№35:梁山倭城(大韓民国慶尚南道梁山市)

梁山倭城縄張図
 
 1996年の確か秋頃、梁山(ヤンサン)倭城が土取り工事で消滅するという、ショッキングな情報が飛び込んできた。さっそく筆者が所属するお城の研究会で、破壊前に地表面調査による調査を行い、その記録を残さねばという話しになって、有志で12月20・21の2日間にわたって実地踏査を行った。
 
 韓国は12月に入ると途端に寒くなり、城跡のすぐそばを流れる小川には分厚い氷が張り、寒さを堪えながら各人、縄張り図、石垣、瓦といった決められた役割分担の調査を黙々とこなしたのであった。その時の成果は、既に紙上で報告済みである(城郭談話会1998『倭城の研究』2、他)。
 
 結局この“消滅”情報は誤報であったことが分かり、帰国後に一同胸を撫で下ろしたのであった。しかしこれは決して笑い話ではなく、当時はこのような怪情報も信じてしまうような危機的な状況にあった。倭城は植民地時代に日本政府が史跡指定したものを、独立後の韓国政府もそれを引き継いできた。また倭城自体が寒村に所在するものが多く、開発の手がおよびにくい環境にあったことも幸いした。
 
 ところが1990年代後半頃に入ると、急速に雲行きが怪しくなってきた。その頃から韓国も経済発展を遂げ、特に釜山周辺では新たな高速道路の建設や、釜山新港建設に伴う大規模な埋立と、そのための土取り工事があちこちで行われるようになった。事実この時期には、金海竹島(キメジュクト)倭城(釜山広域市)、加徳(カドク)倭城(同市)、安骨浦(アンゴルポ)倭城(慶尚南道昌原市)、順天(スンチョン)倭城(全羅南道順天市)などが軒並み開発対象となった。
 
 幸いにも各自治体の文化財担当部局が歴史的重要性を訴えた結果、保存、もしくは最小限の破壊で済むように設計変更して、倭城が開発の手から守られた経緯があったのである。
 
 その梁山倭城であるが、初訪城当時の交通手段は国鉄「勿禁(ムルグム)」駅が最寄駅だったが、普通列車が1日数本しか停まらない超ローカル駅であった。その後2000年代に入って都市鉄道2号線が梁山市内まで開通し、2015年には待望の「甑山(チュンサン)」駅が開業した。これにより梁山倭城は、駅から登り口まで徒歩20分ほどで行ける“駅前倭城”の仲間入りを果たしたのであった。
 
 初訪城時は田園地帯に農家が点在する長閑な農村風景であったが、駅の開業と同時に駅前には商業ビルやタワーマンションが相次いで建設され、いきなり新しい街が一つが突然誕生したような賑わいである。それに伴って道路区画も新たに整備され、今春5月の踏査では昔歩いた農道が見当たらず、城跡の登り口へ辿り着くのも一苦労であった。
 
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写真1:梁山倭城遠望
 
 さて梁山倭城は、釜山の北隣に位置する慶尚(キョンサン)南道梁山市勿禁面甑山里に所在する。洛東江(ナクトンガン)の左岸支流の梁山川が合流する沖積地に立地し、標高130m(比高120m)の瓢箪形の小山「甑山」に占地する(写真1)。現在は河道が後退しているが、朝鮮時代後期の1750年代初めに描かれた古地図『海東地図』(梁山博物館蔵)によると、甑山のすぐ南側まで川岸が迫り、漢字で港を意味する「津」と記されている。このことから、往時は洛東江に直接望む水城であったと考えられる。
 
 当城は1597(慶長2)年、黒田長政により築かれた。しかし敵陣に突出しすぎて危険という理由で、僅か1年たらずのうちに廃城となった短命の倭城である。なお現地説明板に「伊達政宗の築城」旨とあるのは、明らかな後世の誤伝である(太田秀春2005『朝鮮の役と日朝城郭史の研究』清文堂)。
 
 縄張りは、山頂とそこから派生する尾根続きの小ピーク上に曲輪を設け、その間を2条の登り石垣で連結し、さらに両翼から山麓に向かって竪堀を落とし、城外側には石垣の周囲に長大な横堀を巡らしている。この横堀は一部で二重になっている。さながら城域自体が1枚の城壁のような印象を受け、その“城壁”に守られるように山麓居館(Ⅳ郭)を設けている。
 
 Ⅰ郭が最高所で主郭である。東西両方向に枡形虎口A・Bを開口し、北東隅に天守台Cを設けるが、この天守台自体が枡形虎口の一翼を担っている。天守台上には2000年代まで、山火事監視用の小さなコンテナハウスが建てられて、監視員が昼間常駐していたが、現在は撤去されている。
 
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写真2:Ⅱ郭の矢穴石垣
 
 Ⅰ郭とⅡ郭とを結ぶ登り石垣の暗部には、南北両方向に虎口D・Eを開口する。
 
 Ⅱ郭は独立性の高い、一種の堡塁的な曲輪である。ここの石垣には矢穴が2か所残る。このうち写真左手の矢穴は、まず輪郭を点彫りして掘る位置を下書きしているが、何らかの理由で断念している(写真2)。これ以外にも矢穴の残る、本来の石垣石と思われる転石が見られる。
 
 ただし当城は、植民地時代に国鉄京釜線の建設用資材として石垣を持ち去ったとされており(太田秀春2008『近代の古蹟空間と日朝関係』清文堂)、これが当時の矢穴か、それとも近代のものかの見極めが難しい。
 
 なお縄張り図上ではあえて図示していないが、今はもう使われなくなった韓国陸軍の演習用陣地が残されており、Ⅱ郭を取り巻くように二重の同心円状の塹壕と、前後の塹壕を連結する交通壕が張り巡らされている。またⅡ郭のすぐ東下にはヘリポートまで設けられている。戦国の世と現在の軍事施設とが同居していて、実に面白い風景である。
 
 Ⅲ郭も小規模ながら、独立性の高い堡塁状の小曲輪となっている。
 
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写真3:山麓居館(Ⅳ郭)
 
 Ⅳ郭は山麓居館である。山城の石垣が高さ3m程度に対して、当曲輪は目測で高さ6mほどもありそうな高石垣を築いている(写真3)。現在は畑に利用されおり、地表には朝鮮時代の白磁椀・皿などの陶片の散布が見られる。おそらくこちらが生活空間の場であったのだろう。
 
 なお山城と山麓居館とは山道で繋がっており、これが本来の城道と思われる。数年前までこの山道は通行可能であったが、今年5月の踏査時には完全に笹竹のブッシュに埋もれてしまって、山道そのものが完全に消滅した。
 
 梁山倭城“消滅”の情報は誤報であったが、同城周辺は開発の速度が速く、急激に環境が変化しつつある。史跡に指定されていることもあり破壊に及ぶ可能性は低そうであるが、何とかこのまま良好な状態で、後世に受け継がれていくことを願うばかりである。
(文・図・写真:堀口健弐)