№16:2016秋・倭城踏査速報

 今春に引き続き、2016年11月2日㈬から同月6日㈰にかけて、5日間(実質中3日)の倭城踏査を行った。今年は秋の深まりが早く、筆者の住む関西では11月の声を聞く前から早や晩秋の佇まいであった。韓国入国の初日は少し肌寒く感じられたほどであったが、翌日からは雲一つない連日の“日本晴れ”が広がった。
 
 今次踏査の主目的は、子馬(チャマ)倭城の徹底調査であった。筆者は通常10日間程度の日程で倭城踏査を行うのが常だが、少し同城を舐めていたところもあり、今回は異例の短い踏査旅行であった。しかし結果論であるが、これが災いとなって縄張り調査があと一歩で終わらずに、非情に心残りな結末となってしまった。
 
 ただ韓国は、一昔前と比べると随分と敷居が低くなった。筆者は近時、航空会社はエアプサン(アシアナ航空の別ブランド)を利用しているが、今回の運賃は日曜日帰国の便でも往復1万6千円であった。これが平日帰国の便だと、往復1万3千円である。関西から東京まで新幹線で往復すると3万円近くもかかる時代に、である。
 
 ちなみに筆者が韓国を訪れだした1990年代は、JALの正規料金の往復航空券がなんと8万円で、これを格安チケットで購入すると6万円になり、「良い買い物ができた」と喜んでいたのも今は昔の話しである。
 
 そのため、上記の事情により縄張り調査が完了していないため、今号は写真中心の速報を報告するものである。
 
11月3日㈷ 晴
 
 事実上の初日は、子馬倭城に残る「日本式遺構」とされる縄張り調査である。子馬倭城は、標高240.7m(比高ほぼ同じ)の通称「子馬山」一帯に占地する。山頂に立てば、明洞(ミョンドン)倭城、熊川(ウンチョン)倭城、安骨浦(アンゴルポ)倭城、それに海峡を挟んで永登浦(ヨンドゥンポ)倭城、加徳(カドク)倭城、加徳支城の7城を同時に一望できるほど眺望の効く要衝の地である。
 
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子馬倭城遠望
 
 城主は対馬宗義智とも実しやかに伝えられるが、史料上は本当に日本軍が駐屯したのかさえも判然としないらしい。しかし同山中に「日本式遺構」が存在することが、高瀬哲郎氏によって文章のみで報告されている。それによれば「大堀切」や「7~8条の連続する竪堀(いわゆる畝状竪堀)」が存在するとするとされ(高瀬哲郎2000「倭城跡を訪ねて(2)」『研究紀要』6.佐賀県名護屋城博物館)、これについては今春の踏査で、既に遺構の存在を確認済みであった(高瀬氏が言うところのB・C地点)。
 
 この日は、畝状竪堀群のあるC地点の縄張り図作成に没入した。山頂部は自然地形の平坦地のままで、人工的な曲輪にはなっていない。しかしそこから少し下った所に、低い石積が数カ所に存在していた。これは織豊系の高石垣ではなく、日本国内の中世城郭に見る石積のような恰好である。また韓国特有の墓域に伴う結界の石垣の可能性も考えたが、それとも異なっていた。
 
 なお筆者が確認した「竪堀」は合計6条を数えた。
 
11月4日㈮ 晴
 
 本日は、山頂付近の縄張り調査である。同倭城は、山頂から南斜面にかけて堀と石塁を楕円形に巡らす、小規模ながら典型的な朝鮮式山城である。おそらく当城より南西方向の麓に築かれた、熊川邑城の逃げ込み城として築かれたのであろう。
 
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子馬倭城(山頂部)縄張図
 
 その内部は、削平が甘いながらも数段の曲輪状に造成されている(拙稿2011「倭城の縄張りについて(その5)」『愛城研報告』15、愛知中世城郭研究)。通常、朝鮮式城郭は空間を城壁で囲郭することに主眼をおき、日本の城郭では当たり前過ぎる「曲輪」と言う概念自体が存在しない。もしかすると前述の曲輪状地形は、日本軍による改修であるかもしれない。
 
 しかし山頂の曲輪群から続く東尾根上(図中上方)には、削平の甘い3~4段の曲輪を直線状に連ね、その周囲を1~2段の帯曲輪が取り巻いている。曲輪は造成の甘い箇所もあり、一部に石塁とも自然の露岩とも判断しかねる物体が存在するが、土塁、高石垣、発達した虎口などは見られない。
 
