№46:倭城オフ会2025(前編)

 2025年5月1~4日に3泊4日の日程で、今年で2回目となる倭城オフ会を行った。倭城オフ会とは、オンライン会「城飲み、諸説あり」の韓国に残る倭城を巡るスピンオフ企画である。旅行代理店は通さずに、参加者は各人で航空券(または乗船券)とホテルを予約していただき、現地での交通費や食事代はその都度各人払い、交通手段は電車やバスなどの公共交通機関を基本とする。今年は筆者を含めて4名の参加があり、僭越ながら筆者が水先案内役を務めさせていただいた。近時旅行会社が企画している倭城を巡るパックツアーよりも、だいぶんお安く抑えられると思う。
 以下に前後編の2回に分けて、当日の概要を報告するものである。

5月1日 曇りのち雨
 一足先にフェリーで釜山に上陸を果たしていた筆者は、釜山国際空港へ空路にて到着する後発組を待って合流を果たす。再開の挨拶もそこそこに、本日の目的地である梁山(ヤンサン)倭城(慶尚南道梁山市)を目指す。梁山倭城は1592(慶長2)年、毛利秀元小早川秀秋らによって築かれたとされる。

写真1 梁山倭城の矢穴

 ニュートラムのような自動操縦の釜山金海軽鉄道と都市鉄道(地下鉄)2号線を乗り継いで、最寄り駅の「甑山(チュンサン)」駅で下車。午前中はまだ薄日が刺していたが、駅を降り立った頃には、今にも振り出しそうな雲行。そして登山口に着いた頃にはポツリポツリと小雨が降りだした。折り畳み傘を差して一同山頂を目指す。山頂の本丸に着いた頃には、雨も既に本降りとなっていたが、傘を差しながらの見学となった。
 踏査中、参加者の一人が、石垣に新たな矢穴を発見した。これまで同城では、矢穴の残る石垣が1か所と、矢穴が穿たれた転石が1個確認されていたが、新たに1個を追加することとなった。矢穴は台形で、1石に2個が並んで穿たれていた(写真1)。

写真2 釜飯の定食

 雨足も強くなってきたので下山するが、下山して駅に向かう頃には益々風雨が強くなり、傘を差していても下半身がびしょ濡れになる有り様だった。冷え切った体を温めるべく、晩御飯は釜山駅前で温かい釜飯の定食をいただいた(写真2)。

 

5月2日 晴れ

 都市鉄道1号線と市外バス(急行バス)を乗り継いで、最初の訪城地の熊川(ウンチョン)倭城(慶尚南道昌原市)を目指す。熊川バス停を降り立つとすぐに朝鮮王朝側の熊川邑城が目に飛び込んでくるが、それを横眼に一路熊川倭城を目指す。同城は1593(文禄2)年に小早川隆景上杉景勝らが築城し、小西行長が城主を務めた。縄張りの巧妙さと登り石垣の圧巻さでは、倭城の中でも西生浦(ソセンポ)倭城と並んで2トップと言えるほどである。

写真3 熊川倭城の三角矢穴

 踏査中にまたも参加者の一人が矢穴を2か所で発見した。同城ではこれまで矢穴の存在が知られていなかっただけに、それだけでも大成果だった。そのうちの一つは“コンビニおにぎり”のような隅丸三角形の矢穴が、1石に2個穿たれていた(写真3)。三角形の矢穴は朝鮮半島の統一新羅時代に多い技法で、日本には無い技術である(廣瀬覚・高田祐一2021「日韓古代国家成立期における石工技術の比較研究」『日韓文化財論集』4、奈良文化財研究所学報)。これをどう解釈するかも今後の新たな研究課題として浮上した。

 下山後、再び熊川邑城に戻って、城壁の上で事前に朝買っておいたキムパプ(韓国式海苔巻き)などで遅いお昼ご飯を食べる。その後城壁を半周しながらの見学となった。同城は朝鮮王朝によって15世紀に倭寇の侵入に備えて築かれた。文禄の役では日本軍に攻め落とされ、日本軍も一時期駐屯していた。同城は近年、発掘調査を基に修築・復元された箇所も多いが、今でも当時のままに遺構を残す部分もある(写真4)。

写真4 熊川倭城の現存石垣

 現在はだいぶん崩れて高さは2mぐらいになっているが、往時はこの倍ぐらいの高さがあったのであろう。

 ここからローカルな路線バスに乗り換えて、本日最後の目的地である安骨浦(アンゴルポ)倭城(同市)を目指し、「安骨浦初校」バス停で下車してその後は徒歩の行程。同城は同じく1593(文禄2)年に、水軍の将の脇坂安治九鬼嘉隆加藤嘉明の3将が交代で守備した。

写真5 安骨浦倭城

 この3将は同じ水軍でありながら仲が悪かったとも言われているが、それを物語るかのように一つの縄張りの中に本丸に相当する曲輪が3か所あり、それぞれに天守相当の櫓台を上げるという、まるでルームシェアのような城郭である。日本国内ではまずお目にかかれない、変わり種の縄張りであると言えよう(写真5)。

(文責・写真:堀口健弐)