№5:2016春・倭城踏査速報(前編)

 5月27日㈮から6月5日㈰にかけて、9泊10日(実質中8日間)の倭城踏査を行った。筆者自身としては実に1年半ぶりとなる韓国で、前回からは少々時間が空いてしまった。今年の春の大型連休は例年になく暦の並びが良くて、筆者の勤務形態だと少し休暇を取得するだけで10連休になる計算…であったが、あえてその時期に渡海せずに連休にもならないこの時期を選んだ理由は唯一つ、それは従来からの懸案事項であった東莱(トンネ)倭城の縄張り図を作成するために他ならなかった。
 
 詳細は「後編」で記すが、東莱倭城(東莱邑城)は山火事防止の措置から、実に1年間のうちの半分以上にあたる11月から5月までの期間を入山禁止としており、そのこともあって未だ世に出た縄張り図が存在しないのである。
 
 さて今次踏査旅行では、作図途中の縄張り図も含めて倭城と韓国側の関連城郭の計5城を作図することができた。それらの成果は『愛城研報告』今夏号に投稿予定の他、当ブログでも順次報告していきたいと考えているが、今回はその速報として、前・後編の2回に分けて概要を報告するものである。
 
 踏査旅行の大半は、当ブログでも度々お名前が登場する“倭城ナビゲーター”植本夕里氏と行動を共にしたが、今回は筆者が案内するよりも、逆に案内される場面の方が多くなって、すっかり立場が逆転してしまった感がある。
 
 時刻表やバス路線図などをせっせと手帳に書き写すアナログ派の筆者に対して、女史はスマートホン2台とタブレット端末1台を駆使して、路線バスの乗り継ぎ方法から美味しいと評判のお店までネット検索で徹底的に調べ上げるなど、その姿は筆者とは実に好対照であった。
 
 以下は、事実上の移動日にあたる初日と最終日を除く、行程前半の旅日記である。
5月28日㈯ 曇のち晴れ
 
   加徳支城縄張図
 
 事実上の初日は、まず釜山市郊外の加徳島(カドクド)に所在する加徳支城へ。同城は、高麗時代末期~朝鮮時代初頭頃(13世紀代)に築かれた朝鮮式山城を日本軍が占拠して駐留していたとされ、内城と外城からなる二重構造を採る。このうち外城の西半部については2010年5月5日段階で既に図化済みであったが、そこから先は遺構が存在しないものと認識していた(拙稿2010「倭城の縄張りについて(その4)」『愛城研報告』14、愛知中世城郭研究会)。
 
 ところが『ハンギョレ新聞(日本語版)』2015年11月3日付けによると、釜山博物館とハンギョレ新聞社との合同調査により、新たに外城の石垣などが発見されたとのことで、終日、追加の縄張り図作成を行った。
 
 夕刻、釜山市内随一の繁華街である西面(ソミョン)のロッテ百貨店前で待ち合わせして、韓国では珍しい(?)日本の城郭や戦国時代ファンの朴光柱(パク・グァンジュ)さんと会食。焼肉店に入って、城郭談義に花を咲かせつつ、韓国料理の定番であるサムギョプサル(豚の焼肉)に、締めはこれまた定番のテンジャンチゲ(味噌仕立てのチゲ鍋)に舌鼓を打った。
 
 そろそろお開きの空気が漂い始めた頃、朴さんはトイレに立つふりをして3名分の会計を済ませてしまって、我々2名分の飲食代をご馳走になってしまった。「チャルモゴッスムニダー(ご馳走様でした)」。
 
5月29日㈰ 小雨のち晴れ
 
 当日は昌原(チャンウォン)市の子馬(チャマ)倭城の出曲輪探しに出かける予定で、下端(ハダン)のバス乗場で待ち合わせたが、お互い待ち合わせ場所を勘違いしていたようで中々落ち合えず。1時間ほど待った末に諦めて帰ろうとしかけたところ、漸く落ち合うことができた。が、心を折られるように小雨がぱらつき始めたので、お城には行かずに急遽釜山博物館の見学に切り替えた。
 
 釜山博物館は何度となく訪館経験があるが、目が変わるだけで“新たな発見”があるものである。常設展と、偶然にもこの日が最終日の特別展では、朝鮮時代後期(17~19世紀代)に描かれた釜山鎮支城(釜山子城台倭城)や、金海竹島(キメジュクト)倭城周辺の古地図を観覧することができて、今後の倭城研究にも大いに役立ちそうな予感である。
 
