倭城 の検索結果:

№8:順天倭城(大韓民国全羅南道順天市)

順天倭城縄張図 順天(スンチョン)倭城は、釜山広域市より西方へ130km余りの全羅(チョルラ)南道順天市海龍(ヘリョン)面新城(シンソン)里に所在し、倭城築城網の中では最西端に位置する。 当城は、全羅道記念物第171号に指定されている。1597(慶長2)年、後世に“築城の名人”と謳われた藤堂高虎が宇喜多秀家と共同で普請(築城)し、小西行長が在番(守備)を担当した。倭城では、普請担当と在番担当の武将が異なる事がままある。黒田や加藤と言った秀吉子飼いの武将は自前で倭城を築いてい…

№6:2016春・倭城踏査速報(後編)

…である東莱(トンネ)倭城の踏査である。 チュンニョルサから東莱の街並み望む まずは、丘麓に祭られている忠烈祠(チュンニョルサ)へ。「忠烈祠」とは、文禄の役(壬辰倭乱)における「東莱邑城の戦い」で、玉と砕けた朝鮮王朝側兵士の霊を祭る廟のことである。記帳を拝見すると、日本人観光客らしき名前も時折散見されるが、さすがにこの背後に日本式城郭が眠っているとは思っていないのであろう。ここで英霊へのお参りを済ませてから、いよいよ本日の踏査活動開始である。 東莱倭城と踏査中の筆者(植本夕里氏…

№5:2016春・倭城踏査速報(前編)

…日(実質中8日間)の倭城踏査を行った。筆者自身としては実に1年半ぶりとなる韓国で、前回からは少々時間が空いてしまった。今年の春の大型連休は例年になく暦の並びが良くて、筆者の勤務形態だと少し休暇を取得するだけで10連休になる計算…であったが、あえてその時期に渡海せずに連休にもならないこの時期を選んだ理由は唯一つ、それは従来からの懸案事項であった東莱(トンネ)倭城の縄張り図を作成するために他ならなかった。 詳細は「後編」で記すが、東莱倭城(東莱邑城)は山火事防止の措置から、実に1…

№4:泗川倭城(大韓民国慶尚南道泗川市)

泗川倭城縄張図 泗川(サチョン)倭城は、釜山から見て西方90㎞ほどの泗川市に所在する。1597(慶長2)年に長宗我部元親・毛利吉成が普請担当し、島津義弘・忠恒が在番した(黒田慶一1996「巨済島の倭城」『倭城の研究』1、城郭談話会)。泗川倭城は、現地では船津里(ソンジンニ)城と呼ばれている。植民地時代には旧城主の子孫らが城跡の顕彰に努め、独立後は船津里公園として市民の憩いの場となってきた。近年史跡整備がなされたが、これについては後述する。 倭城の中で実際に戦闘が行われたのは蔚…

№3:但馬竹田城(兵庫県朝来市)

…が朝鮮半島に築いた「倭城」の技術を日本に逆輸入して築かれたことなどを明らかにした(城郭談話会1991『但馬竹田城』)。 筆者はその頃まだ新入りで執筆者ではなかったが、この研究書はその後の但馬竹田城研究の礎となる内容であったと自負している。 写真1:北南千畳の石垣に残る矢穴(2012年撮影) さて筆者は、最近改めて但馬竹田城の石垣に興味を駆られている。同城の石垣は、一般的に「打ち込みハギ」と呼ばれる自然石や粗割り石で積まれた石垣で、切石は一切使用していない。しかし詳細に石垣を観…

№2:旧永登鎮城(大韓民国慶尚南道巨済市)

…る(*城郭談話会編『倭城の研究』1では「旧永邑城」と紹介したが、正しくは旧永登鎮城であり今回より呼称を変更する)。 当城は韓国巨済島の北端に位置する。永登浦倭城の北麓に占地し(詳しくは前回ブログ「№1:永登浦倭城」を参照)、遺構の保存状況が比較的良好なことから慶尚南道の史跡に指定されている。永登浦倭城のある大峰(テボン)山を背にして、眼前は巨済島と本土に挟まれた加徳(カドク)水道で、鎮海(チネ)湾と外洋とを繋ぐ東側の出入り口となる海上交通の要衝である。 この旧永登鎮城は149…

№1:永登浦倭城(大韓民国慶尚南道巨済市)

永登浦倭城縄張図 当ブログの最初の報告は、韓国の巨済(コジェ)島に残る永登浦(ヨンドゥンポ)倭城である。 永登浦倭城は巨済島の北端に位置する。同島は釜山にほど近い韓国で2番目にに大きな島で、本土との間が内海「鎮海(チネ)湾」となり、リアス式海岸が発達していて古来より天然の漁港となっている。鎮海湾を挟んだ対岸は安骨浦(アンゴルポ)倭城の位置する龍院(ヨンウォン)で、今もフェリーが発着する水運の要衝地である。この巨済島には文禄・慶長の役の際には、日本軍によって倭城が4城ほど築かれ…