 この点だけを取って見ると、本当に城跡かどうかも疑わしく感じられてしまうが、遺物の散布が一定量認められたので、ここが近代以前の何らかの遺跡であることだけは間違いない。
 
 曲輪面には獣が掘り起こしたと思われる穴がいたる所にあって、そこから滴水瓦と見られる軒瓦の小片、白磁、陶器、それに韓式系土器のような表面に格子目叩きのある赤茶けた土器片や、須恵器のような叩き目のある陶質土器なども散見された。但し白磁片が見られることから、遺構の時期が朝鮮時代に下るのは確実である。
 
 そして曲輪群を少し下った地点に、竪堀を2条を掘削して(土橋を掘り残した堀切りと呼ぶべきか)、尾根前方を遮断している。これが高瀬氏が言うところの、B地点の「大堀切り」に相当する。
 
 当日は縄張り図作成に没頭したものの、秋の早い夕暮れに阻まれて作業を切り上げねばならなず、後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く下山したのが心残りであった。
 
11月5日㈯ 晴
 
 この日は“倭城ナビゲーター”植本夕里女史と釜山市の沙上(ササン)バスターミナルで待ち合わせて、釜山市の北方に位置する慶尚(キョンサン)南道密陽(ミリャン)市の密陽邑城、その他の史跡などを踏査した。
 
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嶺南楼
 
 密陽邑城は1479(ソンジョン10)年に築かれた。「邑城」とは、街全体を城壁で取り囲んだ言わば“都城のミニチュア版”である。城内の衛東山中腹には、平壌城(北朝鮮)、晋州城(慶尚南道晋州市)と並んで“韓国三大楼閣”の一つに数えられる嶺南楼(ヨンナムヌ)が現存する。韓国では単層建築でも「楼閣」と呼んでいるが、高床式なので靴を脱いで上がってみると結構見晴しが良い。筆者は晋州城も実見しているが、こちらのほうが“古刹”の雰囲気が醸し出されていて好きである。
 
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密陽邑城
 
 その足で、近年復元整備された邑城の城壁を見学する。同城は遺構の残存状態が悪くて大半が復元物だが、それでも史跡指定を受けている。日本の隅櫓に相当する角楼(カクル)には楼閣も復元されているが、雉城(チソン:横矢掛かりの突出部)が手抜き工事だったのか、それとも設計ミスだったのか、早くも大きく崩壊していて残念な結果であった。
 
 その後、夕里さんのご推薦で、古びた商店街の中にある地元でも人気のテジクッパ(豚骨スープの雑炊のような韓国のB級グルメ)専門店を訪れ、少し遅めの昼食を摂る。あまり清潔とは言い難い店内であったが、お味の方は評判どおりの美味であった。
 
 
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密陽市立博物館
 
 お腹も脹れて、夕暮れまでの短い時間を利用して密陽市立博物館を見学する。同じ「市立博物館」でも、その規模たるや筆者の勤める職場とは雲泥の差ほどもある。館内は大きく古代の考古遺物、近世の書画資料、近代の独立運動、それに古生物の化石や恐竜の骨格模型などの自然史系の4コーナーで構成されていた。筆者は恐竜などの古生物も嫌いではない方なので、思いがけないサプライズとなった。
 
 高速バスで元来た沙上に戻って、“最期の晩餐”はテジカルビ(豚の味付け焼肉)を食す。さらに席をビアホールに移して、お城談義に花を咲かせてつつ沙上の夜はふけていったのであった。
 今回の子馬倭城徹底調査は、当初の目論みでは早ければ1日、遅くても2日あれば余裕と楽観視していたのが、見通しが甘くて図面があと一歩のところで完成しなかった。まるで韓国に魂を置き忘れてきたかのような、煮え切らない複雑な心境である。
 
 本音で言えば明日直ぐにでも再訪韓したいところだが、現実問題として11月は公私ともに行事が多くて、どうしてもこれ以上日程を割くことができない。また韓国は12月に入ると、川も凍りつくほど途端に寒くなるので、寒さに弱い筆者にとっては厳しい季節に突入してしまう。
 
 そのため次回の倭城踏査は、3月16日㈭~21日㈫の6日間(中4日間)に早くも決定した。勿論、主たる目的は子馬倭城の再々徹底調査で、既に航空券も購入済みである。その踏査成果は来春か遅くても夏前迄には、まだ誰も見たことのない縄張り図を添えて発表することを約束したい(蛇足ながら「約束」は韓国語でも「ヤクソク」)。
(文・写真:堀口健弐)