 館内の売店にて、『釜山覆瓦』と言う“電話帳”くらい分厚い図録を購入したが、古代瓦から朝鮮時代の滴水瓦まで貴重な写真が満載で大満足であった。しかも過去に倭城踏査でお世話になった同館学芸士の羅東旭(ナ・ドンウク)氏の特論まで所収されていて、大変良い買い物をすることができた。
 
   蓮山洞古墳群
 
 博物館を出る頃には、すっかり初夏の青空が戻っていた。お城に出かけるには時間が中途半端なため、釜山都市鉄道1号線「蓮山(ヨンサン)」駅近くにある蓮山洞(ヨンサンドン)古墳群を踏査することに。
 
 この古墳群は2014年に史跡整備されたばかりの、まだ新しい古墳公園である。特に展示館を併設しているわけでも、石室内部が見学できるわけでもなかったが、日韓の古代史や古墳文化を考えるうえでも外せない遺跡であり、是非とも本物の空気を味わいたかったためである。同古墳公園は、墳丘に芝生が張られて地元民の散歩コースになるなど、市民の憩いの場となっていた。
 
5月30日㈪ 晴
 
   泗川邑城縄張図
 
 本日は単独行動で、終日、泗川(サチョン)市の泗川邑城を踏査する。泗川市外バスターミナルが、移転して新しくなっていていたのにはちょっと驚いた。
 
 この城郭は、「泗川の戦い」として有名な朝鮮王朝側の邑城である。2001年11月23日の初踏査時にはほぼ現状の復元がなされていたが、史跡整備と言うよりも公園化に伴う城郭風模擬石垣と言ったところであった。
 
 2006年に東続き部分が発掘調査されたことから(東亜細亜文化財研究院2006『泗川邑城東門址発掘調査現場説明会』)、さらなる復元整備がされているものと期待しての再訪城であった。しかし予想に反して期待したほどの復元は進んでいなかったが、それでも「雉城(チソン)」と呼ばれる横矢掛かりの張り出し部分などが新たに追加復元されていた。
 
5月31日㈫ 晴
 
イメージ 5
東三洞倭城
 
 午前中はまず、釜山市内の影島(ヨンド)に所在する東三洞(トンサムドン)倭城へ。この倭城は、文字通りの“城の跡”とでも言いたくなる状況である。同城は何度か訪城経験があるものの、遺構の残りの悪さから中々“創作意欲”が湧かずにこれまで未図化であったが、午前中の短い時間を利用して縄張り図作成を行った。山頂の平坦地がかつての曲輪跡であるが、周囲を巡る石塁は明らかに近年の所産である。また東から北斜面にかてのの雛壇状地形も、おそらく後世の段々畑であろう。
 
 早々と縄張り図を描き上げた後、一旦南浦洞(ナンポドン)に引き返して、人気の平壌冷麺の名店にて遅めの昼食をとる。
 
   多大浦鎮城石垣
 
 午後からは、文禄の役の開戦の火蓋が切って落とされた「多大浦(タデポ)の戦い」の舞台でもある多大浦鎮城を踏査する。同城は2013年5月4日に一度単独での踏査を試みたものの、場所が分からずに辿り着くことすら叶わなかった。同城は、平地に築かれた平面形が五角形に近い縄張りであるが、完全に都市化の波に飲み込まれて、断片的に石垣が残る程度となっている。なるほど、これでは水先案内人なしでは中々見つからないはずである。ここでは縄張り図作成は断念して、写真撮影に専念した。
 
 踏査途中、不意に「堀口さん!」と背後から声をかけられた。しかし外国のかの地で、しかも日本語で自分に声をかける人などいるはずもなく「空耳が聞こえるほど早くも旅の疲れが出てきたか…」と思いながら後を振り向くと、な、なんと釜山博物館の羅東旭さんではないか…!ちょうどコンビニ前に置かれたテーブル席に腰掛けて、休憩中のご様子であった。
 
 聞けば来年釜山博物館で開催される特別展のため、同僚2名と共に倭城や関連史跡を調査中との事であった。勤務中の事でもありあまり長話もできなかったが、同僚の方々と名刺交換をし、羅さんにはアイスクリームをご馳走になってしまった。「コマッスムニダー(ありがとうございました)」。
 
※一部、機械的制約で文中にお見苦しい点があります。
(文・図・写真:堀口健弐)