№6:2016春・倭城踏査速報(後編)

6月1日㈬ 晴
 
 本日は遂に、今次踏査旅行の最大の目的である東莱(トンネ)倭城の踏査である。
 

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  チュンニョルサから東莱の街並み望む

 
 まずは、丘麓に祭られている忠烈祠(チュンニョルサ)へ。「忠烈祠」とは、文禄の役(壬辰倭乱)における「東莱邑城の戦い」で、玉と砕けた朝鮮王朝側兵士の霊を祭る廟のことである。記帳を拝見すると、日本人観光客らしき名前も時折散見されるが、さすがにこの背後に日本式城郭が眠っているとは思っていないのであろう。ここで英霊へのお参りを済ませてから、いよいよ本日の踏査活動開始である。
 

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  東莱倭城と踏査中の筆者(植本夕里氏撮影)
 
 東莱倭城は忠烈祠のすぐ裏手に位置し、山火事防止の措置から11月1日~5月31日の7か月が入山禁止となり、普段はネットフェンスを巡らして施錠されている。当日は入山解禁初日であったが、地元の人達も待ちかねたように訪れていた。山頂には朝鮮時代の「東将台」(城内の最高所に築かれる櫓)が復元されており、2・3のグループが早速お弁当を広げたり酒宴(?)を催したりしていた。やはり城跡は、地元民の憩いの場所となって保存されてこそと、改めて実感させられた。
 
 当城では、終日縄張り図作成に時間を充てた。たとえ遺構の断片でも残っているのであれば、これを図面化して公表することで、一人でも多くの城郭愛好家に同城の存在を知ってもらいたいと願いからであったが、期待以上の成果を得る事ができた。勿体ぶらせるわけではないが、記述の重複を避ける意味から詳細は項を変えて、当ブログにて出来るだけ早い段階で報告する事を約束したい。
 
6月2日㈭ 晴
 

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  望晋倭城縄張図
 
 当日は2度目の単独行動である。先ずは晋州(チンジュ)市の望晋(マンジン)倭城へ。
 
 当倭城は、洛東江(ナクトンガン)の支流である南江(ナムガン)を挟んだ対岸の晋州城攻略のために、日本軍が陣を置いた場所とされている。この晋州城を巡って、1592(文禄元)年と93年(同2年)の2次にわたり、有名な「晋州城の戦い」が繰り広げられた激戦地でもある。
 
 望晋山の山頂部は、現状は「望晋山体育公園」となってアスレチック用具などが置かれているが、文字通り「晋州を望む」事ができる格好の位置である。但し数段の削平地が存在するものの、石垣・土塁・堀と言った防御施設が一切見られず、本当にここが城跡なのかと疑ってしまいたくなる。
 
 しかし詳細に観察すると、点数は少ないが地表面に古式の朝鮮白磁片の散布が見られることから、近代以前にこの地で何らかの人々の営みがあった事だけは確実のようである。とにかく何を説明するにも“画”がないと説得力を欠くので、ここでもとりあえず縄張り図作成に勤しむ。
 
 この山頂から少し下った地点に、朝鮮時代に築かれた望晋山烽火台が復元されているが、ここが唯一の見所と言ったところだろうか。
 

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  晋州城遠望
 
 縄張り図が完成すると、足早に次の目的である晋州城へ。当城は過去にも何度か訪城経験があるので軽く流して、本日のお目当ては、同城内に建つ国立晋州博物館にて図録類を購入する事である。『泗川』と言うこれまた分厚い図録を購入したが、1915~17年に撮影された泗川倭城の古写真が9点ほど所収されていて、当時の遺構や旧地形を復元するうえで大いに参考になりそうである。
 
6月3日㈮ 晴
 
 この日は先日果たせなかった、昌原(チャンウォン)市に所在する子馬(チャマ)倭城の出曲輪探しの復讐戦(リベンジマッチ)である。
 

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  熊川邑城

 

 先ずは“前哨戦”として、朝鮮王朝側の熊川邑城をちょっと見学する。当城の東辺から一部南面にかけて石垣が史跡整備されて、東楼門(日本で言う櫓門)も復元されている。しかし西辺には、「私たちの事も忘れないでね…」と言わんばかりに、今もなお民家に埋もれながらも城壁がしっかりと現存しているのであった。
 
 その後、いよいよ懸案の子馬倭城へ。高瀬哲郎氏によれば、山頂の曲輪群以外にも、B地点に「大堀切」と、鞍部に「三重の土塁」(二重堀切と呼ぶべきか)と、C地点に「7~8条の連続する竪堀」が残存するとの報告である(高瀬哲郎2000「倭城跡を訪ねて(2)」『研究紀要』6、佐賀県名護屋城博物館)。踏査の結果、確かに上記遺構を確認するも、今回は縄張り図は作成せず遺構の確認作業に専念した。
 
