№19:新宮城(和歌山県新宮市)

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新宮城縄張り図

 新宮城は和歌山県新宮市に所在し、別名を「丹鶴(たんかく)城」または「沖見(おきみ)城」とも呼ぶ。JR紀勢線「新宮」駅からだと、徒歩で15分程度の場所である。現在は「丹鶴城公園」となり、近年、国史跡に指定された。

 
 前回ブログ(№18:機張倭城)でも紹介のように、筆者は和歌山県の出身で、今も南紀に実家がある。しかし同じ県内とは言っても、新宮市は県の最東端に位置して、熊野川を越えればもう三重県である。実家からだと電車で片道二時間ほどかかるので、初訪城は遅くて、お正月休みを利用した2002(平成14)年1月4・5日のことである。この時は2日がかりで、主に石垣調査を行っている。
 
 次の訪城はそれから少し空いた3年後の2005(平成17)年で、同じくお正月休みを利用して1月5・7・8日の3日がかりで縄張り調査を行った。それらの成果は、既に紙上で発表済みである(拙稿2010「新宮城の縄張り」『和歌山城郭研究』9、和歌山城郭調査研究会)。
 
 また当地は、詩人・佐藤春夫の出身地でもある。筆者はこの分野に造詣が無いが、母校・県立熊野高校の校歌が佐藤の作詞だったこともあって、名前だけは以前から知っていたのであった。

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写真1 新宮城下町遺跡から新宮城をのぞむ
 新宮城は熊野川の右岸、標高50m(比高40m)の通称「丹鶴山」に占地する平山城で、全山総石垣造りの近世城郭である。当地は自動車交通が発達する昭和20年代頃まで、熊野川を利用した材木の筏流しなど林業が主な産業で、街も林業関係者を当て込んだ旅館や飲食店などで大層賑わったそうである。
 
 当城は、1601(慶長6)年に浅野忠吉によって築かれたが、一国一城令により一旦廃城となる。しかし1618(元和4)年になって再築が許可されるが、浅野はその後、広島へと転封になってしまう。その後に入封した水野重仲によって再築は続行され、1633(寛永10)年に漸く完成を見た。以後、1873(明治6)年まで新宮藩2万8千石の居城として栄えることとなった(水島大二1980「新宮城」『日本城郭大系』10、新人物往来社)。 
 縄張りは、山頂の山城部分にⅠ郭(本丸)、Ⅱ郭(鐘の丸)、Ⅲ郭(松の丸)、Ⅳ郭(出丸)を連ねて、さらに山麓のⅤ郭(二の丸)と、河畔のⅣ郭(水の手)によって構成される。
 
 Ⅰ郭が主郭である。南隅に天守台を設けるが、江戸時代のいくつかの絵画史料によると三層の天守が描かれている。しかし明治時代初頭に天守内部に入ったことのある男性が昭和まで生きておられて、内部は5階建てだったと証言している。このことから、外観3層内部5階の層塔式天守に復元する案もある(西ヶ谷恭弘1982『城』日本編、小学館)。
 
 1980年代前半、地元から要望で模擬天守建設の話しが持ち上がった。この計画は実現寸前までいったものの、結局は“大人の事情”で計画倒れに終わった。しかし今となっては、学術的および遺跡保存の立場から寧ろそれで良かったと思う。

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写真2 浅野期の石垣
 Ⅱ郭の東面には、新宮城版“二様の石垣”とも呼ぶべき新旧の石垣が、切り合い関係になって残っている。下部は一般的に「打ち込みハギ」と呼ばれる、粗割り石の隙間に間詰石を入れる積み方で、築石(つきいし)には矢穴列が並ぶ。このような石垣は、筆者の編年案では概ね慶長後半期に相当する(拙稿2002「城郭石垣の様式と編年―近畿地方寛永期までの事例を中心に―」『新視点 中世城郭研究論集』新人物往来社)。
 
 この古式の石垣に覆い被せるように、切石の間地(けんち)積石垣が積まれているが、これは寛永期以降に盛行する石積技術である(前掲文献)。すなわちこの箇所が、創築段階の浅野期の石垣である。城内には他にも2・3カ所ほど、同形式の石垣が見られるが、数少ない創築期に遡る浅野期の遺構として非常に重要である。
 
 Ⅳ郭は、城郭本体から独立した格好になっているが、詳細に観察するとⅠ郭側に虎口を閉塞した痕跡があり、往時は廊下橋で連結していたのであろう。
 
 Ⅴ郭(二の丸)は、事実上の山麓居館である。現在は幼稚園や民家の敷地となっていて踏査が憚れるが、建物の合間を縫うようにして石垣が現存している。
 
 Ⅵ郭は、「水の手」と呼ばれているが実際は船着き場で、当城が水運交通を重視していた現れである。踏査時は幸運にも発掘調査中か終了直後のようで、ブルーシートもかけずネットフェンスも巡らしていなかったので、良好な状態で観察することができ、炭納屋群の遺構などが出土していた。
 
 ところで製作年代は不明ながら、浅野期の新宮城を描いた城絵図『紀州熊野新宮浅野右近大夫忠吉居城古図』(三原市立図書館蔵)によれば、Ⅲ郭とⅣ郭の先端からⅥ郭にかけて、山頂部と河畔とを連結するように2条の土塀が描かれている。現状では石垣や土塀の痕跡を確認できないが、おそらく往時は、実際にそのような構築物が築かれていたのであろう。

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写真3 出丸から水の手と熊野川をのぞむ

 

 このように山上と山麓とを一体化しつつ、港を城内に取り込んだ縄張りは、文禄・慶長の役で開花した倭城の技術で、帰還後に日本国内に逆輸入して築かれた城郭の特徴である。
 
 新宮城は、和歌山県内では和歌山城に次ぐ近世城郭遺構であり、保存状態も概ね良好である。しかも山城・山麓居館・船着き場がセットで良好に残存する、稀有な城郭と評価できる。
(文・図・写真:堀口健弐)