遺構が見られる。これは1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や1927~32(昭和2~7)年に原田二郎陸軍大佐が作成したと見られる『九大倭城図』によれば(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集)、登り石垣ではなく丘麓とを繋ぐ斜路として描かれている。本来の導線は、この斜路を登って虎口Eを通るルートであったと思われる。
 
 当城は、朝鮮時代後期に描かれた絵画史料が複数残されている。18世紀代に描かれた『槎路勝区図』(釜山博物館蔵)や、19世紀代に描かれた『東莱譜使節倭施図』(国立晋州博物館蔵)によると、丘頂には鎮南台が建つのみで、鎮城の主要な殿舎は丘麓の総構内を利用しているのが窺える。したがって朝鮮王朝側の倭城再利用は丘頂部分にはおよんでいなかったと考えらえる(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識論」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会、城館史料学会)。
 
 近時、日韓両国の研究者らが中心となり、朝鮮通信使を世界記憶遺産への登録を目指す動きがある。世界遺産もそろそろ飽和状態になりつつあり、登録への道程は険しいだろうが、将来釜山子城台倭城が世界遺産の一部になる日が訪れるかもしれないと、ちょっとそんなことを密かに期待してしまう。
(文・図・写真:堀口健弐)