№8:順天倭城(大韓民国全羅南道順天市)

 

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順天倭城縄張図
 
 順天(スンチョン)倭城は、釜山広域市より西方へ130km余りの全羅(チョルラ)南道順天市海龍(ヘリョン)面新城(シンソン)里に所在し、倭城築城網の中では最西端に位置する。
 
 当城は、全羅道記念物第171号に指定されている。1597(慶長2)年、後世に“築城の名人”と謳われた藤堂高虎宇喜多秀家と共同で普請(築城)し、小西行長が在番(守備)を担当した。倭城では、普請担当と在番担当の武将が異なる事がままある。黒田や加藤と言った秀吉子飼いの武将は自前で倭城を築いているのに対し、織豊系城郭の築城ノウハウを持たない九州系大名などには、豊臣政権側が城郭を用意して在番に当らせているのである。
 
 倭城で実際に戦闘が繰り広げられたのは、蔚山(ウルサン)倭城(蔚山広域市)と泗川(サチョン)倭城(慶尚南道泗川市)、それにこの順天倭城の3城である。1598(慶長3)年に勃発した「順天の戦い」では、明・朝鮮連合軍が小西行長が守備する同城を包囲するも、難攻不落を誇る当城の攻略を断念した。その後小西は同城を放棄して撤退を開始し、南海(ナメ)島の南側を迂回して、撤退時の集合場所に指定されていた巨済(コジェド)島への脱出に成功した(旧参謀本部編1995『朝鮮の役』徳間文庫、他)。
 
 さて順天倭城を最初に訪城したのは、1997年11月のことである。筆者の所属するお城の研究会により、同月1~3日の3日間にわたって縄張り・石垣・遺物などの総合調査を行い、その成果は既に紙上で発表済みである(城郭談話会1998『倭城の研究』2)。
 
 当時城跡から見下ろすと、丘の直ぐ麓まで波打ち際が迫り、眼前には光陽湾の紺碧の海が広がっていた。しかし今同城に立つと、産業団地「全南(チョンナム)テクノパーク」建設に伴い沖合まで埋め立てられて、赤茶けた更地に工業団地の建物が建ち始めている。一方で当時同行した城友の中には、埋立後の現在の姿を知らない者もいる。彼らが現在の風景を見たとしたら、“浦島太郎”のような気持ちになるのだろうか。
 
 当城の縄張りは、海岸に面した標高60m(比高ほぼ同じ)独立丘に母城を築き、地続きを遮断すべく3重の外郭線を築き、倭城群の中では最大の城域面積を誇る。近年の埋立以前にも、近代に干拓事業が先行して行われており、往時は三方を海に囲まれた岬状の地形であった。かつて外郭線の一つは「海水を引き入れた水堀であった」と、日本語が話せる地元古老からお聞きした。最も外側の外郭線は、土塁または石垣と空堀からなり、低くなだらかな丘陵地帯の頂部を縫うように築く。途中の何カ所かには、堡塁的な突出部を設けている。
 
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写真1:修築前の天守台石垣(19997年撮影)
 
 主郭の奥部は“詰の丸”風に一段高くなり、ここに天守台を設ける(写真1)。この天守台には矢穴(石を割るクサビを入れる穴)の残る角石を多用し、石材の規格・量産化の萌芽が見られる。さすが“築城の名人”と謳われた高虎の片鱗を見ることができる。また明国の従軍画家が描き残した絵画史料『征倭紀功図鑑』よると、三層白亜で二層目の床が初層よりも張り出す「南蛮造り」で、最上層は廻縁を巡らした“岩国城”似の天守が描かれている。
 
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写真2:主郭発掘現場(2004年撮影)
 
 2004年4月30日の訪城時には、偶然にも順天大学校が主郭の一部と「大手門」を発掘調査中であった。この時は関係者は誰もおらす、トレンチ(調査区)の中には下りなかったが、ちょっと写真を撮らせてもらった。主郭の調査は、石垣天端にトレンチを数本入れて断面観察を行っていたが、裏込め石が極端に薄いか、もしくはほとんど無いに近い状態で、これには少し驚いた(写真2)。
 
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写真3:大手門発掘現場(2004年撮影)
 
 1997年の初訪城時、「大手門」は土塁状であったが、発掘調査の結果、表土を剥ぐと石垣が姿を現した。実測用に50㎝間隔の水糸を碁盤目状に割付ているので、残存高は最高所でも1.5mくらいだろうか(写真3)。この「大手門」も、2011年5月5日の訪城時には石垣を積み直して復元されていたが、高さが倍以上になっていて流石に“盛り過ぎ”の感があった。
 
 先に記したように、当城では石垣の修築が行われている。しかも過去に2度も、である。現在、埋立事業が進んでいるのは前述したが、当初は城跡のある丘を切り崩して、その土で埋め立てる案が浮上した。つまり土取り計画によって、一時期消滅の危機に瀕したのである。
 
 これに危機感を抱いた管轄の順天市が、先に史跡整備をして既成事実を盾に取り「ここは史跡だから開発させない」として破壊から救ったのだと、ある日本人研究者からお聞きした。と、ここまでなら美談として語り継がれるところだが、肝心の石垣の積み直し方が勾配をあまり付けずに、日本風でなかったことが韓国側・日本側共に不評であった。
 
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写真4:修築後の天守台(2011年撮影)
 
 そこで永らく肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の発掘調査や史跡整備を担当された日本人研究者を招聘し、一度積んだ石垣を一旦解体して、異例とも言える2度目の修築が行われた(天守台の修築は1度のみ)。その結果、日本式の城郭石垣が見事に蘇ったのであった(写真4)。この修築は韓国側でも好評だったようで、後日この日本人研究者は順天市より表彰されている(『佐賀新聞』2005年3月27日付)。
 
 このように整備の在り方にも紆余曲折があり、全く問題がないわけではない。が、それでも同城を史跡として保存し活用しようとする現地の方々の姿勢には、頭が下がる思いである。
 最後に余談めいた話題を一つ。筆者が勤める街には、何の因果か城跡が一つもない。文献史料に登場する城郭は2・3あるものの、現在では所在地さえ特定できない状態となっている。しかし過去に一瞬だけ、城郭~それも倭城に急接近したことがあった。
 
 もう何年も前の話しだが、筆者が勤める市と順天市とが姉妹都市提携を目指して交流していた時期があった。お互いの市長が相手の市を訪問し合い、関係も順風満帆のように思えた。ある時、当時の上司から「市長が順天倭城を訪問するので、資料を提供してほしい」と頼まれたこともあった。残念ながら今はもう閉鎖されてしまったが、市長が順天倭城を訪れた時の模様が、市長の個人ブログに写真入りで掲載されていた。
 
 しかしその後の市長選挙で、緊縮財政を唱える政党の候補者が当選したため(4年後の選挙では落選)、この姉妹都市計画も水泡に帰してしまった。筆者の目の前に忽然として姿を現した順天倭城は、蜃気楼のようにはかなく消え去っていったのであった。
(文・図・写真:堀口健弐)