№10:東莱倭城(大韓民国釜山広域市)

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東莱倭城縄張図
 
 東莱(トンネ)倭城は、釜山広域市東莱区に所在し、標高105m(比高75m)の望月(マンウォル)山に占地する。当城が占地する望月山は、山火事防止の措置から1年間のうち11月1日から翌年5月31日までの、実に7カ月間が門扉を閉ざして入山禁止となる。日本人にはピンとこないかもしれないが、韓国では山火事が非常に多く深刻な社会問題となっている。そのため空気が乾燥する晩秋から初夏にかけて、程度に差はあるものの入山禁止となる山が多い。
 
 当城の初訪城は、1999年5月3日である。現在、この時期は入山禁止時期となっているが、当時は5月でも入山できていて、その頃よりも警戒が厳重になっていることに驚かされる。しかし当時は東莱邑城築城に伴い、倭城の遺構は完全に破壊さて残らないものと思い込んでいた。地質学の世界には「知らない物はあっても見えない」と言う言葉があるが、本当にそのとおりで、その時は倭城の遺構は全く目に入らず、邑城の写真だけを撮って下山した記憶がある(写真1)。
 
 事態が動き始めたのは、訪城から一月とたたない同年5月29・30日、九州大学で開催された第1回倭城研究シンポジウムでの事である。釜山博物館の羅東旭(ナ・ドンウク)氏が、消滅したと考えられていた東莱倭城に「竪堀」が残ることを報告された(羅東旭1999「釜山市域新発見の倭城遺構」『倭城の研究』3、城郭談話会)。最初は半信半疑のところもあったが、そのうちたとえ遺構の残欠でもあれば、縄張り図化してこれを後世に伝えたいという思いに駆られ始めたのであった。
 
 しかし入山可能期間は6月から10月までのため、山城歩きにも休暇を取得するにも厳しい時期であるが、ついに意を決して踏査に臨み、2016年6月1日に2度目の訪城を果たしたのであった。
 
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写真1:東莱邑城の城壁
 
 その東莱倭城は、「東莱邑城」として釜山広域市指定記念物第5号に指定されている。1592(文禄2)年に吉川広家が築城し、守備も担当した。現在山麓には、文禄の役の開戦当初の「東莱邑城の戦い」で討ち死にした、朝鮮兵士の御霊を祀る忠烈祠(チュンニョルサ)が建立され、城跡も同社務所の管理となっている。
 
 倭城は港を確保する目的で、海岸線や河岸に築かれるのが常套であるが、当城はそのどちらにも面していない。釜山と言えば港街を連想しがちだが、これは20世紀初頭に朝鮮王朝が鎖国を解いて開港した以後の姿である。開港以前はここ東莱が政治・経済の中心地であったため、戦略的にこの地を掌握しておく必要があったためであろう。
 
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写真2:東莱邑城壬辰倭乱歴史館
 
 前述のとおり、当地は小西行長が攻略した「東莱城の戦い」の地でもある。但し戦闘が繰り広げられたのは倭城のある望月山ではなく、ここから西方の平地に築かれた邑城(前期東莱邑城)であった。
 
 現在は地表面に遺構を残さないが、都市鉄道4号線建設工事に伴う事前の発掘調査で、石積の堀や刀傷痕のある人骨、日朝双方の武器類などが多量に出土した。その後に開業した地下鉄寿安(スアン)駅構内に東莱邑城壬辰倭乱歴史館が開設され、遺物の出土状態などが原寸大で再現されている(写真2)。
 
 その後、日本軍撤退に伴い倭城の遺構と重複する格好で、1731(英祖7)年に望月山と北隣の馬鞍(マアン)山とを結ぶ長大な城壁の邑城(後期東莱邑城)が再築された。
 
 
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写真3:東莱邑城の東将台
 
 さて東莱倭城の縄張りだが、城内を南北に横断する城壁は後期東莱邑城の遺構である。倭城の遺構としてはⅠ郭が主郭で、現在は邑城時代の楼閣「東将台」が復元されている(写真3)。ここから出土状況は不明ながら、滴水瓦(軒平瓦)が採集されているが(羅東旭2015「朝鮮時代釜山地域城郭出土葺瓦」『釜山葺瓦』釜山博物館)、これは小西行長の居城・麦島城(熊本県八代市)出土の滴水瓦と同笵瓦(同じ版木で作られた軒瓦)であることが確認された(高正龍2007「豊臣秀吉朝鮮侵略と朝鮮瓦の伝播」『渡来遺物からみた古代日韓交流の考古学的研究』科研報告)。
 
 Ⅰ郭より南東斜面には比較的面積のある削平地が続くが、これが倭城時期の曲輪の痕跡と思われる。特にⅡ郭は最も面積が広く、東隅のAが僅かに張り出すが、横矢掛かりの張り出しの可能性もある。
 
 これより下方一帯は、兵士の駐屯地とも近代の段々畑とも判断しかねる雛壇状地形が山麓まで延々と続くが、ここは入山時期でも順路外のために立ち入りはできず、未調査のままである。
 
 北尾根には2条の堀切B・C残るが、これは本来、尾根上から斜面にかけて掘られた堀切が、近年の駐車状建設で尾根上部が削り取られた結果、一見すると羅氏が報告したように「竪堀」に見えてしまうのである。また先端部はマンションの敷地の手前で終わっているが、これも本来はもう少し長かった可能性もある。また東尾根にも短い堀切Dがある。
 
 倭城の縄張りは、城域と城外とを区画する箇所を堀切で遮断することはあっても、曲輪間には堀を掘らないことと、堀切B・CとDに区画される範囲に比較的広い削平地が存在することから、この範囲が狭義の城域ではないかと考えたい。
 
 また倭城の跡地に邑城が築かれた事は前述したが、邑城の城壁はⅠ郭を避けるようにして直下を迂回し、その後、直角に近い角度で方向転換して山麓に下る。通常、朝鮮式城郭の城壁は、単純に直線あるいは曲線的に築かれるが常であり、これは極めて不自然である。もしかすると邑城の城壁は、倭城の基の縄張りに影響あるいは規制されて築かれた結果とも考えられる。
 
 ところで1927~32(昭和2~7)年に日本の軍人・原田二郎陸軍大佐(後に少将)が作成した通称『九大倭城図』の「東莱城図」と比較すると(佐賀県教育委員会1985『文禄・慶長の役城跡図集』)、東将台が復元工事により改変されたⅠ郭を除けば、当時とほぼ変わらない姿が残されていることが判明した。これはひとえに、山火事防止咲措置に加えて忠烈祠の敷地に当ることから、手厚く保全されてきた結果であると前向きに評価したい。
(文・図・写真:堀口健弐)