№4:泗川倭城(大韓民国慶尚南道泗川市)

   泗川倭城縄張図
 
 泗川(サチョン)倭城は、釜山から見て西方90㎞ほどの泗川市に所在する。1597(慶長2)年に長宗我部元親・毛利吉成が普請担当し、島津義弘・忠恒が在番した(黒田慶一1996「巨済島の倭城」『倭城の研究』1、城郭談話会)。泗川倭城は、現地では船津里(ソンジンニ)城と呼ばれている。植民地時代には旧城主の子孫らが城跡の顕彰に努め、独立後は船津里公園として市民の憩いの場となってきた。近年史跡整備がなされたが、これについては後述する。
 
 倭城の中で実際に戦闘が行われたのは蔚山倭城、順天倭城、それに泗川倭城の3城だけだが、いずれも兵力数で下回りながら明・朝鮮連合軍を撃退している。1598(慶長3)年に勃発した泗川の戦いでは、攻め寄せる明・朝鮮数万の大軍に対して(兵力数については諸説あり)守備する島津軍7000の兵力で撃退に成功し(北島万次2005「文禄・慶長の役」『戦国武将合戦事典』吉川弘文館)、朝鮮側からは「鬼島津」と呼び恐れられたと云う(異説あり)。
 
 当倭城は、標高30m(比高ほぼ同じ)のなだらかな低位丘陵に占地し、西側を泗川湾に臨む。丘陵の最も奥まった地点(図面左手)に母城を築き、高麗時代(918~1392)に築かれた通洋(トンヤン)倉城の城壁を外郭線に取り込んだ縄張りとなっている。
 
 「倉城」とは、徴収した租税を盗賊や敵対勢力から略奪されぬよう一旦備蓄するための城郭であるが、縄張り上は「№3:旧永登邑城」で紹介した鎮城と大差ない。このように朝鮮側の既存城郭を倭城の外郭線に取り込んだ事例は、機張倭城、安骨浦倭城、固城倭城などで類例があるが、当城もその御多分に漏れずである。
 
 さてYAHOO!マップなどの衛星画像を見ると、城跡周辺はまるで定規で引いたように直線的な海岸線が続くが、これらは近代以降の干拓事業による人工的な海岸線であろう事は容易に想像がついた。
 
 ところがひょんな事から、その裏付けが取れたのである。“倭城ナビゲーター”植本夕里氏から韓国土産に頂いた展示図録に泗川倭城が紹介されていて、地形図も掲載されている。その地形図には右書きの漢字にカタカナでルビ打ちされているので、植民地時代(おそらく大正末~昭和初期頃)に日本人の手で作られた事は間違いない。
 
 それによれば城跡のある丘の北側は、潮受け堤防と調整池らしき様子が描かれて干拓途中のようである。一方の南側は入り江が深く入り込んでいる。つまり往時は、三方を海に囲まれた岬状地形であった事が判明した(国立晋州博物館2016『西部慶南の城郭』)。
 
 泗川湾は遠浅で干潮時は沖合まで干潟と化すので、海側からの兵士による上陸攻撃はまず不可能に近いであろう。残る地続きの東側に鉄砲隊など火力を集中させれば、少ない守備兵でも兵力数で上回る明・朝鮮軍に対して、互角以上の戦闘が可能であったと思われる。
 
   写真1:泗川倭城天守台(2007年撮影)
 
 さて泗川倭城を始めて踏査したのは1997年10月31日で、その後7回ほど訪れている。2007年5月3・4日に関東の城友たちと踏査した時、たまたま天守台を発掘調査中であった。発掘と言っても天守台下半部に堆積した土砂を除去するような調査のようであったが、当日は誰も関係者は誰もおらず、フェンスなどで囲われているわけでもブルーシートを掛けているわけでもなかったので、ちょっと見学させてもたった(写真1)。
 
 その翌年の2008年4月27・28日に同城を改めて訪城した際、思わず我が目を疑った。同城は元々石垣の残存状態は良くなかったが、それを日本風の綺麗な石垣に積み直していて、しかも城門まで復元されていたのである。史跡整備に伴う事前の発掘調査で、城門の礎石配列などは確認しているそうであるが、上屋構造については一切絵画史料が残っていないため、日本の城郭の典型例として姫路城を参考にしたそうである。
 
   写真2:泗川倭城外郭線の堀(2007年撮影)
 
 さらに外郭線の土塁は土盛りして復元され、小さな展示館も併設されていて、文字通り“盛り過ぎ”ではないかと感じてしまう整備である(※)。他の韓国城郭の事例であるが、聞くところによると史跡整備は請け負った会社任せのために、このような事が起こってしまうらしい。
 
 もっとも日本の城跡整備でも、発掘調査は文化財保護課が行い、史跡整備は公園管理課が行うため、調査成果が整備に生かされなかった事例をいくつも知っているので、決してかの国だけを批判する事もできないのだが…。
 
※泗川倭城の現状については、WEBサイト:夕里「倭城ナビ」を参照されたい。
(文・図・写真:堀口健弐)