 ここから目と鼻の先の熊川倭城でも、湾岸道路建設に伴う事前の発掘調査により畝状竪堀群が出土しており、もはや倭城で畝状を使用していても不思議ではないと言える。ただ子馬倭城C地点では、時期不明の低い石積などが見られたものの、頂部に曲輪と言える削平地がが存在しないため、直ちにこれを城郭遺構と認定して良いか否か、今少し慎重になりたい。
 

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  梁山倭城山麓居館
 
 その後釜山市内に戻り、時間が中途半端に余ったので梁山(ヤンサン)市の梁山倭城をちょっと見学する。数年前に釜山都市鉄道2号線の北進に伴い「甑山(チュンサン)」駅が新設されたが、なぜかこれまで電車はこの駅を素通りして、終着駅の梁山駅に直行していたのであった。が、昨秋ついに開業したとの事で、早速同駅に降り立ってみた。
 
 筆者ら城郭談話会が最初に訪城した1990年代後半は、古びた民家が点在する鄙びた農村地帯であった。それが駅の開業に伴い、駅前周辺には高層マンションやら一戸建て住宅、それにショッピングモールなどが続々と建設中で、突然田園の中に新しい街が一つ誕生したかのような賑わいであった。
 
 試しに梁山倭城の山麓居館まで自身の足で歩いてみたが、駅から徒歩で20分程度の近さの“駅近物件”であった。これにより梁山倭城も、釜山倭城や亀浦(クポ)倭城と並んで、ついに“駅前倭城”の仲間入りを果たしたのであった。
 
6月4日㈯ 曇のち雨
 
 本日は、長いようで短かった倭城踏査旅行も、遂に事実上の最終日である。
 

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  梁山邑城
 
 先ず梁山市の梁山邑城へ。この城跡は文禄の役の開戦当初に、小西行長隊によって攻められ落城した邑城で、是非とも自身の目で確認してカメラのレンズに収めたかったのであった。この邑城も都市化の波に飲み込まれて、思い描いていた以上に残存状態が悪く、僅か2か所に石垣を残すのみとなっている。
 
 前掲写真では、路地裏に面して辛うじて石垣が残っているのが分かる。朝鮮式城郭の石垣は、先ず根石を水平に据えて、そこから少し後退させた位置から石材をほぼ垂直に近い角度で積み上げるのを特徴としているが、当遺構もその特徴を良く残している。
 

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  梁山博物館(後方が古墳群)
 
 踏査を終えた頃、小雨がぱらつき始めたので急ぎ梁山博物館へ。聞き慣れない名前の博物館だったが、それもそのはず開館してまだ3周年目の新しい博物館で、日本考古学界でも有名な夫婦塚(プブチョン)古墳の麓に建っている。展示内容は先史時代から近代まで一通りあるが、目玉は何と言っても三国時代(日本では古墳時代に相当)の古墳出土遺物である。特に前述の夫婦塚古墳は、豊富な副葬品もさることながら、植民地時代に日本の古墳調査隊によって発掘調査されたことから、日本の考古学史を語る際にも度々紹介されるほど有名な古墳である。
 
 博物館を出る頃には、雨は本降りになっていた。同館裏手に復元整備された墳丘が見え、今なお発掘調査中なのかブルーシートが被せられている。傘を差して踏査しようかとも考えたが、無舗装の山道が続くだけなので断念し、遠巻きから写真撮影するに留まった。
 
 早めに釜山市内の西面(ソミョン)に戻り、“最後の晩餐”は「ティッコギ」と呼ばれる、豚の骨にこびり付いた肉と白菜キムチやもやしキムチと一緒に鉄板で焼く焼肉に舌鼓を打った。料理を平らげると今度はビールバーに席を移して、夕里さんと倭城談義に花を咲かせつつ、釜山の夜は更けていったのであった…。
 
 今次踏査旅行では、よほど日頃の行いが良かったのか、幸運にも天候に恵まれる事ができた。梅雨入り前の時期なので、滞在中に2・3日は雨に祟られる事を見越して予定を組んでいたのだが、連日の好天に早々と縄張り図の“ノルマ”を達成しまう嬉しい誤算もあった。この時期日本では涼しかったそうだが、釜山では連日のように30℃超えの真夏日を記録し、強い日差しが皮膚に突き刺して、この滞在中だけで随分と真っ黒に日焼けしてしまった(普段から黒いと言われそうだが…)。
 
 とにかく今次踏査旅行は、期待以上に収穫の多い踏査旅行であった。また滞在中にお世話になった羅東旭(ナ・ドンウク)氏、朴光柱(パク・グァンジュ)氏、植本夕里氏に、この場をお借りして感謝の意を表したい。チョンマル カムサハムニダ(本当にありがとうございました)。
(文・写真:堀口健弐)