№7:要害山城(和歌山県西牟婁郡白浜町)

 

 

要害山城縄張図
 
 要害山城は、和歌山県西牟婁郡白浜町(世間で言う南紀白浜)に所在する。この白浜町にはもう一カ所、JR白浜駅の裏山に同名の「要害山城」があって頗る紛らわしい。そのため当城は、別名の「馬谷(うまんたに)城」の名で呼ばれることもある。
 
 実はこの要害山城は、筆者の実家のわりと近くである。筆者は高校へは電車通学だったので、毎日のように車窓から城跡のある丘を眺めていた。もっとも中学生の頃から中世城郭に興味を持ち出したものの、この丘が城跡である事を知ったのは暫く経ってからのように記憶している。
 
 この城跡はいつでも行けるという思いがあってか、近くを徒歩で通り過ぎた経験は何度もあると言うのに、意外と初訪城は遅かった。2007年の正月休みを利用した1月4日に、筆者の同級生で現在は和歌山城郭調査研究会々員の城友に車で連れられる格好で、漸くその機会に恵まれた。その後早くも同月28日には、「熊野水軍のさとシンポジウム」の午前中見学会で2度目の訪城を果たしている。
 
 さて要害山城は、標高90m(比高80m)の山塊のから続く尾根のピーク上に占地する。数字だけを聞くと低い丘のような印象を受けるが、尾根続き以外の三方は急峻な斜面となっていて結構登りづらい。
 
 また当城の麓を、熊野古道大辺路(おおへぢ)が通る。熊野古道田辺市から北ルートの中辺路(なかへぢ)と、南ルートの大辺路の二手に分岐する。この道は戦後間もない頃までまだ生活道路として使われていたほどで、街道の出入り口に睨みを効かせる役目があった事は想像に難くない。今では登山する覚悟で挑まねばならない山道も、国鉄(現・JR)紀勢線が全通する昭和20年代まで生活道路だったとは、地元民でさえも今となっては想像がつかない。
 
 当城の来歴は文献史料が残らないために不明であるが、同町(合併前の旧・日置川町)に拠点を置いた熊野水軍の一派である安宅(あたぎ)氏に関わる城郭と見られている(白石博則2014「要害山城」『図解 近畿の城郭』Ⅰ、戎光祥出版)。その関連で過去に同町教育委員会により、測量調査や遺構確認の小規模な発掘調査が行われている。
 
写真1:曲輪に残る石積と石段
 
 縄張りは最高所に主郭を設けて、西向きに低い土塁を巡らす。これより西に土塁囲みの曲輪と、東にも曲輪を連ねて、所々に低い石積みや曲輪間を繋ぐ石段などが残る。この城の最大の特徴は、西斜面と北斜面に横堀を巡らして、そこから合計11条もの竪堀を落としている点である。踏査当時は、町教委によって測量調査が行われた直後とあって、竪堀群周辺の樹木が伐採されて非情に観察しゃすくなっていた。
 
 もう一つの特徴は、尾根続きの背後を6条の連続堀切で遮断している点である。南斜面は元々が相当な急崖のたに防御施設はないが、先の畝状竪堀群と連続堀切と併せて、敵を寄せ付ける隙のない構造となっている。
 
写真2:横堀から落とす竪堀群
 
 ところで1980年代末より、大阪府堺市から和歌山県西牟婁郡すさみ町とを結ぶ高速道路(近畿自動車道松原―すさみ線)の建設が始まった。和歌山県は全国的にみても高速道路後進地であったこともあって、地元でも歓迎する空気があった。工事は大阪府側から随時南進しながら行われ、いよいよ工事が南紀に差し掛かったが、その予定コースの先には要害山城がある。
 
 当初の計画案では、前述の連続堀切をカット工法で切通しにする予定であった。当然そうなると貴重な連続堀切は、露払いの発掘調査を行った後に工事で消滅していく運命が待ち構えている。それに危機感を抱いた地元や和歌山城郭調査研究会らが、設計変更を求める声を上げた。2004年に熊野古道世界遺産に登録されたことも、反対派にとっては追い風になってくれた。
 
 結局、県側と国土交通省との協議の末に歴史的価値が認められ、連続堀切の下をトンネル工法で通す案に設計変更された。当然トンネル工法を選択すれば、費用も時間も多く要するわけであるが、それを決断した国交省側の英断にも感謝したい。
 
 近時、同城を訪城された城郭愛好家のブログやツイッターを拝見すると、城跡と高速道路との距離の近さに驚かれているようだが、それは上記のような経緯があっての事である。そのような目で見直すと、同城の存在意義もまた違って見えてくることと思う。
(文・図・写真:堀口健弐)