コラム:昭和14年発行『釜山城址』について

 先日インターネットで調べものをしていたら、期せずして思わぬ掘り出し物に出くわした。筆者はネット検索で城郭研究の情報収集をすることは少ないのだが、こと倭城と朝鮮考古学に関しては紙媒体の情報自体が少ないので、小まめに何か新しい情報が出ていないか頻繁にチェックしている。たとえ個人の旅行記的なブログであっても、そこから得られる情報が少なくなく、上手くいくと韓国で刊行された発掘調査報告書(もちろん韓国語だが)をダウンロードできることもある。

写真1 『釜山城址』表紙(Auclfreeより引用)

 そんななかで思わず目に留まったのが、今回紹介する『釜山城址(釜山観光叢書第二集)』なる小冊子である。これはWEBサイト『Aucfree』に掲載された画像3点と、簡単な解説文による。同書は1939(昭和14)年発行で、縦15㎝✕横11㎝、本文14頁+写真3頁+図面2頁の計19頁からなる小冊子である。そこから芋蔓式に辿っていくと、Yahoo!と提携する台湾のオークションサイト『楽淘』には、同書と見られる目次と奥付の画像2点が掲載されていた。それによれば発行は釜山観光協会で、著者個人の記名はない。

 同書はインターネットオークション「ヤフオク」に2019年4月2日に出品され、同年4月8日に1万7050円で落札されており、既に個人ユーザーの手に渡っている。

 釜山城址=釜山倭城とは、文禄・慶長の役で1592(文禄元)年に築かれた、日本軍の朝鮮半島側における司令塔的な倭城である。普請は毛利輝元・秀元が担当し、諸将が交代で在番を担当した。城は標高125m(比高ほぼ同じ)の小高い山頂部に築かれ、さらに海岸線の独立丘には一城別郭の独立性の強い出曲輪群を設けた。韓国側では山城を「母城」、出曲輪群を「子城台」と呼び分けている。両城とも遺構は比較的良く残るが、母城の方はあくまでも公園として整備されているため、城跡感に乏しいものとなっている。

 さてこの小冊子掲載の倭城図は、管見ではこれまで戦前の倭城研究史で紹介されたことがなく、その意味でも大変貴重な史料だと言える。

 釜山倭城を描いた測量図(縄張図)は、近代から現代にかけて複数存在する。特に戦前の植民地時代に作成されたのもにスポットを当てると、1909(明治42)年に陸軍築城本部が作成した『築城史料』や、1927~32(昭和2~7)年頃に原田二郎陸軍大佐(最終階級は少将)が作成したとみられるいわゆる『九大倭城図』(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、1936(昭和11)年に内務省釜山土木出張所が作成した『釜山市街地計画図』(釜山近代歴史館蔵)などがあるが、同書掲載の図はこれまで知られていたものとは異なっている。

 まず表紙には、釜山倭城と思われる石垣のスケッチ画が描かれている。その右横には「鎮海湾要塞司令部検閲済」と記されている。鎮海湾要塞とは旧日本海軍が1904(明治37)年から鎮海湾沿岸に建設を開始した砲台群の総称で、1942(昭和17)年に釜山要塞と改名した。

 戦前には「要塞地帯法」という法律があり、要塞や軍港周辺はたとえ自分の土地であっても、写真撮影、スケッチ、測量などが厳しく禁止されていた。それらを行いたい時は最終的に陸軍大臣の許可が必要で、許可なく行うと懲役刑が科せられた(学習研究社2003『日本の要塞-忘れられた帝国の城塞』)。おそらく本書は詳細な地形などの軍事情報がないと判断されて、検閲を通過したのあろう。

写真2 「釜山日本城」(Aucfreeより引用)

 写真2は釜山倭城の鳥瞰図で、本書では「釜山日本城」と記されている。図中では方位の表記がないが、図面上側が北になる。等高線や山容が描かれていないのは、軍事機密に規制されてのことであろう。釜山倭城の鳥瞰図は倭城址研究会の図があるが(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、それ以外では初見である。

 これを見ると現状は概ね本来の姿を保っているが、詳細に観察するといくつかの差異が確認できる。まず主郭の天守台が曲輪面より一段高く描かれているが、現在はグランドに利用されているため曲輪面と同レベルに削平されている。主郭の図面右手には内枡形虎口を開口するが、ここは落とし積みの新しい石垣で閉塞されている。もっとも倭城址研究会の縄張図や写真にもこれと同様の状態が確認できることから(倭城址研究会1979『倭城』Ⅰ)、現在見る姿に改変されたのは1980年代以降であろう。

 主郭を取り巻く下位の曲輪には、図面左上方に内枡形虎口を開口するが、ここも同様に新しい石垣で閉塞されている。同じく下位の図面下側の曲輪は左上端が破線で描かれており、この当時から既に石垣の上端のが崩落した状態であったと思われる。下位の曲輪の図面上方には独立した櫓台が描かれているが、現状では曲輪面と同レベルに削平されており、その痕跡すら確認できない。

写真3 「釜山鎮子城臺」(Aucfreeより引用)

 写真3は釜山子城台倭城の縄張図で、本書では「釜山鎮子城臺」と記されている。先の図と同様に図中には方位の表記がないが、図面左手が北になる。また等高線は描かれていないが、小丘のためなんとなく山容が分かる。同倭城は小規模ながら保存状態がよく、現状も掲載図と大差ない。

 ただし1点だけ異なるのが、主郭の図面左下に一段高く天守台を描く点である。ここも現状では曲輪面と同レベルに削平されている。1931年以前に撮影されたとされる古写真でも主郭より一段高い天守台が写っているので(釜山都市鉄道1号線「佐川駅」構内で行われたミニ写真展『佐川歴史物語』より)、これはある程度は想像できたことではあるが。よく見ると、天守台の主郭に面した図面右手のみに石垣が描かれ、図面上方には描かれていないことから、もしかするとこの頃から破壊が進行していたのかもしれない。

 さて本書掲載の釜山倭城図は、著者本人が調査して作図したものなのか、それとも既存の図面の引用、あるいは先行図から描き写したものなのかについては、本文が読めないために判然としない。仮に本文が読めたとしても、文中にその旨が記されていない可能性もあるのだが。しかし戦前に作成されたいくつかの釜山倭城図と比較すると、いずれの図とも微妙に細部の描写が異なっている。このことから同図は、著者本人による作図の可能性もあると考えられる。

※掲載写真は総てWEBサイト『Aucfree』から引用した。記して感謝申し上げる。

(文:堀口健弐)